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定年退職から1ヶ月が過ぎ

昨年10月に70歳となり、この3月31日で定年を迎えた。

昔の大学教員には定年が70歳のところが多いが、本学も平成12年以降は65歳になってしまったし、一部の大学では採用時の規定を全教職員に適用して70歳定年だった教員も65歳になってしまった例がある(組合が強ければ、所謂労働条件不利益変更で揉めるところである)。身近なところでは上智大学が70歳を全在職者対象に65歳に下げたし、近在では西南学院大学はまだ70歳定年である。

4月1日には、短いながら次の雑文を書き、そのあとは「続く」としていたが、先週まで結構忙しく、早くも約1ヵ月が過ぎてしまった。

実は、この稿はもっと早く書こうと思っていたが、月初めの4日あたりから超久しぶりに風邪をひいてしまい(気が緩んだか?)、今は医者に診てもらうのも結構面倒なので数日放っておいたら、熱まで出て(微熱程度だが)、自力で治して、その後に休んでいる分の雑用や、あれこれ結構忙しくて、ようやく今日(月末)に至ったのだが、実は咳だけが残ってしまい、最近ようやく医者に行き、そこの医師の見立てではアレルギー性の咳喘息で、寝ている間が酷いので、就寝前の薬だけもらって飲んでいるが、先週末あたりからやっとおさまってきて、時間も気力も出きたので、定年を迎えた気持でも書こうかと思う。

定年前の気持ちについては、過去に次の雑感を書いているので、大学教授という世間から誤解(聖人君主でも豪邸に住んでいるわけでもない)を招いている人間の本当の素顔を含め、次の雑文を書いているので、お時間があれば読んでいただきたい。

上記に書いたように木曜日(4日)の夕方からちょっと風邪気味もあり、そんなに酷くないので、当初医者には行っていないし、今は熱があると「発熱外来」という枠で予約をとって、駐車場で待ち、そこでインフルエンザとコロナの検査があり、その後はそれなりの処置ということで、単なる風邪もこの儀式(費用も余分に嵩む)を通過しないといけないので、酷くならない限り自力で治すことにしたが、咳が止まらず結局医者に行くことになり、結構時間がかかり、なんだかんだで約1ヶ月が過ぎてしまった。
まあ、ちょっとした用事をこなすのに支障はなく、週末の土日は自宅に籠って競馬三昧であったが、休養のおかげか、桜花賞も皐月賞も昨日の天皇賞も勝ち、ここに来て回収率も100%に近くなってきたのは、怪我の功名といったところか!

さて、定年退職後であるが、何が変わったのか、実はほとんど実感がない。というのは、4月からも非常勤講師(要するにアルバイト)として、週3日も教えに行っていて、勤めていた大学に週2日、他の大学に1日で、合計で週に7コマ(1コマ90分)も教えているので、専任教員時代とほとんど変わらないということで、何が違うかというと、研究室(退去のために片付けは大変だった:後述)がなく、居場所が非常勤講師控室(まあ大部屋みたいなのも)になっただけで、スポーツクラブに行くのも、週末に趣味の競馬をするのも、友人と飲みに行くのも(まだ4月は1回だけだが)、退職前と殆ど変わっていない。

一つだけ、金銭的には給料日(25日)に銀行振り込みがなかったのには、そうなんだという感じで、非常勤講師の講師料も出来高なので来月からだし、年金の振り込みはまだで(私立学校と前任の公立学校共済と老齢基礎年金:注⓵)、どれも4月に遡って支給されるらしいが、支給額の決定は5月や6月になるとのことである。

注①:老齢基礎年金(いわゆる国民年金)については、僕は学生時代に大学院を修了するまで支払い猶予(当時の制度で、学生は支払いを免除された)を受けているので、65歳から支給を受けると、その未払い期間の分の額が減るため、支給を繰り上げて(と言うのかな)70歳から支給を受けることすると支給額が増えるとのことで、手続きの結果分かったのは、65歳からだと5万弱だった月額が支給を遅らせることで割り増しになり(実は比率とか詳しいことは分かっていないが)年金事務所の計算では6万を超える額になった。ただし、もとをとるには長生きしないといけないが、これには自信がないのが正直な気持ちである。

なので、退職金を3月末に支給されてからは収入がないのだが、まあ真面目に(本当か)35年間勤めていたおかげで、何とか3千万を少しだけ超える額(税などを引いた後)をいただき、借金もないので、しばらくは今まで通りの生活(金銭的に)のままであるが、いずれ余分な支出の部分を整理していかないといけないのかなと思っている。
例えば、あちこちのエアロビクスに参加したいので、3か所もスポーツクラブに通っているが、これは減らさないといけないし(ガソリン代も大変である)、携帯もギガをそんなに使わないのに、普通の契約(ドコモ)に入っているので、料金を見直さないといけないし、あれこれあるのだが、面倒で何も手を付けていない。

とりあえず、昨年分の住民税は給与から引かれないので、間もなくどかんと請求が来るらしく、来年の確定申告では今年の1月から3月までの給与収入に加え非常勤講師もするので、結構持ち出しになるらしく、すでに共済の任意継続(国民健康保険にせず、こちらを選んだ)の掛け金も1年単位でまとめて払って(約40万)いるし、固定資産税(請求が来ている)、自動車税などの支払いも控えているので、退職金には余り手を付けずに不測の事態(病気や慶弔他)に備えておかないといけないのだが、何せ宵越しの金を持たない性格のため、その意味でその性格を正さないと、趣味の競馬も心置きなくできないなあと思っているところである。

さて、定年退職前後の顛末を少し書くことに。

やうやく定年だなあと実感したのは、昨年12月中旬くらいだったろうか、人事課から定年までのスケジュール(研究室退去などの日程伺いなど)や退職に伴う手続き(一杯書類を書かないといけなかった)関係の書類が来たときかな!

そして、年が明け、学年度末の諸事(採点報告や入試業務など)が終わったあたりで、それまで手付かずの状況だったのが、はっきり言って切迫したものになった。先ずは研究室の退去。心に決めていたのは、数十冊の書籍や必要な個人の所有物など以外の持ち物は全て処分するで、消耗性の機械器具やいろんな消耗品はゴミとして研究室に残しておけば、大学が処分してくれることだったが、自分でやらないといけないのは次のことであった。
① リサイクル料金が必要な電化製品は自分で処分。
② 図書館に返却する必要のある書籍は自分で持って行って返却(300冊くらいあった)。
③ 個人所有の書籍は自分で処分(自宅に持って帰るかゴミとして捨てるなど)。
④ 個人情報(学生の氏名や点数他が記載された名簿、試験の答案、人事の履歴書など)が記載された紙資料などは自分でシュレッダーにかける。

①については、テレビが1台、冷蔵庫(故障したのもそのまま持っていて)2台であったが、自分で処分業者(実は福岡になく、佐賀県の鳥栖にある)にクルマで運ぶのは大変だなあと思っていたら、家電店に頼めばリサイクル料金に手数料込みで引き取ってくれることが分かり、近くのyamada電気に依頼。手数料込みで2万ちょっとかかった。

②は、とにかく一気にやらないといけないと思い、事務室から台車を借りて何とか1日で済ませたが、終わって死ぬかと思った。当初4冊が行方不明で、本学の場合弁済しないといけないので、ある程度の額(4冊とも洋書で5000円前後のもの)を覚悟していたが、自宅他を漁っていたら3冊見つかり、結局1冊はどうしても出て来ず、弁済に3200円ほど支払った(安いのでよかった)!先輩の先生に話したら、1冊は優秀とのことで、結構取られた方もいるとのことで、とくに稀覯本が出て来ず痛い目に遭った方もいるらしい。

③は、自宅にも書籍が一杯あって、もう終活の段階なので、持って帰る本や資料はせいぜいダンボール箱2つ程度と決めて(他にもいっぱいあるので)、残りは廃棄する(ゴミとして出せば大学が処分してくれるし、ISBNのついた書籍は古本として大学が寄付されたものとして引き取ってくれる)つもりも、ちょっとネットで調べたら買い取り業者がいくつかあって、東京のある業者に依頼した。手順は、段ボール箱(宅配便の1箱の引き取り重量に制限があるため1箱はミカン箱程度)をこちらの希望する数だけ業者が送ってくれて、それに詰めるだけはこちらでやり、その後指定された宅配業者が引き取りに来て(その際印字された伝票も持ってくるので、それも書かなくてよい)、買い取り業者に届け、その後買い取り価格が提示されて、その金額が振り込まれるというもので、段ボール箱40個(一つに20~30冊入るが、雑誌や学会誌は不可で、これらはこちらで捨てる)程度を送り、その金額(10万はいかなかった)が振り込まれたが、関心したのは、送った書籍の1冊ずつすべてに査定額が提示され、まあ1冊50円とかそれ以下であったが、中には500円や800円などという価格も付いていて(理由は分からん)、総額でその額になっていたが、中には価格の付かない書籍もあった。そして、引き取ってもらえない雑誌他はゴミとして処分した。まあ、段ボール箱に詰めたり、廃棄したりしながら、当時は読むと思って買った本も、結局ちらっと中を見たり、全然読んでない本や論文(これが多かったが、当然廃棄)が一杯あるなあと、まあ、学者としての怠慢さを改めて思い知らされたかな。

一つだけ雑感を書くと。大学院当時から専攻していた言語学の中でも、専門としていた生成文法の分野では、未刊行論文がやたら言及されることが多く(注②)、当時の研究者仲間でも、アメリカなどに留学している方から送ってもらった未刊行論文(博士論文も多くあった)をこちらで業者(今はもう見ることのない青焼き(ブループリント)で、注文した部数をコピーしてくれる)に頼んで、やたらめったら入手していたが、今回研究室を整理するにあたり、つい「これは読んだ、これは読んでないとか、この論文は面白かったとか、これはつまらないとか」いろんな気分が沸いてきて、思わず手を止めて中を見たりしていた。

注② まあ、こんな書き方で言及してくるのである。Chomsky (forthcoming, 1981)と言った感じで、これはまだ出版されてないものや、雑誌に掲載される前の未刊行のmanuscriptだったりするので、当時はこんなのはルール違反じゃないかと思っていたが、仕方なかった。

④については、3月になってから取り掛かり、恐らく5日間程度(朝から夕方までやっているわけではないので)かかったかと思う。シュレッダーの紙受け(裁断された紙が入る)のビニール袋が一杯になって、それも自分で代えながらの単純作業で、ホチキスなどの紙以外のものは取れとの指示もしっかり守ってであった。

そして、3月の4週目の最初あたりに、自宅に持って帰るものを運んだのだが、それでも、クルマの後ろの席やトランク部分(ワゴン車)に積んでも1回では終わらず、結局3回かかった。

結局最終的に研究室の鍵を返して、退去したのは、退職辞令交付式(そういうものがある)の後で、3月29日(金)であったが、この間、「最終講義」というものをやらされることになった。まあ、有名な研究者なら最終講義というのも相応しいし、過去に恩師や先輩の最終講義にも数回参加させていただいたが、まさか自分がやることになるとは思わなかった。

これは実名は憚るのでM氏と書くが、学問以外で懇意にさせていただいた方が中心に僕にもやれとの指令で、そのように言われては恐れ多いがやるしかなく、それでも15名も集まればいいかなと思っていたのであるが、まさか用意した資料(研究報告の抜き刷り)の40部がなくなるほどで、前にいた大学当時に非常勤で教えていた短大の卒業生など、学外の方も結構お見えになり(M氏の情宣に大感謝)、本当に感謝と赤面の気持ちで一杯であったが、おまけに講義のあとには簡単な懇親会も開いていただき、多くの方との親交を確かめ合ったのである。

本当に恥ずかしいのであるが、また。その内容に異論のある方も多いかと思うが、次のURLから(私が誰か身バレしてしまうが)視聴することができるので、しばらくの間置いておくことにする。

と言うわけで、定年退職を迎えてから早くも1ヵ月が過ぎた今日4月29日、相変わらず、ネット中継の園田競馬を見ながら(この後の兵庫チャンピオンシップの予想もしながら)、明日の講義の準備などをして、普段通り過ぎて行くのであるが、改めて、運良く大学教授という職を得て、ここまで来たなあという感慨に耽っている。

しかし、不摂生な生活をしていて、よくここまで生きてきたなあ。

(続く)







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