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【芸人短編小説】~笑顔~

澄み渡る日差しがどこか物憂げな、それでいて心地の良い雰囲気を漂わす秋の日の午後。一人の男が、自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ。
彼の家は四階にあったのだが、彼は十三階のボタンを押した。

途中六階で中年の女性が入ってきた。
手には回覧板を持っていた。
女性は彼を知っていたらしく、二言三言、親しげに話しかけてきた。
が、彼は聞かなかった。

十三階に着き、エレベーターのドアが開いた。
彼は少し止まったまま、眉間に皺を寄せ、何かを考えた。
しかし、何を考えたのか、彼にもわからなかった。

十三階から屋上へと通じる階段を昇り、
胸まである鉄柵のドアを乗り越え、そのまま縁まで歩いて行った。

・・・・

彼には家庭があった。
上の子は今年幼稚園に入ったばかりで、下の子はまだ立って歩くことも出来ない。妻は気立てのいい女で、いつもニコニコとしている。
彼は、そんな家族をこよなく愛していた。

――が、それ以上に彼は“笑い”を愛していた。

彼の仕事は世に言うお笑い芸人。
彼の周りの多くのお笑い芸人がグルメ番組に出て、温泉に浸かりながら、高額のギャラを手にしている中、彼は真実の笑いを求め続け、毎日命を擦り減らして笑いを創造して来た。
それが彼にとって生きがいそのものであることに間違いはなかった。

彼の芸風は最も難しいとされる “ギャガー” であった。
一発ギャグで笑いを取るのは一見簡単そうに見えるが、一回そのギャグをやって行く度に、笑いの数は確実に減っていく。

一本代表的なギャグさえあれば、それで食べて行けない事もない。

だが彼は一切の妥協を許さず、自分のギャグが定着しそうになるとそのギャグは二度と使わずに、すぐ新しいギャグを産み出していく。
そんな彼の、笑いに対するストイックな姿勢と、突出した才能によって彼の評価も高まり、彼はこの二十年間ずっとトップを走り続けて来た。

・・・・

――だが、彼にも衰えが来る。

実際、彼は四十代で、健康診断でも全く異常なしという身体だった。
それは、彼が酒も煙草もやらず、笑い一本で生きて来た証拠である。

彼にとっての衰えというのは、身体ではなく脳。
所謂、感性である。

彼自身、二十代の頃のキレがなくなってきているという事を感じずには居られなかった。それは、彼にとって何よりも耐え難い苦痛であり、自分という人間の存在意義さえ危ぶまれかねなかった。
過去のギャグを塗り替えるほどの、爆発力のある一本を考えようと必死にもがくが、衰えた彼の感性から生まれるギャグは、どれも陳腐なモノに感じてしまった。

とあるバラエティ番組では、若手MCから、昔のギャグを要求されては懐かしがられるといった、彼のプライドを激しく揺さぶる事件まで起こる始末である。

・・・・

――彼は、死を決意した。

逃げではなかった。

完全にピークを過ぎた彼の感性から生まれる笑いなど、彼は耳にするだけで背筋が凍る思いがしたし、
衰えた自分の笑いを、これ以上世に晒すのは、失礼だと感じたからだ。

彼は飛び降りた。

意識ははっきりとしていた。

一瞬、彼の視野に八ヶ月になる、自分の下の子が入った。
子どもは、その時、じっと自分の父の落ちてゆく姿を眺めていた。
それから、すっくと立ち上がり、また一人ぬいぐるみと遊び始めた。

彼は、そんな子どもを見つめつつも、やはり笑いのことを考えていた。

――と、その時、彼の脳裏に閃光が走った。

ギャグが、浮かんだのだ!

そのギャグは彼の全盛期にも勝る、まさに究極の一本であった。
それは彼の人生の中でも最も興奮した瞬間であった。
それから約0.5秒後に、彼は脳天をコンクリィトの地面に激しく叩きつけた。

あたりは騒然としていたが、秋の日差しは穏やかで、何やら気持ちの悪い、さわやかささえ感じられた。

・・・・

彼の頭部は、バックリと割れ、中から綺麗な脳みそがドロリと出ていた。
その脳みその皺の一本一本は、今まで彼が生み出してきた笑いの数を物語っていた。

そんな綺麗な脳みそも、次第に赤く浸食し始め、
それは残酷極まる図であった事に間違いはなかったのだが、
既に原型をとどめていない彼の顔の表情は、
どこか恍惚の笑顔であるように感じられた・・・

1997年9月22日
執筆


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