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パリ二月革命〜革命前夜〜

  熱い風呂に一時間も入れば、今度は涼みたくなる。かと言って浴槽から出るのも面倒だから湯を抜いていく。水面が少しずつ下がり、次第に自分の質量を意識し始める。“重くなってしまった。立ち上がるのがさらに面倒になったぞ”と思ってそのまま動かずにいて、気づけば湯は消え、浴槽に全裸で座っているだけの滑稽な状態になった。
 愛はお金じゃ計れない。そんな耳触りの良い言葉も、真理かと言われれば些か疑わしい。要は、限りある資源をどれだけその人に向けられるか。この点に尽きると思われる。愛がお金で測れることもあるということだ。責任者は誰だ?自分の人生の。どうも、この問いに胸張って僕だと答えられないところに物足りなさがある。自分がやりたいという理由以外で取り組んでいることに対して、人は責任を持てないのである。だから、例えばその自分が大してやりたくもないことで発生した不都合なんて、まるで遠くの惑星で起きていることのように思えるわけだ。身はここにあり、あたかも打ち込んでいるように見えながら、その実、あまりに重大な責任の感覚がそこにないのなら、我々はいま我が身があるこの場所に対してどうして当事者であることができようか。そうして不気味な傍聴席が用意され、腰掛け、優雅に自分をも観察してしまうのであるが、これは現代人の一つの悲劇の型であり、私が足を取られ私の人生に付き纏い続ける悲劇そのものである。僕の周りにはいつも余裕の風が吹いている。でも、本当に欲しいのはそんなものではなくて、むしろ必死さなのであるがこれが永遠に欠落している。傍聴席から飛び降りて、必死に世俗を掻き回せたらどれだけ楽しいだろう。僕にはまだ飛び降りる着地点、その座標が見えない。その座標は僕を麻痺させてくれる座標である。それが見つかるまで、我が嘆かわしきこの調整不能の炯眼、その瞳の前にはあらゆるものが肩透かしなのだ。渦中の人はいつも自分が悲劇の主人公だという顔をして大通りを歩く権利がある。しかし、傍聴席の人間の悲劇など誰が同情し得ようか。だから僕は喜劇の仮面を被る。
 酒を飲むと、優しい気持ちになる。その安心感はきっと、世俗に抱かれている感覚、その時だけは扉が、あるいは椅子が、いつも眺めた世界の中に用意されているような気がする。そうしてぼやけたこの炯眼が観察をやめるとき、束の間の幸福を得る。さて、再び門が閉じればまた僕は渦を凝視して、いかに飛び込みうるのか長考する。ベッドに横たわっても見つかるはずないものを、探し続けてその目はまだ開いている。眠るのが惜しいのだ、起きていれば何か思い付く可能性があるが眠れば朝になってしまう。
何が待ち受けるでもない朝をなぜ恐れようか?それは、時間が有限だからだ。近いうち死ぬ可能性の話ではなく、こうして無為に思想を巡らせることが中断させられる要因が点々としていてあまりに鬱陶しいのである。皮肉にもこれは労働から派生していて、つまりこの労働は時々世俗に降りて遊んでみる権利を付与するも、シンデレラの如く夜にはまた律儀にくだらない玉座に着席することをもまた余儀なくさせ、そして僕の時間を裁断していくのである。実に迷惑な話である。辞める?いや、そうも行かない。人間の行動を経済と切り離して考えることはできない。あらゆる高給取りは、現在の仕事に呪われている。惰性と安定と高給をも捨てて、新しい世界に飛び込む勇気のあるものはあまりに稀有である。それはほとんど、崖の淵から自らを突き落とす外力がなければ実現不可能にすら思えるのである。それは例えばこの左目に暗点が生ずるなど。
 世の真理などはほとんど全て手に届きそうもないところにあり、我々は真理らしきものの間を踊っているわけだが、最近では自らの欲求や願望すら随分胡散臭くなったものだ。何でも許されるならどういう生活がしたいのか。この仕事を中途半端極まりない点で辞めることに対する不快感と敗北感はたしかに存在する。だが、この仕事を続けることの不快も上述の通り存在していて、邪魔なことは確かである。不満を感じながら生きていたいなどという願望は、果たして本物であり得ようか。疑わしくも、しかし不満の全くない生活で自由奔放に世界を漂い続ける生活にさほど魅了されないのもまた事実である。この労働を続けたいのか否か、更には生きたいのか死にたいのかも不明なのである。不明であり続ける限り、原則として労働は続き、またこの生も続く。生きながらえ、果たしてこの世界の何をみたいのか。母が死ぬまでは、というのは斜陽族ならピンとくるだろうあの遺書にあった言葉であるが、その感覚はどうも良き母の下に育った人間に共通に組み込まれた感情のように思われる。しかし、どうも僕の周りには素敵な人が多くて困る。僕が死んで、ただでさえ困難極まりない人間の一生にさらに暗い影をおとすのはどうも気が引ける。それと天秤にかけて私一人が直面している苦悩はどうにも小さく、こうしてあたかも費用対便益のような簡便な秤によって私は生きなければならないと感じる。そうだ、秤の片側に何も乗らなくなった時に、人は生の危機に陥る。だから、孤独なんて馬鹿な真似は絶対にやめた方がいい。 
 これだけ綴って思考は紙一重分も前進していない。何とも無駄。でも、無駄って贅沢。手相の終盤、生命線に何かが激しく突き刺さっている。そういう外的要因でしか動かし得ない状況に陥っていることは確か、このまま働き日々を生きることだけが許されている長すぎる一本道。フォレストガンプですら、アリゾナの長すぎる一本道には辟易として家に帰ったが、いずれにせよ走り続けるしかないのだ。僕の人生は、どうも強い。投げられた石さ、意志なんてものがどうこうする余地もないほど決まりきった場所へ導かれている感覚。せめてもの抵抗は、ちょっとした冒険くらい。だから数日の小旅行をロマンなんて呼ぶ気障な男を許して欲しい。

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