人の不幸は教訓として

タイタニック号観光潜水艇事故。(観ていないけど)TVなどではそれなりに報道がされていたのではないかと思う。私が最初に関連記事の見出しを読んだ時に感じたのは、もう既に亡くなったか生きていても確実に助からないなということ。そして次に、どうしてそうなったんだろうという原因についてだ。

ニュース、あるいは情報とは一体なんのためにあるのだろう。それは、得た情報で次の行動に活かすためにあるはずだ。天気予報も株価の動きも世界情勢も、なんだってそうだ。では今回のこの潜水艇の話は何の役に立つだろう。

やっぱり海は怖いな。タイタニック好きなんだな(日本人にとっての戦艦大和的な感覚らしい)。深海や宇宙なんかの未知の領域への憧れってあるんだな。圧壊じゃなくて爆縮したんだな。爆縮の理屈を利用しているのがディーゼルエンジンなんだな、などなど。知っていることを再認識したり知らなかったことを知れたり。そういったものにこそ価値があるはずなんだ。

ところが、世間あるいはマスメディアというのは浅ましい。富豪の道楽(だからいい気味)だとか、海を侮った愚か者だとか、そういったイメージを持った大衆やそう思わせる報道、挙げ句、潜水艇の推定残存酸素を定期的にツイートするアカウントまであったのだとか。

100歩ほどゆずって、個人がそういった楽しみ方をするのはまだいい。個人の自由の範疇だ。だが、そういった層を満足させるための報道やツイートというのは、私個人としては気持ちの良いものではない。人の不幸は蜜の味でいいが、その蜜はひとりでひっそり舐めているべきだ。

もっとひどいのが芸能ニュース全般だろう。おめでたい話ならまだしも、不祥事があればここぞとばかりに叩き始める。私には理解できないが、そうすることで喜ぶ視聴者がいるからそういった低俗な報道をするわけだ。その事実がとても悲しいし嘆かわしい。

分かってはいる。先日のテニス失格事案で、対戦相手を批判する声が大きいような世の中に何を期待できるというのか。所詮人間なんてそんなものなのだと分かってはいるのだ(それでも期待を止められないで勝手に落胆している自分自身が一番滑稽だとは思っている)。


記事を書いていたらまた新しいニュースが飛び込んできた。

独裁者さえいなくなれば問題が解決するというおめでたい考えはどこから湧いてくるのだろう。部外者がそれをエンタメとして消費することのどこに倫理があるのだろう。今を生きる彼や彼らには倫理はなくとも正義はあるはずで、その正義に対し押し付けられる部外者の倫理は、歪んだ倫理観で象られたその倫理は果たして何の意味があるのだろう。


私達に必要なのは情報だけだ。歪められた真実も、都合好く解釈された推論も、押し付けられる倫理を欠いた倫理観も、溜飲を下げさせるための虚構も、何もかも必要ないのだ。



エンタメが教訓となることはある。あくまでも教訓とすることを目的とするならそれはありだ。しかし、教訓となるから何もかもをエンタメにしてよいという考えは好きではない。そういう報道や伝え方は、きっとただの不幸だ。


『まぜるな危険』の文字が洗剤にデカデカと書いてあるのは、実際にまぜてしまった人がいたからだ。
『これより先に家を建てるな』の看板は、実際に家をなくした人がいたからだ。

注意書きや警告文のそのインクは黒くとも、それらは先人の血と涙で書かれていると思ったほうがいい。

人の不幸は教訓として活かす。そのために正しい報道や伝え方をしなくてはならないと私は思う。そして何より、受け手である大衆が変わらないといけないとも思う。


ほら、やっぱりまだ人間を諦めきれていない。

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