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『霊のうごめく家』その後の展開

 『霊のうごめく家』とその後のJホラー
 

 オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』以降のJホラーの動きを、筆者個人の視点から大まかに振り返っていきたい。

 オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』がレンタルビデオ店に並び、黒沢清は『地獄の警備員』を公開した1992年。それに『地獄の警備員』にスタッフとして参加した篠崎誠や青山真治たち『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』の人脈は、ホラー映画を含めて、そう簡単に劇場映画を制作できる余地は存在しなかった。

 所属先であったディレクターズ・カンパニーが倒産したあと、黒沢清は1993年には関西テレビのローカル枠で、テレビドラマ『ときめき時代』を演出した。そこで黒沢清は、小津安二郎の監督作に携わったスタッフを感心させるほどの劇映画の演出スタイルを採用。その演出に目をつけたプロデューサーの田中猛彦は、常光徹の著作『学校の怪談』シリーズの流行にあやかり、同作を原作とするテレビドラマを関西テレビのローカル枠で製作、放送した。

 小中千昭、黒沢清、高橋洋、中田秀夫、小中和哉、大久保智康はときにVシネマの仕事と並行しながら、『学校の怪談』シリーズのスタッフとして試行錯誤を重ねていった(※57)。1996年には『女優霊』が、WOWOWの企画『J・MOVIE・WARS3』の一編として製作され、WOWOWで放送されたのち、劇場公開された(※58)。が、公開当時はヒットしたわけではない。『リング』のヒットをうけて、後から評価されるに至ったのだ。

 この間の1995年8月11日、フジテレビ『金曜エンタテイメント』枠で『ホラースペシャル リング 事故か!変死か!4つの命を奪う少女の怨念』が放送されている。鈴木光司『リング』の映像化としては本作が最初なのだが、特に反響があった形跡はない。おなじ7月8日には、東宝が『学校の怪談』を公開してヒットさせたにも関わらず。

 一方の鶴田法男なのだが、1993年にはパチプロ集団を主人公とするVシネマ『ゴト師株式会社』『ゴト師株式会社Ⅱ』(ビデオチャンプ・テレビ東京・パル企画。配給はパル企画)の演出を務めた(※59)。1994年のオリジナルビデオ『戦慄のムー体験』(パル企画製作・発売)でふたたび小中千昭と組むものの、1994年、1996年、1997年、1998年と断続的に製作~放送されていた『学校の怪談』シリーズに参加していない。鶴田法男の参加は、関西ローカルから全国放送となった1999年の『学校の怪談 春のたたりスペシャル』を待たなければならず、おなじ1999年、『リング』のヒットとブレイクを受け、フジテレビは全国区のゴールデンタイムで『ほんとにあった怖い話』をテレビドラマ化。鶴田法男を迎えてリメイクした。 

 当初はオムニバス形式の2時間ドラマであった同シリーズは、それでも2004年にレギュラー番組へと昇格するに際し、稲垣吾郎をホストに据え、周囲を子どもたちが囲んで「心霊現象再現ドラマ」を視聴、スタジオのタレントや霊能者がコメントを挟む心霊番組となった。つまり『あなたの知らない世界』のフォーマットを引き継いだ番組に落ち着く(※60)。

 1999年に『ほんとにあった怖い話』がゴールデンタイムのオムニバスドラマとなった当時は、1998年の『リング』『らせん』のヒットを受けてホラー映画とホラードラマが急増した時期であった。とくに『リング』シリーズは、劇場映画とテレビドラマを合わせて、極端に製作本数が増加している。

 1998年から2000年の短期間のあいだ、劇場映画では『らせん』をふくめて2000年までに4作。テレビドラマではフジテレビ版『リング~最終章~』(1999年1月7日~3月25日)と『らせん』(1999年7月1日~9月23日)を合わせると、一気に6作も製作されてしまう(※61)。さらに『リング2』は『死国』、『リング0 バースデイ』は『ISOLA 多重人格少女』の2本立て興行であり、どちらも角川ホラー文庫から刊行されていた小説が原作とする(※62)。いわば角川映画の製作形態が90年代末に、ホラー小説に限定された形で復活したものだが、劇場映画とテレビドラマを合わせれば、2年のあいだに角川書店に関連する8本、黒沢清の2時間ドラマ『降霊』(1999年9月28日放送。番組名は『秋の恐怖スペシャル 降霊 ウ・シ・ロ・ヲ・ミ・ル・ナ』)と金曜エンタテイメント枠『ほんとにあった怖い話』(1999年8月27日)、翌年の『夏の恐怖ミステリー ほんとにあった怖い話2』(2000年8月25日)と合計すれば、11作もの本数になる(※63)。

 『リング』『リング2』は中田秀夫(演出)と高橋洋(脚本)、『リング0 バースデイ』は鶴田法男(演出)と高橋洋(脚本)、『降霊』は黒沢清(演出)、『ほんとにあった怖い話』は一部が鶴田法男の演出による。しかも1999年には、「小中理論」を確信的にひっくり返した清水崇『呪怨』第1作が東映Vシネマから発売され、これも口コミでヒットしてシリーズ化されてしまう。

 この状態はホラー映画の大流行であると同時に、明らかな過剰供給であった。何度か触れた東映実録路線が『仁義なき戦い』(1973年~1974年)から量産された末、第一作から数えて4年後の1977年で終わったように、量産体制は作劇や演出のルーティン化を招きやすい。脚本や演出でも、スピルバーグが『激突!』(1971年)から『ジョーズ』(1975年)へ、ジョン・カーペンターが『ハロウィン』(1978年)から『遊星からの物体X』(1982年)へと更新をつづけ、観客を飽きさせなかった形跡が、Jホラーには見当たらない。観客や視聴者から飽きられるのは時間の問題であった。

 実際、「Jホラー」の言葉が最初に使われた2004年の『Jホラーシアター』は三作目の『輪廻』(2006年)を持って、配給会社の東宝との提携が打ち切られた。興行成績が芳しいものではなかったからだ。2000年の『リング0 バースデイ』『ISOLA 多重人格少女』の2本立て興行は、約16億の興行成績を上げている。それが2004年『感染』『予言』では10億以下。同じ2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』の、約85億円もの極端なヒットと対照的だ(※64)。

 Jホラーは劇場映画に限定すれば、1998年から2004年の約6年のあいだに大流行し、一度は終わったのだ。あるいは、「Jホラー」は「フィルムノワール」が60年代以降に成立しえないように、90年代だったからこそ成立可能であったかのもしれない。

 だが2004年当時、レンタルビデオ業界では既に「心霊ドキュメンタリー」が一定のオーディエンスを得て定着し、VHSからDVDにメディアが変わってもなお量産され続けていった。Jホラーはいわば、『邪願霊』へと原点回帰を果たしたのだが、その始まりは1999年、パル企画が製作し、中村義洋が構成・演出・出演・ナレーションを務めた『ほんとにあった!呪いのビデオ』にある。

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