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恋愛小説[夢のあとさき] 短編 ハートカクテル

               1
 
 一定のリズムで進む壁時計の秒針が、期待と不安を混ぜた興奮を運んでくる。
    強くなってゆく胸の鼓動を静めるように、ぼくは大きく深呼吸をした。
 待っている時刻に、短針が一番早く到着し、続いて長針、せわしなく動いている秒針は一番遅れて、あと90秒でゴールインする。
    正確にいえば、すべての針が同時にゴールインするわけだけど、いつも着順があるように思えた。部屋にはサリナ・ジョーンズの歌声が静かに流れている。
『ラバー・カムバック・トゥ・ミー 』

 9時ジャスト。ぼくは居間のソファを離れ、ゆっくりと5歩進んでから、フローリングの床に直接座り込む。
    ぼくの視線の位置、つまり床から75センチの高さの壁にピンナップしてある、Lサイズの写真を見た。
    フラッシュを浴びた彼女は恥ずかしそうな笑顔をつくり、その瞳には幸せな光りをたたえている。
    仕事で旅に出るとき、いつも一緒に連れてゆくので印画紙はだいぶ疲れていたが、中の彼女の笑みだけは全然変わっていない。ぼくの大切な写真だ。

    四年前、過去を払拭するように、スマートフォンを新しくした。電話番号を変え、ラインアプリと写真データーも消してしまった。電話帳だけは仕事の関係で残したので、彼女の存在はそこでひっそりと潜んでいた。
 写真がなくても彼女との出来事や、そのときの情景は脳裏に刻まれていて、いつでもはっきりと浮かび上がる。
たとえば――
 剣山の急な坂を登ったときは、彼女の額に浮かんだ汗、苦しそうな息使い、疲れた足取り……、もちろん彼女が作ってきた弁当の中身まで覚えている。
 博多ではお目当ての屋台の場所が見つからなくて、中洲をグルグル回ったこと。そういえば大阪のミナミで洒落たカフェを探したときも、見つからなかったっけ。
 桂浜、淡路島、美星町、倉敷へのドライブ……、テニス、サーフィン、ボーリング……、思い出は数えられないほどある。
    あんなに幸福だったときのことを、忘れるはずがない。
 
 スマートフォンを手にして、画面に表示された数字を11回正確に押した。
 ぼくのいる横浜から、彼女の住んでいる町までは直線で約550キロの距離。それでも電話は、一秒ほどで瀬戸内海までも渡ってしまった。
 コール音の数を数える。1、2、3、4、あと3回。ラッキーセブンで駄目なら、また明日。この一週間、その繰り返しが続いていた。
 1回残して、また今夜も留守か……と思ったとき、接続音が響いた。
 先に喋ろうとしたが、胸の鼓動に邪魔をされて、ぼくは大きく息を吸った。
 相手は知らない電話番号を警戒して、こちらの声を待っていた。
「美愛さんですか」
「そうですが……」
 四年ぶりに聞くなつかしい声が、さらにぼくの胸を圧迫した。
 胸の圧迫を肺の空気とともに吐いた、ぼくの声は僅かに震えていた。
「三田です、英彦です」
「…………」
 喧嘩をすると美愛は黙ってしまう。その状況がぼくの頭をよぎった。
   同時に四年間の空白が埋まる。ぼくの口調は過去に戻った。
「もしもし聞こえる? 電話をして迷惑だった? それとも怒ってる?」
「――そのどちらでもないわ」
「でもきみが黙ったままだったから……」
「ビックリしてるの。あまりにも突然なんだもの」
    美愛の声がいい感じにうわずっている。「いまとても動揺してるわ」
「ぼくもきみに電話をしたくせに、きみの声が聞こえたら、すごく動揺して」
「わたしもよ、あなたの声だとすぐにわかったのに、トボケてしまったわ」
 後の言葉を見つけられなくて、沈黙が電話回線に漂った。
 ぼくは、ふー、と息を吐いてから話した。
「きみさえよければ、一旦電話を切って、もう一度掛け直したほうがいいかもしれない」
「そうしてくれれば、つぎはきっとうまく喋れると思うわ。でも30分は必要よ」
「わかった、じゃあそうしょう」
「待ってるわ」
 
 ぼくはスマートフォンを置くと、仕切り直しの時間をどう過ごすかを考えた。
 ぼくと彼女はお互いの精神をズタズタに切り裂いて別れた。
   それは嫌いになって別れたのとは違い、愛の重圧に耐えられなくなって、互いが潰れたと表現したほうが適切だと思う。
    そう信じているぼくの気持ちを、ついさっきの彼女の応対が認めてくれたようだった。
 過去では、ぼくは卑怯で情けない人間を演じたが、いまは胸を張り、堂々と彼女に対面できる自信がある。
 30分間がすごく長く感じた。熱いコーヒーを飲んでから、シャワーを浴びることにした。
 勢いよく吹き出す湯を頭からかぶりながら、眼を閉じて、彼女はいまなにをしているのだろうか、と考えてしまう。滝のように落ちる湯で息苦しくなって、ぼくの脳裏から彼女が消えた。
 髪と躰を洗ってから、滴がまだ残っている素肌に白のTシャツを着た。洗面所で歯を丁寧に磨き、魅力的な声がでるように、笑顔を鏡に映して何回か練習してみた。
 約束の時刻までにあと4分少々。元の位置についた。
 ボディ・シャンプーのレモンライムの香りが、スマートフォンとピンナップ写真を包んだ。
 
 ぼくのコール音は、トゥルと一瞬鳴っただけだった。
「美愛です」いい響きの声が聞こえた。
「気分はどう?」ぼくもさわやかな声が出た。
「パーフェクトよ、あなたは?」
「ぼくはすこし変だよ。心臓が爆発しそうだ。激しい鼓動が聞こえないかい?」
 スマートフォンの送話口を心臓に当ててみた。
 彼女の耳を澄ます気配が漂ってくる。
「駄目よ、わたし自身の鼓動が邪魔して、聞こえないわ」
「ぼくには、きみの心臓の音が聞こえるよ。いいかい、ドキーン、ドキーン」
 空いている左手を胸に当てたぼくは、自分の鼓動に合わせて続けた。
「ちょっとずれてるわ」彼女は屈託なく笑い、「わたしの鼓動はもう少し速いのよ、このくらい」
 こんどは彼女が擬音を繰り返した。
「ちょっとオーバーだよ」
 ふたりは同じくらい楽しそうに笑った。笑い声が共鳴和音になって電話回線いっぱいに響く。
「久し振りね」彼女が言った。
「声を聞くのはね」ぼくがとぼける。
「どこかで会った? わたしの知らないときに……」
「ぼくは、毎日きみに会ってるんだ」
 眼の前で微笑んでいる、L版の世界の彼女を見つめて答えた。
 スマートフォンのギャラリーに写真を保存していれば、その写真はいつも鮮明で、時間の経過を感じさせないだろう。
    しかしぼくには印画紙にプリントした、一枚の写真しかない。それはぼくと彼女の経緯を物語っている。

「そういうことね。でも、いまのわたしじゃないわ」
「そんなに変わってしまったのかい」
「あなたが幻滅するほど。ずっと変わらないところもあるけど、それはごく僅かの部分よ」
「たとえば?」
「話せない部分ね……。あなたの話を聞かせて。四年間の空白を埋めたいわ」
「きみが聞きたければ、喋ってもいいよ」
「とても興味があるわ」
「ぼくのことはどこまで知ってる?」
「あなたが小説雑誌の新人賞を受賞したのは、新聞で見たけど、その後、あなたがこの町を出たということは、風の噂を耳にしただけ……」
 彼女は記憶を確かめるように、ゆっくりと言葉を綴った。
「じゃあ、その後からでいいね」
    ぼくは文芸賞をもらったおかげで、どうにか一人食べてゆくくらいの、仕事の依頼がくるようになった。それで横浜に引っ越した。
    物書きの仕事を続けるには、都会のほうが有利だと考えたからだ。編集の人たちと常に接触できるし、アドバイスも受け易い。とにかく駆け出しのぼくには、まだまだ勉強することが沢山あった――。
「退屈じゃないかい、こんな話」
「大丈夫よ。それ以上興味ある話は、いまのところないから」
「よかった、自分のことを客観的に喋るのは苦手なんだ」
 その後、ぼくの仕事の範囲や、作品を発表した雑誌の名前などを話した。
    作家と名乗れるほど有名ではなく、仕事は文章が主役で、顔写真が表に大きく出ることはほとんどなかった。
    たぶん彼女は、ぼくが書いた短編小説やコラムが載った雑誌くらいは、目にしたことがあると思うが、悲しいかな、ぼくの名前はよほどでないと気づかないだろう。
「今度あなたの作品が発表されるとき、わたしにも教えて。ぜひ読んでみたいわ」
「ほんとに読みたい? はじめてぼくの単行本がでるんだよ」
「いつ、いつ? 教えて」
 彼女の催促で、ぼくの落ち着いていた精神状態がまた高揚しはじめた。
    一週間前から彼女に電話をしていた、本題に迫っている。
 ぼくは覚悟を決めて切り出した。
「その日に、会ってくれないか」
「わたしのほうから言い出したかったことよ」      期待していた返事が、あまりにもあっけない速さで返ってきた。
「じゃあ、九月十日に会おう」
「え、何て言ったの? もう一度言って」
「九月十日、きみのスケジュールは空いてるかい?」
「冗談でしょう? ほんとうにその日にあなたの本が出るの?」
「そうだよ。どうして?」
 彼女が出かかった返答を飲み込むように黙った。

    意地悪なぼくは、彼女の戸惑いを楽しんでおいてから、白状した。
「出版社に無理を言って、その日に、つまりきみの誕生日に、合わせてもらったんだ」
「信じられないわ」
「どうなんだい、ぼくたちが会うことは……」
「むつかしいけど、あなたが優先よ」
 いたずらっぽく言う彼女の額を、ぼくは手を伸ばして指先で軽く弾いた。それでも表情を変えずに、はにかんだ彼女が笑っている。
「どこで会えるの?」
 ひと月先の場所を彼女が訊いた。
「神戸にしよう」
「中間地点なら、わたしがもっと先に行ってもいいのよ」
「違うんだ。忘れたのかい? ぼくときみが一緒に旅したところだよ、神戸は」
「忘れてなんかいないけど……、都会に住むようになって、キザなったのね」
「こだわりは、ぼくが大切にしている生き方なんだ」
「変わってないわ、あなた。もちろんわたしは大賛成よ」
「場所はもう一度連絡する、それでいいかい」
「いまからとても楽しみ」
     彼女との会話が夢にならないうちに、おやすみなさいを交わした。
 
 さわやかな余韻の中で、ぼくは美愛との再会を空想した。
 神戸北野町のハンター坂を、夕日を背にして美愛が昇ってくる。恥ずかしがり屋の彼女は、逆光を味方にして表情をうまくカバーしているだろう。
 彼女の誕生日を祝福するための、真っ赤なバラの花束を抱えているぼくは、夕日を浴びながら坂道を下りてゆく。顔面からこぼれた嬉しさはきっと赤く染まり、キラキラ輝いているはずだ。
 そのシーンを何度もリピートし、ぼくは長い時間楽しんでいた。
 そして過去につらい別れがあったからこそ、いまはこんなに歓びが溢れるんだと思った。

      2

    七年前。
 瀬戸内海に面した人口32万余りの町、中心地から少し離れたところにあるカフェ。
 日差しがまぶしい季節だった。
 昼下りの、のんびりとした雰囲気がカフェ周辺に漂っていた。テラス席の庭では、深い緑の葉を繁らせた枝が、風にそよそよと揺れる景色はとても清々しい。
    ロケーションは最高だが、ひとつ難点があって、いつも満席に近い状況だということ。
    この日も、店内の席はパソコンや教科書を広げた若者たちが占領していた。
    アメリカーノを手にしたぼくは、テラス席の丸テープルに空きを見つけ、すでに座っている女性に断ってから、向かいの位置に腰をおろした。
 タウン誌の編集スタッフであるぼくは、毎日県内を走り回っていて、その日の予定がスムーズに終わると、よくこのカフェに来ていた。なんといっても駐車場が広いのはありがたい。

    テープルを180°回った位置の女性はイヤホンをして、英会話の本を開いていた。ひまわりの花のような女性。ぼくの第一印象だ。
 それは着ているシャツの色からではなく、すらっと気持ちよく伸びた足と、陽光を受けて輝く明るい雰囲気からだった。
    チラッと目をやったぼくの視線に気がつくと、恥ずかしそうに唇を結ぶところが、何故か新鮮に見えた。

    数日後、今度はカフェの店内で彼女を見かけた。彼女はぼくに気付くと、わからないくらいの会釈をした。ぼくの気のせいかもしれない。
 何度か顔を合わせているいるうちに、軽い挨拶をするようになり、席が空いているときは、どちらからともなく隣に座り、どうでもいい天候を口にしたが、それ以上の会話はなかった。
    ぼくの魂胆の芽は蕾に育っていた。もちろん育てるために、彼女がカフェにくる時間帯を狙った水やりをしていたからだ。
 
    ある日の夕方、駐車場に止めてある彼女の車を見つけた。きれいに洗車された水色のワーゲンUPは、キュートで行動的な彼女に似合っている。
    神様が空けておいてくれた、隣のスペースに止めた中古のSVR車は見劣りがするが、ぼくが大事にしていることで堂々としていた。
    カフェの入口へ向かって歩くと、店から彼女が出てきた。あれ、いつもより早い。
    会釈をした後、ぼくは声をかけた。
「もう帰るんてすか」
    彼女は他人行儀な鎧を脱いで、仲間に接するように答えてくれた。
「ええ。いまからちょっと行くところがあるので」
    言葉と微笑みを残して、すれ違って行く。
    戸惑いを抱えて入口へ向かうぼくは、足を止めて踵を返した。
    愛車のドアを開けた彼女に向かって、ぼくは急ぎ足で歩いた。
 近付いていくと、足が操り人形のように、宙をふわふわガクガクと揺れている感じになった。でもそれは内面の症状である。
    もし彼女がバックミラーでぼくの姿をとらえても、そんな不安定な歩行は微塵も映っていないだろう。
 とにかくぼくはなんの失敗もなく、20メートルの距離を歩き切った。
 追ってきたとわかった彼女は、いたずらっぼい目でぼくを見ている。このチャンスにぼくは賭けた。
「明日、もし時間があったら、食事にでも行きませんか」
 半信半疑の表情で運転席からぼくを見詰める彼女に、ぼくは一方的に言った。
「あなたの都合のいい時間に合わせます」
    ちょっと考えた彼女が答えた。「20時半になりますよ」
 胸のうちでガッツポーズを作ったぼくは、ワーゲンの丸っこい姿を見送った。

 翌日の夜、彼女は約束の時刻より25分遅れてやってきた。
 こちらにくる彼女の姿を確かめながら、ぼくはちょっと怯えていた。
《ごめんなさい、行けなくなったの》
    その言葉が出ないことを祈りながら、彼女を迎えた。
「ごめんなさい、ずいぶん待たせてしまって。いまからでも大丈夫ですか」
    彼女が来てくれるとわかっていたら、ぼくは朝まででも待つことができただろう。

 居酒屋の狭いテーブルは、ぼくには好都合だった。彼女とこんなに近付いていられる。
    料理は彼女の好みに任せて、それにぼくの好物を一品追加した。
    今さらながらの自己紹介になった。
「ぼくは三田英彦、タウン誌の編集をやっています」
「わたしは、つしま・みお、です」
「どんな字?」
 彼女は木のテーブル上に、指で漢字を書いた。津島美愛。
「仕事はホテルの接客、主にフロント業務をやっています」
    県内では一番格式のあるホテルで、ぼくの傷ついた愛車では気後れして、駐車場にも入れないだろう。

    ビールとワインで乾杯して、料理をゆっくりと味わった。   
    仕事の話題になったら、彼女はタウン誌をよく知っていた。小さな県の身近な話題を詰め込んだ雑誌だ。その親近効果が受けて、なんとか採算ギリギリで発行している。
「毎日飛び回っているんだ」
「それで真っ黒に日焼けしてるんですね」
「色黒と仕事の充実度は、残念ながら比例していないかな」
    ぼくが真面目な顔で言うと、彼女が不思議そうに首を軽く傾けた。
 自然な化粧が彼女を爽やかに仕上げている。それ以上に、彼女の瞳が魅力的だった。白い部分にすこしの濁りもなく、赤ん坊のようにかすかに青味がかった澄んだ白である。
    アルコールに弱いぼくは、グラス一杯のビールで顔が火照っていた。そして饒舌になった。
「はじめてのきみに、こんなこと言うと笑われそうだけど、将来はほかにやりたいことがあるんだ。まだ夢の範疇だけど……、おかしいかい?」
    おかしいに決まってる。初デートで胸中にくすぶっている種火に触れるなんて。
「そんなことないわ。男の人が目標を持ってるというのは魅力あるし」
 彼女の援護を受けて、ぼくは過去の汚点を隠しながら話した。 

「大学在学中に、コーヒー豆に取りつかれてね、コーヒーマイスターの資格を取った。そして卒業してすぐに、スペシャルコーヒーをウリにした珈琲専門店をオープンしたんだ」
(経営の相棒は大学の同期生で、恋人でもあった)
「美味しいコーヒーを淹れるのに専念したんだけれど、思ったように客数が伸びなかった」
    馴染みの客はついたが、それらはモーニングサービスに集中していて、高価格のスペシャルコーヒーを注文してくれる数はごく少なかった。
(営業数字が低迷し続けると、ぼかと相棒は常説通り、頻繁に言い争いをするようになった。ぼくの愛想が悪い。きみのつくるスイーツに魅力がない。どちらも的を射ていた)
「そもそもリサーチもせずに、憧れだけで、勢い込んで出店から、無理もないね。しかも、自分自身でも接客業には向いていないと気づいて、結局、15か月で閉店したんだ」
(そして彼女と別れ、負債が残った)
 ぼくの浅はかな出来事を、美愛はしっかりと受け止めてくれていた。

    転職してタウン誌の仕事をしはじめたが、それはぼくの夢を叶えるための、ほんのウォーミングアップのようなものだった。
    それから……、作家になりたい夢を語ろうかどうか迷った。
    彼女がぼくの話に瞳を輝かせてくれるので、
ぼくは子供が夢を語るように打ち明けてしまった。
「将来は小説を書いてみたいんだ」
 本当に夢の夢まで話が発展しそうになり、ぼくは慌てて話題をそらした。
「でも遊んでばかりで、こんなに焼けてるというわけ。――海は好きなの?」
「海は好きよ」
    なんとか彼女に飽きられないで、話が進んでいた。
「ウインド・サーフィンはやったことがある?」
「全然。やってみたい気はあるけど、わたし運動神経が鈍いから」
「大丈夫、ぼくがコーチするよ」
「ほんとに」
「嘘は大嫌いなんだ」
「わたしもよ」
 彼女は嘘をつくような女性じゃない、と、ぼくは信じた。

    偶然ではなく、確実に彼女に会えるようになっていた。
 彼女の肌はすこしだけ日焼けしている。
「ねえ、ひとつ質問していい?」
 真剣な彼女の瞳に、ぼくは飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置いた。
「このヘアスタイル、わたしに似合ってる?」「なんだ、驚かすなよ」
「どうして?」
「急にあらたまった顔をするから、何事かと思ったじゃないか」
「女にとっては真剣になることよ」
     ぼくは編集に関わっていないが、『街で見つけた、映えてるヘアー』という特集をやった。たぶん彼女はその誌面を見たのだろう。
    正直いって、編集長が発案したその企画も、出来上がった内容も、ぼくは好きじゃなかった。
    ぼくはコーヒーカップを再び手にした。
「とてもよく似合ってるよ」
 シンプルなロングストレート。ぼくは彼女の内面から出る魅力だけで十分だ。
 彼女はちいさな溜息を漏らした。
 ぼくは言い直した。
「髪を短くしたきみも、可愛いと思うよ」
「思う? いい加減な感想だわ」
「きみがぼく個人の好みを訊いたから、正直に答えただけだよ。でも、ヘアデザイナーって、やたら髪を切りたがるんだ」
「そうなの?」
「そうさ、とにかくカットの技を自慢したがる」
「でもショートにしてみたい気はするわ。このくらいまで」
 彼女が顎の線に手を置いた。
「でも、切るのはすごく勇気がいるわ」
    これまでの自分を変えようと思いながら、戸惑っているように、ぼくは感じた。
 それから、『お金を貯めて、独立したい」と、熱っぽく語るのを、ぼくは複雑な心境で聞いていた。
 独り暮らしを望む彼女に、ぼくは援助の手を差し伸べることができない。
 そのころのぼくは金銭で苦労していたのだ。 

      3

 ぼくたちの交際は三度目の正月を過ぎた。     ショートにしていた津島美愛の髪は、肩までのストレートへヤーに戻っていた。
    その髪が助手席の彼女の横顔を隠していた。
    ハンドルを握るぼくには、彼女の表情がまったくわからない。時おり漏らす溜め息だけで、彼女の心境を察した。
 重苦しい気分で運転をしながら、ぼくは美愛との出来事を考えはじめた。
 彼女は仕事を変わり、そしてぼくたちは数え切れないくらいの喧嘩をしてきた。
    その原因には、必ずどちらかの嫉妬が絡んでいた。
 つい最近も激しいやりとりがあった。
 それは彼女がぼくに内緒で、会社の男と食事に行ったことが発端だった。
「想像するような関係じゃないのに、どうして信じてくれないの」
 彼女は逆に怒りはじめる。
 食事だけなら、自宅へ帰ったのが深夜になり、途中でぼくからのラインに既読が付かなかったのは、どう解釈すればいいのか、こっちも腹が立つ。
    いやそのときは腹立ちよりも、悲しい思いのほうが強かった。
 
 転職先の話をする度に、彼女の口から、浮田という男の名前が出てきた。
    詮索しはじめると、彼女から聞かされる事情説明だけでは気が治まらず、ぼくの邪推はどこまでも膨らんだ。
 その後、不信感と嫉妬を自分の中で育てたぼくは、そのつど美愛に腹立たしさをぶつけるようになっていた。
 どうすることもできない、過ぎた出来事に嫉妬するなんて、情けない話だ。自分の手で修正できないだけに、ぼくは彼女が刻んだ出来事に神経質になった。
 それは美愛にも伝播しーーどこかで耳にした、過去のぼくの女関係についてーー彼女は度々怒った。
「なによ、あなただって、いつもわたしを誰かと比較しているくせに」
 気の強い彼女の自己防御は、相手への攻撃に移ることだった。
「ぼくがいつ比較したんだ」
「わたしには思い遣りがないとか言うじゃない。それが比較している証拠よ」
「それは一般論だろう」
「ちがうわ。あなたの言葉の奥には、潜んでいる人がいるのよ」
「ハッキリ言えよ」
「あなたの胸に尋ねてみて」
 ぼくの中には美愛以外の女はいなかった。が、現実はもっと残酷で『元カノ』というレッテルを貼った存在が残っていた。
 人生を刻む同じ時間でも、美愛と共有するのは『大切』と形容できる時間だが、元カノのほうは『償い』と言えるカタチだった。
 自己弁護が許されるなら、元カノとはある意味で繋がっていた。それは喫茶店をやっていたときの負債を、元カノが立て替えていて、それを払う義務があるぼくは、いまだに払い終えていないということ。
    銀行振込にするべきだったが、会って渡すようになっていた。喧嘩別れをしたが、時が過ぎると、たまに抱きあったのも事実だ。だがそれは、美愛と付き合うまでのことだ。
「だから、きみも自由に男と遊ぶってことか」「遊んでなんかいない!」
 こうなるともう喧嘩の治まりようがない。     数え切れないほどの喧嘩を繰り返し、それでもぼくたちふたりは、いまも交際している。
    それも毎日のように会っていた。

 片側三車線のバイパスにでた。
 ぼくは自動車教習所の模範生徒のように、左端車線を安全速度で走った。
 赤いさまざまなデザインのテールランプが、後方から現われてはすぐに小さくなり、やがて前方の暗闇に消えていく。
 なんの感情もない目でそれらの光景を見ながら、ぼくは運転している。
    車のスピードをセーヴしているのは、交通標識の制限速度を守っているからではない。家路に向かうぼくが、急いでいるという素振りをすこしでも見せれば、美愛を悲しませるからだ。
    ぼくは早くアパートに帰って、机に向かいたい、というのが本心だった。
 美愛と一緒になるには高い障害が立ちはだかっていた。
 ぼくの苦しみは、彼女の哀しみだった。  

      4

 静まり返った公園で、頼りない街灯の光が、薄汚れたプラスチック・ベンチを照らしていた。
 ベンチの端に腰掛けている美愛は、背中を丸めている。反対側の端でぼくは空を見上げていた。
「とても不安なの」
 つぶやいた彼女の言葉は、強く訴える力を持っていた。
「どうして」
 かわすようなぼくの返事に、彼女が深い溜息をついてから、口を開いた。
「心配なのよ」
「だから、なにが」
「なにもかも……、わたしの将来、あなたの本心、わたしちの関係、どれもすがりつくところがないのよ、なにを頼りにすればいいの」
    返す言葉がぼくにはなかった。
    せめて建前だけは口にしたい。
「――心だよ」
「こころ」
「そう、心」
「かたちがないわ」
「信じることって、そういうものだよ」
 しばらく沈黙が続いた。
 口を開いた彼女の声には嗚咽が混じりはじめている。
「あなたに女の気持ちがわかる? 三年近く、あなたを信じてここまできたわ。その結果、わたしは苦しんでいるのよ」
 彼女の長くなった髪が大きく揺れた。
「わかってるよ」
「わかってないわ。わかってないから、あなたは、なにも解決してくれないのよ」
 美愛は出ない結論をぼくに突き付けてきた。「そのことなら、なんども説明してるじゃないか」
 街灯にコスリカが集まって飛んでいる。小さな虫たちは何を求めているのだろう。
「ぼくに借金があることは、きみも知ってるはずだ。それをいま払い続けてることも」
「••••••」
「ゼロからのスタートができるのなら、ぼくは迷わず、きみとの生活を選ぶよ。でもぼくは、マイナスの領域で溺れかかったままだ」
 過去に何度も説明したことを、また一から話しはじめた。
「きみにはひとつの嘘もついていない。毎月、借金を返し、生活するのがやっとの状態だ」
「それはわかってるわ。でも、わたしと一緒になってからでも、借金は払えるでしょう」
「結婚って、そんなに容易いものじゃないんだよ」
 ぼくは後の言葉を胸に巡らした。
 借金を払い続けるだけで、生活費さえ充分でない男が、女を幸福にすることなんてできない。
 結婚という儀式や、戸籍上の記載だけに価値を求める、女の心情がぼくを圧迫する。
    ぼくは美愛との三年間を悔恨した。彼女を喜ばそうと、残債の少なくなっていたカードローンの金をまた借りて、遊び歩いたことは反省しなくてはならない。
 彼女といる時間だけに溺れて、将来の道を築くことを置き去りにした結果が、いまふたりに襲いかかっていた。
    だからこそ、いまは将来の幸福をつかむために我慢すべきときなのだ。借金を払い終え、正常な生活ができるまでに戻すのが先決だと思う。
    しかしそれは詭弁としての価値しかなく、優柔不断、薄情、狡猾、悪辣、とぼくへの評価は次第に落ちていった。
 蛾が羽音を激しく鳴らしながら、顔の近くを飛んだ。ぼくは苛立ちを大袈裟な素振りに込めて蛾を払った。
 彼女はそんなことなど無視して静かに言う。「ずっと辛抱してきたのよ」
 ぼくは彼女の言葉を奪った。
「どうして辛抱できないんだよ。ふたりがしっかりしてれば、やり直しは出来るよ」
 ぼくの白々しい科白を否定するように、美愛が首を振る。
「きみには、なにもわかっちゃいない!」
 つい大きな声を出してしまった。
「もっと穏やかに話してよ」
「きみが、無理を言うから感情的になるんだ」
「無理は言ってないわ」
「そう、きみは無理を言ってないかもしれない。当然の主張かもしれない。でも、ぼくにはいますぐどうすることもできない……」
    現実が開き直りになった。
「ずるいわ」
「そんな言葉で責めないでくれ。ぼくはきみのために一所懸命生きてるんだから……」
「わたしのために?」
「そう、すべてきみを第一にしている。――たとえば、まえからずっと言っているように、ぼくは小説を書いて生きたいんだ」
    この時だけは、甘い夢となじらないでくれ。
「だからいつも一緒にいたんじゃ、そのための時間が足りないから、会う時間を減らそうと言った……。そしたらきみは寂しそうな顔をした。だからぼくはきみの希望通り、毎日そばにいるようにした」
「わたしの希望、わたしを優先、なんでもわたしのためで、あなたにはそれが苦痛だったの?」
「悪かった、ぼくもきみといるときが一番楽しいし、いまでもきみが必要だ」
 話は曲がりくねって進んで、結局振り出しに戻る。
 エンドレス・テープのように、ぼくはまた繰り返し説得した。
 美愛はもう思考を投げ出していた。躰中を蝕んでいる苦しみを、ぼくにぶつけることで、いまを耐えているだけだった。
「あなたはいつも、自分の都合ばかりを押し付けるのよ」
 鋭い矢尻となった彼女の指摘が、ぼくの胸に命中した。
 呷き声の底で、ぼくは誓った。きっと美愛を幸福にする、と。

  ぼくは作家への登竜門である中央文壇の新人賞候補に、過去三回ノミネートされていた。今年は、かすかだが確かな手答えを感じている。
    彼女はすこし考え、顔にかかる髪を手で払い上げてから言った。
「結局は、わたしたち一緒になれないのね」「なにを言ってるんだ。一緒になるために、努力してるんじゃないか。もう一度やり直しをしよう」
 ぼくの言葉に対峙する、熾烈な眼差しで彼女が答えた。
「いつもその調子ね。こんな関係、もう嫌!」      夜叉のように怒った彼女の瞳から涙が溢れた。
「努力か……。聞こえはいいのよね、努力って」
 彼女の声は力を失っていた。全ての生きる情熱を放棄したように。

                     5
                                                  嘘だけはつかないようにしよう。ふたりで誓ったことを、美愛は無視するようになっていた。
    すでにこの頃の彼女は、ぼくとの別離を心の中で決めていたにちがいない。
 そんなことは全く知らないぼくは、彼女がアルバイトで仲良くなったコンパニオン仲間との、飲み会が終わるのを待っていた。
 約束の時刻からだいぶを遅れてやってきた彼女は、酒の飲み過ぎで気分が悪そうだった。
    家へ送る車のなかで、彼女は気分が悪くなり、途中の暗闇で胃のなかのものを吐いた。
    ぼくは彼女の背中をさすりながら、いまだにこんなことくらいしかできない、自分の情けなさを覚えた。

  翌日、美愛から掛かってきた電話で、ぼくは彼女の心変わりを知った。彼女はぼくに内緒で、ほかの男との交際をスタートさせていたようだ。
 昨夜の別れ際に、美愛のほうから「明日、電話するね」と優しい声を聞いていたぼくは、自分の耳を疑った。
 でも現実は残酷で非情だ。
《わたしからは絶対に別れないからね》
《そう言う女のほうが、男をすてるのさ》
 何度か交わしたせりふは、ぼくのほうが的中した。
 その反面では、『わたしからは絶対に別れを口にしない』という彼女を強く信じていたのに……。
    彼女の車のテールランプを暗闇で見送ったぼくは、その場で一時間ほど佇んでいた。
 夜空では星が寂しい光りを発している。
    見上げるぼくの頬を伝うものがあった。
    美愛の幸せを、もう一度考えてみよう。
 ぼくを残して去った彼女の車は、戻ってこなかった。

 アパートに帰ったぼくは、身辺の整理をはじめた。段ボールに、彼女からもらっていた品々を詰めていった。
(大事にしているエアジョーダンのスニーカー、若くかっこよく見えるカールヘルムのシャツ、彼女の手造りのカップ、ほかにもたくさんあった。
    それらを持ち続けるには哀しすぎた。
    捨てられなかった。始末は彼女に任せようと、最後の我が儘を託した。

 断崖絶壁に立たされていた。
    弾けて消えた誓い、付き合った長さがもたらす倦怠感、新たな出会い……、それらを含ませた風を、断崖を背にするぼくに、美愛と彼女の周囲の人間が、情け容赦なく浴びせてくる。
 それでもぼくは足をふんばろうとした。自分の中にある美愛への愛を力にして、足を支えた。
 彼女の周囲の人間が、美愛に忠告することは、もっともなことばかりだった。しかし、客観的な彼等も、胸の底では、感情、損得、意地悪さを、どこかに秘めているのだ。
   人間なんて自分自身のことでなければ、茶の間の正義感だけを相手に突き付けてくる。
 そうでなかったら、現在の立場はどうであれ、将来への愛を貫こうとする男の『真心』が、少しは理解できるはずだ。
 風が強すぎる。もう自分の力だけでは足を支えられない。
 断崖で傾いたぼくの躰に、救いの手を差し伸べられるのは、美愛が目覚めてくれることだけだった。
 ぼくは涙がこぼれる目で美愛を見た。
 彼女の瞳には『新しさ』に染まった、心の色しか映っていなかった。

 風にあおられ、ぼくの躰は宙に浮いた。その瞬間、彼女の仲間たちが嬉しそうに笑ったのが悔しい。
 深い深い奈落の底へ落ちてゆく自分を感じた。
 美愛の声が流れた。
《わたしは独りだと、いつも思っているから》      彼女の口癖だった。独りの寂しさが漂っていた。
 だからこそ、ぼくは一生彼女を寂しくさせないように、いつも一緒にいることを誓っていたのに。
    借金という足枷で縛られているぼくだが、嘘じゃなかった。 
 ぼくは頭の中で美愛と質疑応答した。
 愛って何だと思う?
 理解かしら、共感かしら、それとも選択なの? 美愛の場合は選択だね。
 恋愛は甘いだけものではなく、悲しみも、苦しみもあるのに――、最後までは耐えられなかったね。
    ぼくの目からは涙がとめどなく流れた。その涙は、黒く汚れている。流す源が腐っている証拠だった。
 相手への無理解、自分の身勝手、債務に包まれた状況、それらがぼくの心の芯まで蝕んでいたのだ。
 一週間後、体力が落ちて、頭がボーっとしてきたころ、天からの声がぼくに届いた。
《美愛の幸せを願ってあげれば、彼女はいつまでもおまえの胸の中にいてくれるよ》
 そうだ、ぼくは一番大切な事柄を忘れていたのだ。
 ぼくが谷底からもう一度上に向かって飛ぶには、彼女の助けではなく、自分の精神を洗濯して、清らかにすることなのだ。
 とらわれない心、こだわらない心、かたよらない心……、広く、広く、もっと広く……。
 そんな心境になったとき、ぼくは舞い上がれる。  


                 6

 2023年9月10日。
 神戸の海上都市にあるホテルの、最上階ラウンジ。窓際のテーブル 窓ガラス越しの眼下に、色とりどりのイルミネーションがきらめいている。
 ほの暗いフロアのテーブルの上に、津島美愛が注文したミント・ジュレップと、ぼくのためのトム・コリンズが運ばれてきた。
 キャンドルのちいさな炎が、ふたりの笑顔にやわらかな光りを投げかけ、かすかにゆれている。
 彼女が着ているモノトーンの肌触りの良さそうな素材のワンピースは、胸元が大きく開いていて、首から下りたネックレスを見せていた。ネックレスには、神戸の夜景からひとつ取り上げたような緑色の石がついていて、キラキラと光りを反射させている。
 ぼくのほうは紺色のブレザーに、ピンク地にブルー・ストライプのさわやかな色調のネクタイを合わせていた。

 今夜、この場所にいるカップルの中では、あらゆる面で、ぼくたちが最高の組み合わせのようだった。
    なによりもお互いがこの時間をとても大切にしているという点が最高だ。
 12歳以上の年令差が、いまはまだ不自然かもしれないが、あと20年、30年と過ぎれば、きっと自然になる。
 70歳と58歳のカップルのほうが、同い年より、ずっとうまくゆく。
 彼女がフルート型のグラスを取って、眼の高さに捧げた。ぼくもタンブラーを同じ高さに合わせる。
 ふたりはお互いのグラスを軽く合わせた。
    カチンと、とてもいい響き音がした。
「あなたの単行本の出版を祝して」
  彼女が言った。
「誕生日おめでとう」
    ぼくは彼女に返した。
 ラウンジ正面のステージではカルテットが静かなブルースを奏ではじめた。
「とにかく、再会できてよかった」
 トム・コリンズのジンとレモンの風味がぼくの口いっぱいに広がった。
 ミント・ジュレップに口をつけた彼女の瞳が、優しくぼくを見つめる。
「とてもきれいになったね」
「あなたこそステキになったわ」
「四年間で、人間って変わるもんだね」
「外見はね」
「そう、外見だけはね」
 ぼくが賛同してうなずく。
「あなたの変わったところを話して」
 彼女が促した。
「どんなことから話せばいい」
「たとえば、あなたの生活」
 ぼくはまたうなずき、喋る内容を簡単にまとめた。
「ぼくはいま横浜の2DKのマンションに、ひとりで住んでいる。窓からは港が見える、素晴らしい眺めの場所を、無理して借りてね」
 彼女の胸中を察して続けた。
「貯金はないけど、借金もない生活だよ」
 彼女は複雑な表情を見せて、カクテルを口に運んだ。
「独り暮らしでも、沢山の友達と仲良くなったから、寂しくはないよ。洗濯とか掃除とか、なかでも料理とは、すごく気が合ってるんだ」
「あなたが?」
「もちろんぼくが、それらと親しく付きあってる。グチを言いあって酒を飲む人間の友達よりも、それらはずっと価値観を持ってる」
「信じられないわ」
「信じることって、とても難しいんだ」
「そうね」
 彼女が苦笑した。
「きみのこれまでで、ぼくの知らないことを教えて」
「何人かの男性と付き合ってみたわ」
「それがきみを成長させた?」
 ぼくは寂しく笑った。
「あのころは、なにもかも、あなたに反発していたわね」
「ぼく自身が価値のない人間だったからさ」「あなたの優しさに、甘える自分が嫌いだったのよ、きっと」
「ぼくはちっとも優しくなかった」
「ううん。わたしが自分のことしか考えられなかったの」
「人間は誰だって、自分のことしか考えられないさ」
「あなたは違ったわ」
「きみがいま、そう思ってくれていることが、ぼくの名誉だ」
「だって、あなたが言ってたことは、すべて的中してたんだもの」
「このくらいにしとこう。今夜は記念日だからね」
 彼女は意地を通すことをやめ、相手への思い遣りをいっぱい持った、すてきな女性に変身している。
 ぼくたちは互いの瞳を見つめあっていた。

 バンドがスウィングを始めた。ボーイに頼んでリクエストしていたナンバーだった。
    BEI MIR BIST DU SCHON。邦題は〈素敵な貴方〉
 曲を聞きながら、彼女がふと漏らした。
「とてもきれいな夜景ね」
 ぼくも眼下の神戸の町に眼をやった。
「この町に住む予定だったのね、わたしたち」「予定じゃなくて、いまきみが住みたいかどうかが、重要なんだ」
 ぼくの質問にはなにも答えず、彼女が言葉を続けた。
「月日って、過ぎてしまえばすごく早いのね。待つことを考えたときには、一日だって息が詰まるほど長く感じたのに……」
「あのころのきみは、目標を見失っていた。ぼくがそうさせたんだけど……」
「あなたの夢が、羨ましかったのかもね」
「いまのきみはハッピーなのかい?」
「どうかしら……」
「すくなくとも、むかしよりは幸せになってるはずだと思うな」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「ぼくはきみと会えなくなって以来、きみの幸せだけを毎日祈ってきた。ずっと、今朝まで、一日も欠かさずに……」
 ぼくの言葉が真実であることを悟ったように、彼女は真剣な視線を返してきた。
    ぼくが祈ったのは、美愛が幸せになれるようにってことだけだ。
「きみがすでに、誰かと幸せな毎日を送っているなら、それがきみに与えられた幸せなんだと思う」
    ゆっくりと、カクテルを飲み干した。
「もし……、まだ独りだったとすれば、きみはぼくに再会することが、幸せの道だったんだ」      彼女は返す言葉に戸惑っていた。
 リクエスト・ナンバーを演奏し終えたバンドに拍手が沸いた。
 彼女が困惑を打ち切るように口を開いた。「その答えを出すまえに、どこかに旅行したいわね」
「ぼくたちはもうすでに、旅をしているんだよ。このホテルを上空から見ると、船の形をしてるんだ。人生という海に乗りだしてる」
「それじゃあ、このままずっと旅に出ましょう」
「グッド・アイデアだね」
    彼女がテーブルの脇から紙袋を取り上げた。
「あなたはこれに履き替えてちょうだい」
 紙袋を開けると、底のちびた懐かしいエアジョーダンのスニーカーと、ぼくが一番好きだったカールヘルムのシャツが出てきた。 

              了 

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