見出し画像

死刑を廃止するにはまず優生思想を絶つことから

 先日、秋葉原無差別殺人事件を起こした犯人の死刑が執行された。また、元首相銃撃事件の犯人が死刑になるかどうかが巷では話題になっていたりもする。死刑というものを私がどう考えているかを、ちょっと言葉にしてみようと思う。あくまで、私という人間の一つの見方を提示するだけである。

(なお、毒気は相当強いのでご注意ください。また、法解釈などを好き勝手に書きます。間違っているものもあるかもしれませんが、あくまで私の個人的なものです。途中、凄惨な事件についても触れますが、こちらもWikipediaやニュース記事などから拾える情報をもとに私が推測した内容を記載しているものです。)



私の考える死刑とは

 死刑とは罪に対する罰の与え方の一つ。禁固刑や懲役刑などの呼び方の違いでしかない。刑の執行による結果についてまでは考慮しない。これは、禁固刑のせいで友人の誕生日を祝えなかったと文句を言われても聞く必要が無いのと同様に、死刑によってその先を生きることができなかったと言われても知ったことではない。という意味。
 もっと簡単に言うと、子供が母親に「ババア」と言ったらゲンコツ1回。「クソババア」と言ったからゲンコツ2回になった。くらいの差としてしか認識していない。

 こういう認識であるから、何も死刑というものが絶対に必要だとは思っていない。逆に言うと最も重い刑がゲンコツ2回でも構わない。何故ならば、刑の重さという概念には絶対的な正しさは備わっていないからである。懲役10年と15年を比較すれば15年の方が重いと認識させたいのは理解できるが、その年数を算出した根拠はなんだろうか。また、罪によって刑の重さは違うがこれも何故か。その答えは、法律で決まっているからである。では、その法律を作ったのは誰か。また、その誰かがそのように決めた根拠は何か。

 これは「その罪を犯した者にはこのような罰を与えるという事を国民が同意しているから」というのが答えになるだろう。(これは罪と罰に関してだけでなく、およそ人間がつくるほとんどのルールと呼べるものが、同じような結論になるはずだ。)

 つまり、死刑という選択肢があるのは国民が人を殺すことに同意しているからと言える。
 何かしらの基準に沿えば、人の命を奪うことをよしとしていると言える。


罰ってなんで必要なのか

 社会のルールを守るためだ。もう少し噛み砕いて言うと、みんなが決めたルールを守ることで安全に生きていけるようにするため、と私は考えている。

 罪を犯した者でも、更生の余地がある場合は、反省さえすればもう一度社会の一員になることを認めるよ。だから、懲役刑にするよ。この罪状なら5年くらいでいいよ。
――わかる。

 この罪状は更生の余地がないから死刑にするよ。
――これもわかる。先程、死刑とはゲンコツ1回か2回かの違いでしかないと言ったが、これは執行する側の話で、受ける側は全然違うのは言うまでもない。生きていてはいけないと宣告されるのが死刑判決だ。

 視点を執行側に戻そう。死刑判決とは、自分たちの社会にとって生きていてはいけない=「害悪」となるとの判断をしたということだ。判断したのは社会(日本という国家)である。

 つまり、国家は人を殺す権利をもっているということだし、国民は社会の害悪となるものを殺してもいいと考えているのだ。そしてその手段が死刑なのだ。死刑とは国民が同意して国家が実施する殺人だ。


 戦争において、敵国の兵士を殺すことはどこの国でも認めていることだろう。害悪だからだ。そして、その兵士の国籍というラベルが敵国のそれであるということに社会が同意しているからだ。

 自国の領域を侵すものを、武力で排除することは認められることだろう。害悪だからだ。そして、誰が引いたか分からない国境の内側を自分たちの領土だと社会が同意しているからだ。

 国内においてルールを守らぬものを、死刑にすることは認められている。害悪だからだ。そして、そのルールを作り維持しているのは国民であり、それに社会が同意しているからだ。


 刑罰とは社会の外に追い出すのと同義だ。懲役刑ならば刑期を終えることで、前科というスタンプをパスポートに押されて社会の内側に戻るのを許されるだけである。しかし死刑には、害悪をこれ以上ないほどの外に締め出すという意味になる。
 言い方を変えると、懲役刑は罪の具合により社会の内側に戻ってこれる能力があると判断したともいえる。死刑は、その能力がないとみなしたと言える。更生の余地無しとは、社会の内側に戻ってくる能力が劣っていると判断するとも言えるのだ。

 こういう意味で言えば、死刑は社会にとって罰にならなければ償いにもならない。死刑がもたらすのは、害悪を外に追いやることによる社会全体の安心感だ。此処から先は危険だよと伝える立入禁止の看板を打ち立てるくらいのものだ。

 これは、「死刑に処すことを決める我々は社会の内に生きる権利がある」ということを相対的に確認できるということになる。
 死刑を言い渡されて立入禁止の向こうに消えていく者を見て、あの側に行かなければこの社会で生きていてもいい、ということを理解できる。これは、死刑が犯罪の抑止力になっているとかいう安っぽい理屈を言いたいのではなく、自分は害悪の側にいないということが、地に足を付けているような感覚をもたらし得るということだ。
 そして、人はその地を必死で守るし、国家はそれを期待している。何故なら、そこが崩れてしまうと途端に人々は社会の外に堕ちていくからだ。だからその境界の輪郭をハッキリさせるために叫ぶのだろう。あんな奴は死刑にしてしまえと。


 ところで、今更だがその「害悪」ってなんだ?


優生思想へと繋がる”当たり前”

 優生思想というものがある。優れたものを残し、劣るものを取り除いていけば、いずれは全てが優れたものになるとの思想だ。直近ではとある政党の党首の発言がこれに当たるのでは、と炎上したようだ。
 このように何かと批判されがちな言葉であるが、この思想そのものは悪ではない。というのが私の立場だ。というより、これを悪だと断じる勇気は私にはない。それは生命への冒涜にも感じる。

 確かに、優生思想に基づいた社会の同意を得ない行いは悪になり得る。また、その時点では同意を得た事であっても後になって間違いであったと結論するケースもある。とはいえ、こういったことは優生思想以外の思想や価値観に基づいて作られたルールや社会においても言えることであり、それらが善であるとも悪でないとも言い切れないのも同様だ。


 話を戻すと、犯罪などは感覚的に「害悪」だと理解しやすいが、そうでないものはどうやって認識すればよいだろうか。そして、その「害悪」の認知の先にある選択肢のうちには、優生思想的な意思決定が影響しているものもあるのではないか。

 「害悪」を理解するには反対の言葉の「有益」という感覚を利用すると理解しやすいかもしれない。なお、「有益」の反対が必ずしも「害悪」でないことは言い添えておく。

 ここで少し例を挙げてみよう。

・船が難破しました。救命ボートには女性→子供→老人→男性の順に乗り込んでください。定員オーバーも有り得ます。

・婚活してます。年収は600万以上で年の差は5歳まででイケメンがいいです。それに満たない人は眼中にありません。

・自殺します。だって僕なんて生きる価値がない人間なんだから。

・結婚しないなんてもったいない。とっても優秀な人なんだから子供つくらないと。

・私は子供いりません。頭の悪さが遺伝すると子供がかわいそうだから。

・死刑だ死刑。あいつは死んだ方が良い。あんなやつ生かしてちゃいけない。

・蜘蛛を殺しちゃいました。益虫なのに。罪悪感で胸がいっぱいです。あ、ゴキブリは叩き潰しました、害虫なので。問答無用で。

・品種改良で出来た新しい果物です。元になった種類は売れないので、もう誰も作っていません。

・堕胎を考えています。出生前診断で難病だとわかったので。

・大量殺人放火犯の治療なんかするな。どうせ死刑になるのだから。
・いや、なんとしても生かせ。事件について喋ってもらわないと困る。


 挙げた例のその本質が、全て優生思想と完全に同一とは思わないが、私にはかなり近いものであると感じられる。果たして何が「有益」で何が「害悪」だろうか。そして、上記のことを全力でおかしいと否定出来るだろうか。
 だから私は優生思想を批判することは出来ない。そして、死刑判決を下すその根拠に優生思想と通じるものを感じてしまう。死刑制度を構築したその初期段階から優生思想は組み込まれていると感じてしまう。

 死刑廃止を声高に言う人であれば優生思想についても批判するのは理解できる。だが、死刑を容認しているにも関わらず優生思想を批判する人というのは、私は信用できないとも考えている。もちろん、それぞれを違う価値観でもってその是非を考えている人なら問題はない。

 ともあれ、日本は死刑が容認されている。私の論理に従えば、日本は優生思想を容認しているとも言える。しかし、個人レベルで優生思想を容認すると言うと批判の的になりかねないのが不思議なところだ。

 ところが、優生思想が容認され得る風土なのは、なにも日本に限ったことではなく世界中でそういうものであるはずだ。更に言えば、人間に限ったことでもない。これは当たり前のことである。何故ならば生物としては持っていて当然の、言わば本能に近いものであるためだと私は考えているからだ。


ガン細胞とNK細胞

 人間を地球の一部と捉えるややスピリチュアルな考え方を聞いたことがある。曰く、人間がガン細胞のようなものだから、それを減らすために天災が起こるとか疫病が流行るとか。その真偽はともかく、考え方としては面白い。

 本当のガン細胞というのも、遺伝子のコピーエラーから生じたものとされている。それを排除する動きを担うものの一つにNK細胞と呼ばれるものがある。この細胞に意志や思想があるかは知らないが、おそらく自動的に排除するものを決定して、そのように働くのであろう。
 身体の中に害悪が生じたから、それを排除する。害悪の排除が追いつかなければ、死に至る。ただそれだけのことだ。

 細胞レベルにおいても、(我々が後からそう名付けた)優生思想的な働き、即ち害悪を排除する働きをを確認できるわけだ。なお、NK細胞はナチュラルキラー細胞というのも皮肉なものだ。


相模原事件の犯人の論理と死刑

 死刑と優生思想という言葉から連想されるのは、この事件だ。

 こちらの犯人は、重度障害者は人を不幸にするため、社会に不要だからいなくなれば世界平和に繋がるという思いで犯行に及んだ。(Wikipediaより)

犯行の動機から結果までを分解するとこうだ。
①害悪(社会に不要な障害者)の排除という論理
ただし
②被害者が害悪であるという同意を得ていない
③(仮に同意を得たとしても)個人が実行した
④ ②③よりこれは犯罪である
⑤結果として被害者は死ぬ(死んだ)

 以上のことから、犯罪は犯罪であるので犯人を擁護するわけではない。しかし、④であるからといって①まで否定するのは違う。あくまでも問題となるのは、②であり③なのだ。

 ここで、②と③を除いて考えよう。
①害悪の排除という論理
④これは○○である
⑤結果として当該者は死ぬ

 ④に入る言葉の中に「死刑」は含まれるのだ。「死刑」を入れて書き直すとこうなる。

①害悪の排除という論理
②罪状により害悪であるという同意を得ている
③国家が実施する
④ ②③よりこれは死刑である
⑤結果として当該者は死ぬ

 犯人や一部の識者が言う、「この犯人を死刑にするとこの犯人の行いを(一部)認めたことになる」という論理も、害悪の排除という観点で言えばその通りで、①を否定するならば死刑は行ってはいけないはずなのだ。
 だが、そもそも法律は死刑制度がある点において①を否定してはいないし、死刑を決めた要因は②と③であるから、目的たる①と結果たる⑤は同じでも、この犯人を死刑にすることと犯人が起こした殺人罪とは別物である。
 どれだけこの論理を強弁しても、犯行の正当性を得る結果にはならない。粛々と二発目のゲンコツを叩き込まれるだけだ。


 またこの犯人は精神鑑定を受けている。犯罪者の精神鑑定を行う理由の一つは、本記事に即した言い方をすると、社会の外と内の境界を持っているかの確認のためだ。これがない者は罪に問えない、つまり社会の内という扱いにするというのが、現状のルール(刑法39条)だ。

 この犯人は、意思疎通が全く出来ない人を狙った。意思疎通の可否を根拠にこの人たちを社会の外に置いた。社会の内側にいないのだから殺しても構わないという理屈だ。
 被害者がなにか罪を犯したわけではないが、犯人は被害者たちが社会に不幸を与えていると思い、それを罪として認識したのであろう。そしてその罪をもって、現状のルール(刑法39条)で社会の内としている被害者を、犯人の中だけのルールで外に置いたということだ。それは、社会も被害者も同意していないのだから、身勝手な殺人ということである。そして、その結果この犯人も社会の外に置かれることになった。だがそれは、社会が同意している死刑という形でなされるのだ。


 死刑が廃止されると、社会の内と外の境界が曖昧になる気がする。そして、そんな不安定な社会に耐えられるほど人は成熟していないと私は考えている。その歪んだ輪郭を踏み外して過った私刑に走る者が出てきてしまうと思うのだ。
 現行犯を射殺する警察官や、負傷した犯罪者を治療しない医師。踏み外す要因は恨み辛みだけでなく正義感や倫理観という、本来ならば善性を帯びるものにまで及んでしまう気がしてならないのだ。
 また、これは私の妄想の域を脱しないが、一つの懸念がある。
 終身刑があれば死刑廃止で構わないという意見が散見される。しかしこれは、受刑者を社会の外に置くという点では死刑と同じだ。生きているかどうかの違いでしかない。普段の生活で関わることのない人にとっては、終身刑の囚人と会うこともないので死刑のそれと変わらない。
 しかし、例えば刑務官という職業の人はこの「社会が同意して外に置かれた人」と接しなくてはならない。言わば害悪の世話をしなくてはならない、と考える人が出てくるかもしれない。そうなると、相模原事件の犯人と同じ論理と行動に出るものが必ず現れるだろう。その凶行は死刑制度があれば防げたと言えると思う。


 だから私は死刑を否定しないし、その根拠としての優生思想も容認している。キレイな世界は綺麗事ではつくれない。いや、そんなものは絶対につくれない。せいぜいキレイ風にするくらいしか出来ない。

 社会のキャパシティが狭まれば、必然的に社会の外におちる人も増える。人口増加、食料不足、物資不足、”幸福”の奪い合い。そういう環境の変化で美意識は簡単に変化するのだ。
 直近でも、かのウィルスのせいで人工心肺装置が不足したある国で、老人が自分の割当を他の人に譲り、その結果その老人は亡くなったというニュースを見た記憶がある。これを美談だと感じられるのは、きっと幸福なことだと思う。私が一生かかっても獲得し得ない美意識だ。


まとめ

 書きたいことを書き連ねると、長くなりわかりにくくなってしまったので、要点をまとめる。

・死刑制度が成立したその時点で、根底に優生思想があったと考える
・既に死刑制度が確立している現代日本で制度が維持されている点から、根底にある優生思想も容認されている
・制度の運用にあたっては粛々と行うべきだ
・死刑制度自体の批判や廃止を検討するのであれば、根底にある優生思想をも否定しなくてはならない
・綺麗事で優生思想を批判することは簡単だが、社会のいたるところに優生思想的なものは溢れているので一部だけの批判は整合性がとれない
・そもそも優生思想的な考えや働きは生物の本能に近いものと考えているので、廃絶は困難と考える
・この優生思想的な考えや働きによって、社会の安心と安全が確立されている面もある(社会の内と外の輪郭がハッキリする)。また、それに頼らずに生きていけるほど人は優れたものではない
・そうであるから私は死刑制度を否定しないし、自分の論理に従い優生思想も容認している

 一言にすると、本記事のタイトルは実現不可能だ、となる。


 死刑制度と優生思想は関係ない。と、こう思えたならこの論理は破綻するのだが、今のところそうなる見込みはないかなぁ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?