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公開処刑の後始末

人生には 傷つく事なんて数しれず
それは自分が招いた物もあれば
理不尽にもいきなり背後から襲われた物もある。
どちらにしても 浅いやら深いやら
痛いやらの傷を自分でなめて
時間の力を借りて表からは見えない所まで治します。
そして、その「出来事」に対しての
免疫力はできます。
病気と同じです。
仕事も初めのうちは おこるパターンに対しての対応力は一度失敗した事で
頭の中に対応策がインプットされ
更新され どんなことにも慌てず
騒がず片付けられるようになってゆく。 「育つ」「吸収する」ことは延々と続く。

先日 複数の人の前であきらかに
故意に私の至らない技術をお客さんに責められた。 あちらは「満足する技術」を受けにきて それに対価を出すのだから
満足に至らなければ それを言いたくなるのは当たり前の事です。

「頑張っています」
「頑張りました」
「これが精一杯です」

そんなものはなんの反映もしません。

解っていてもその瞬間から のどは締まり思うように声が出ず 見苦しい姿をさらす時間に耐えるしかありません。
未熟な技術
未熟な知識
今のこの自分もまだ通過点の自分でしかない。
どこへ行こうとしているのか
人それぞれだけれど
とんな人でも 通過点というものがあり、それは人から見ても自分から見てもまだ「不足」の状態だ。
まだ160キロの投球に満たない
大谷選手が高校生の時に160キロを投げれるようになるために目標を
「162キロ」にして壁に貼っていたのと同じです。
通過点の先に目標がある。

公開処刑の後 ご飯がのどを通らず
うなだれた・・・。
どうやって自分を救ってあげればいいのかわからなかった。
いろんな言葉が頭の中を飛び交う。

「タイミングが悪かったね」
「あの人に当たらなければ穏やかに終わった1日だったのに・・・」
「いつかは起こった事かもね」
「仕方ないよ、まだ未熟なんだもん。こんな事起こって当たり前と思おうよ」
「でも あの人にあたらなければ」

自分の不運
自分の未熟

マイナスな言葉ばかりだ。
そんな自分を責めるという「負のループ」

長年生きてきて その時その時人生最悪と思って落ち込んでも
しばしうなだれたて 自分を責めて
人を責めて 頭の中を整理するのに時間はかかっても 歩き始めて進んできた事を思えば、痛い傷がまた血を滲ませる間は 止まって嘆いていても
そんな自分を許してあげようと
落ち着かせた。

人生はその落ち着いた後からなのだ。

さあ、どうする?
昨日までの自分とはあきらかに何かが違うはずだよ。
どうアプローチしていくのか?

「自分への対価」
細かく分ければ 私という人間への対価をアピールする方法は
技術 知識 だけではないはずだ。

誰もが陥る暗い穴
様々な心の傷
病と闘う孤独感

そこから立ち上がる術
私にはこの事に関してのテキストがある。役に立つかどうかは相手の問題で
私は放出するだけでいいのだ。

健康になりたくて訪れる方たちに
役に立たないはずはない。

知識と技術だけに囚われて 半ば
卑屈にお客さんと向き合っていた私。
処刑されたのは「卑屈な私のみ」なのだ。

立ち上がった私は 昨日までの私じゃない。
公開処刑によって葬ったちょっと前の「私」。
数日間の自問自答の末 辿り着いた
「今」
公開処刑の後始末は
私を次のステージに向かわせる為の
とてつもなく貴重な作業なのであった。


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