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亡骸に咲いた一輪の愛

こんにちは!
前回の投稿の最後に書きましたが、今回はある花の別名の由来について話そうと思います。

その花は、ちょうど今が見頃を迎えている雛芥子(ヒナゲシ)のこと。3月下旬頃からひと足早くオレンジの花を咲かせるこちらの花が街の至るところで見かけられます。こちかがナガミヒナゲシ(長実雛芥子)という品種で、可愛らしい見た目の花なのですが、繁殖力が強く、有害指定はされてないものの他の生態系に影響を及ぼす花として駆除対象にもなっているそうです。皮膚が弱い人とかは、あまり直接触ったりしない方がいいみたいですね。

ナガミヒナゲシ(長実雛芥子)

一方でこちらの花が、まさに今が見頃の雛芥子。シャーレーポピーという品種です。こちらは上記のナガミヒナゲシや、先日京都で野生で繁殖したとニュースにもなったアツミゲシ(阿片の原料にもなる有害指定品種)と違い、栽培や鑑賞を目的にされている品種です。

シャーレーポピー(赤)
シャーレーポピー(ピンク)
シャーレーポピー(白)

こちらはGWに平井運動公園に行った時に撮影しました。荒川の河川敷、平井大橋と総武線の鉄橋を挟んだエリアに広がるポピー畑は圧巻でした。
この日は風が強くて撮影には不向きだったのですが、それでも晴天に恵まれて、風に揺らぐ雛芥子が気持ちよさそうにしてました。
こちらの可愛らしい雛芥子ですが、色んな呼び名がある事はご存知でしょうか?

  1. ポピー:ケシ科の総称を指す名称

  2. 雛芥子:ヨーロッパ原産のケシ科の一年草

  3. 虞美人草:雛芥子の別称(後に記載)

  4. コクリコ:フランスでの呼び名(Coquelicot)

  5. シャーレーポピー:英名(Shirley poppy)

  6. アマポーラ:スペインでの呼び名(Amapola)

コクリコというとジブリの映画の『コクリコ坂から』が馴染みありますね。こちらの雛芥子はフランスやポーランドでは国花としても認定されているそうです。英名のシャーレーポピーは見た目から来ていると思いきや、実は地名が由来なんですね。イングランドのコンウォール州にシャーレーという地名があり、そこにいた牧師が品種改良したというのが由来だそうです。またスペインではアマポーラと呼ばれていて、スペインの作曲家ホセ・ラカシェの発表した曲にもあります。
そして、前置きが長くなりましたが、今回の本題の虞美人草について。夏目漱石の恋愛小説が有名ですが、この呼び名の由来が何から来ているのでしょうか。この元となった物語を知ると、とても哀しい気持ちになりますが、とても素敵なエピソードなので、是非紹介したいと思い、今回の記事を書くことにしました。

舞台は紀元前206-201年の中国。世界史の授業でも習ったと思いますが、その前時代では7ヶ国が覇権を争った戦国時代に於いて、秦王政が中国を統一し始皇帝を名乗った頃になります。その秦の時代は始皇帝死去後の二世皇帝胡亥(こがい)と実権を握って傀儡政治を行った趙高(ちょうこう)の暴政により僅か3代14年で滅びます。
その後覇権を争ったのが楚の覇王項羽(こうう)と、漢の劉邦(りゅうほう)です。この項羽、中国の歴史上でも最強の呼び声の高い将で、有名な三国時代の呂布や張飛以上とも言われています。その強さは、村人がほとほと手を焼いていた荒馬烏鵻(うすい)を簡単に乗り回し愛馬に仕立てたり、寺にあった数百㌔の重さのある鼎を持ち上げるほどの怪力を誇ります。その烏鵻を手に入れた際、村人からお礼としてご馳走を戴いた際には虞(ぐ)という女性を妻として娶りました。また、少年時代に伯父の項梁(こうりょう)が学問や剣術を教えた時には「学問は自分の名前が書ければ十分。剣術は1人を相手にするものでつまらない。自分は万民を相手にすることをやりたい」と言って項梁を驚かせていました。
一方の劉邦は沛県の小役人でしたが、ろくに仕事もせずに酒色を好んでおり、一部からはろくでなしみたいに思われていましたが、何故か周囲には人が集まるほどの人気者でした。ある日呂公という名士が沛県を訪れ酒宴を開いた際、金もないのに堂々と酒席に加わったところ、呂公が劉邦の人相を見ていたく気に入り、娘の呂雉(りょち)を娶らせました。
その後項羽も劉邦も反秦で立ち上がり、その主君として時代に名を馳せていきます。
元々秦を討ったのは、先に咸陽(かんよう)に入った劉邦ですが、その頃の劉邦はまだ力が弱く、体制も整っておらず、後に入った項羽が実権を握ります。
しかし項羽は論功行賞に公平さを欠いた為、旧国の諸侯が次々に不満を募らせ、206年の斉の田栄の反乱をきっかけに次々と旧国が独立。
その論功行賞にて劉邦は漢中(西蜀)に追いやられます(左遷)。今でも使われる左遷という言葉はこれが始まりと言われていて、古代中国では『右を尊び左を卑す』という教えがあった事から、咸陽を右(東)にして“左(西)に遷す”事から生まれたとされています。
~閑話休題~
漢中に追いやられた劉邦ですが、その際、様々な下準備を行います。まずは蜀の桟道を焼く事。これにより、項羽側から斥候(スパイ)が入る恐れを防ぎ、漢中での軍事強化を秘密裏に進められる点、また
ほぼ唯一の通行路を自ら焼く事で、東に向かう意思なしと相手に植え付けられる事。東征する際に別のルートを用意しており、そこから進行すれば相手に準備する期間を与えない事を利点にして蜀の地に向かいます。
更に劉邦の配下にいた張良(ちょうりょう)は引き返し楚に戻ります。そこで張良が採った策が、項羽の右腕である范増を論客として他国に派遣させる事、その間に項羽を故郷である彭城に遷都させる事、劉邦が軍を起こす上でその兵をまとめ上げる大元帥となる人物を探す事の3点。その中でも3つ目に挙げた大元帥となる人物が実は楚で項羽の下にいました。それが韓信(かんしん)という人物です。この韓信には逸話がいくつかあり、故郷の淮陰にいた頃は自分の食い扶持も確保出来ないほど貧しく、それを見兼ねた老婆が食べ物を恵んだり、ならず者に「腰に大層な刀を帯びているが、その刀で自分を斬るかそれとも股を潜るか」と言われ、公衆の面前で股を潜り、股夫(こふ)という蔑称を付けられたり。
その後、楚の項羽に仕えた際は謙策を奏上し、軍師の范増(はんぞう)には見込まれたものの、項羽には逆に疎まれてしまい、末端の警護兵という役割を与えられるに留まったのです。韓信が奏上した策の中には、今回劉邦配下の張良や蕭何が施した下準備を悉く読み切って注意を促していたものもあり、それを見た范増は「重く用いるか殺すか」と項羽に進言したそうです。
その奏上文を見つけた張良は韓信を探し出し、劉邦の下に行くように勧めます。こうして劉邦の下に行ったものの、風采が上がらない韓信の事を信用しなかった劉邦は役人程度の職を与えますが、それで用いられる気がない韓信は劉邦の下を去ろうとします。そこで韓信の才を見抜いていた蕭何(しょうか)や曹参(そうしん)は韓信を追い、もし劉邦が重く用いないのであれば、自らも劉邦の下を去るといい、再度劉邦を説得し、こうして漢の大元帥という最高権威を与えられ、ここに漢の三傑として名を馳せる舞台が整ったのです。因みに韓信の事は後の活躍により国士無双と呼ばれ、水嚢の計や背水の陣など、後世にも大きな影響を残します。国士無双は麻雀で最高の手とされてますが、それはここから来ています。
その韓信は見事な手腕と厳しい軍規により漢の兵を鍛え、僅か1年の間に三秦を落とし、各地の独立国を次々と落とします。
漢の政策は韓信に楚を取り囲む各地の諸侯を全て降して味方に取り入れ、基本劉邦は常に項羽と対峙する事で、足場を固めようとしていました。対する項羽は「いつでも討ち取れる」と劉邦を軽く見ていた為に各地の反乱を抑える方に力を注いでおり、度々彭城を留守にして各地の反乱を抑えに出ていました。その最中に隙を突いた劉邦は一旦彭城(ほうじょう)を占拠しますが、その時に無能な魏豹を将軍にした事で軍規が乱れ、60万の大軍を率いながら、僅か3万の項羽に完膚なきまでに叩きのめされました(彭城の戦い)。
その後再び韓信を将軍に足場を固め、最大の独立国だった斉を落とします。
論功行賞について項羽は不公平だったと先に記述しましたが、劉邦は思い切りが良く、各将にしっかりと領地を与えます。中でも項羽の下から降ってきた英布(えいふ)はそれまでの九江王から更に領地を拡大させて淮南王へと奉じられ、後方撹乱を行った彭越(ほうえつ)は梁王の地位を、そして最大の功績を上げた韓信は斉王という形でそれぞれ独立国の王として認めるほどの破格の待遇をされました。その他の諸将も然りです。
こうして全ての足場を固めた劉邦は垓下(がいか)にて項羽と最後の決戦を行います。先の彭城の戦いを初め、それまで72回に渡る項羽との戦いで負け続けた劉邦でしたが、この戦いで項羽軍を完膚なきまでに叩き潰します。軍勢は先の彭城の戦い同様に劉邦軍が圧倒していましたが、今回彭越らが項羽軍の後方撹乱を行った事で、項羽側は食糧を絶たれ、完膚なきまでに叩き潰されます(垓下の戦)。更に周囲を完全に包囲され、漢の陣から楚の郷歌が流れてくると、更に多くの兵士が望郷の念にかられ、降伏。数万の軍勢は数百まで減ることになりました。
現在でも八方塞がりになってどうにもならなくなった事を四面楚歌と言いますが、この言葉はこの出来事が由来と言われています。
この惨状に項羽は「天が儂を見捨てたのか」と嘆き悲しみます。その日の夜、幕舎で休息を取った項羽は地上に落ちた日輪(太陽)を巡って赤い服と青い服の少年が争い、赤い服の少年が最初72発一方的に殴られながら、一撃で青い服の少年を倒す夢を見ます。
この夢は実は秦の始皇帝も即位後に見た夢で、秦の天下が長く続かないのではという危惧を抱いたというエピソードがあります。そして青は項羽の旗印、赤は劉邦を指します。
この夢を見た項羽は、全てを悟ります。今起きている事は実は天命なのでは。であれば抗ったとしても結末は変わらないと。ここで諸将を呼び天命を伝え、それでも自分に付いていく者は楚兵らしく最期まで戦おう、そして去るものは追わないと告げます。そして…。

ここまで時代背景を長々と書いてきましたが、ここからが今回の主題です。死を覚悟した項羽は、最愛の妻である虞姫と今生の別れを切り出し、最期の時を穏やかに過ごそうとします。そこで項羽が詠んだ歌がこちらです。

力抜山兮気蓋世
(力は山を抜き   気は世を蓋う)
時不利兮騅不逝
(時利あらずして 騅逝かず)
騅(烏鵻)不逝兮可奈何
(騅、逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮奈若何
(虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん)

訳はこちらです。

我が力は山をも引き抜き、気は世をも蓋うというのに、時勢は不利で、騅も進もうとしない。
騅が進まぬことを、我はどうすることもできない。 
虞や、虞や、我はそなたをどうすればいいのか。

項羽は虞姫に生きていて欲しかったのです。自分はもう天命を全うするしかない。虞姫には生き延びて、仮に劉邦に捕えられたとしても、きっと悪いようにはしないだろうと…。
しかし虞姫の答えは違いました…。
「(項羽から)これまで受けた寵愛は至福の日々であり、比類なき悦びの日々でした。最愛の人を捨てて二夫にまみえるなど、私には出来ません。貴方の死出の旅を伴にするに足手まといだと言うのなら、今ここで死を賜ってください」
そう言い遺し、虞姫は項羽の短剣をさっと手にして自害したのです。
刹那の時でした。変わり果てた寵姫の姿を前に泣き崩れた項羽は、もうこの生命惜しくないと、最期の戦いに挑む決意をします。そして、幕舎の傍に虞姫の亡骸を埋め、最期の別れを告げます。
その後、虞姫のお墓の前には一輪の雛芥子の花が咲いたと言われ、後世の人々はその哀しい死を悼み、雛芥子の花に『虞美人草』と名付けました。

亡骸に咲いた一輪の愛(虞美人草)

これが雛芥子の別名である虞美人草の由来です。余りにも一途で儚くて哀しい物語。漫画も小説も読みましたが、本当に哀しくて、涙を誘います。でも好きな話でもあるのです。
互いの想いはすれ違ってしまったかもしれないけど、そこまで想い想われる関係って素敵だなと思います。残念ながら、私には縁のない話ですけど🥺

最後にその後の結末ですが、項羽に最期までついて行ったのは27人。項羽を含めた二十八の兵(つわもの)は四度漢軍に戦いを挑み、そこで討死したのは僅か二騎。その強さを項羽は「(私が)起兵してから72度戦い、全て勝ってきた。だがここで死に望む。だが今の戦いを見たか。ここで敗れたのは楚兵が弱くて負けたのではない。天が楚を見放したからだ」と高らかと言い放ち、更に死地を求めて進軍します。
執拗に楚兵を追い詰める漢軍に応戦しながら、気がつくと楚の国境に近い長江の畔に出ました。項羽の下には僅か数人だけが残っています。その項羽達を出迎えたのは項羽の臣下でした。長江を渡り再起を図ろうと伝えますが、項羽は丁重に断り、それでもその忠義の心に打たれた項羽は愛馬烏鵻を贈ります。しかし長江を渡っていると、烏鵻は主の元に還ろうと舟から落下。泳ごうとしますが、すぐに力尽きて溺死してしまいました。
虞姫に続き烏鵻も失い、残った将も馬を捨て最期の戦いに挑み、その全てが討死。項羽独りになった所で声を掛けたのが、項羽の幼馴染でした。
ここを死地と決めていた項羽は、自分の首に莫大な恩賞が掛けられていることを問い、同郷の誼でこの首をそなたに譲ると言い遺し、自害しました。
23歳で起兵し8年。31歳という短い生涯をここに閉じ、秦を滅ぼすこと3年、そして5年に渡る漢楚の戦いはここで幕を閉じました。
垓下の戦に完全勝利した劉邦は高祖を名乗り、その後約400年続く漢の国を興しました。

本当に長い長い文章になってしまいましたが、ひなげしの咲く頃に、いつか描きたいと思っていた話です。哀しくて愛おしい、亡骸に咲いた一輪の愛の物語。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
それではまた(・ω・)ノシ

平井運動公園の虞美人草
読んでいただきありがとう

参照
『項羽と劉邦』横山光輝、司馬遼太郎
Wikipedia ほか

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