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被爆三世として生きる~被爆75年目の夏(その2)

国内外からヒロシマを訪れてもらうのが難しい昨今の状況を踏まえて、被爆三世の私が平和記念公園のことを伝えるボランティアガイドの新田さんに弟子入りして学び直したことを中心に綴ります。現在の街の写真に加えて、平和資料館内の写真(館内フラッシュ撮影不可)もあわせて掲載します。

※トップ画像は相生橋からみる原爆ドーム

相生橋~原爆投下目標

写真右側にうつるT字型の橋が相生橋(旧表記・相合橋)。原爆投下の目標物、目視できる標的としてこの橋が選ばれた。太田川の分岐点であり、手前が元安川、奥が本川。※おりづるタワーより撮影

江戸時代に架けられた際には通行料がとられていたが、明治になって一般開放される。H字型の時代もあったが、明治・大正と大雨・洪水による落橋等もあり、架けかえを経てこの形となる。

大正時代からは十日市~御幸町を路面電車が走る。※平和資料館より

(参考・路面電車が走りだした当時の白島線は現在の京口門の筋を通っていたが、後に区画整理によって現在のかたちとなる。)

橋の中央に路面電車の線路を有するこの相生橋。原爆投下されても落ちなかった。

本川沿いにある本川小学校も鉄筋であったため、全壊を免れる。当時1200人の児童がいたが、400人の生徒が亡くなった。女子生徒が1人遅刻して登校、大きな下駄箱のところで靴を履き替えようとしゃがんだ瞬間と原爆投下が重なったために一命をとりとめたという話も残っている。もう1つ、鉄筋の小学校として袋町小学校も爆心地に近いながら全壊を免れた。

エノラ・ゲイ

原子爆弾がいかにして廣島までやってきたかについて話を続ける。リトルボーイを搭載したB29はテニアン島から3機編成でやってきた。搭載機エノラ・ゲイの他に、投下の様子を記録する撮影機、投下後に舞い上がる物質を調査分析するための回収機がいた。時速600キロのスピードで廣島まで約5時間。その先発隊として廣島上空の気象観察機が飛んで、視界良好であることをエノラ・ゲイに伝えたのだった。

スミソニアン博物館展示
1995年アメリカ 首都ワシントンDC スミソニアン博物館にて『原爆展』を開催する準備があった。エノラ・ゲイ展示に対してその〈成果〉だけではなく〈被害〉についても展示すべきであるとの計画は、当時の米国退役軍人の反対により実現には至らなかった。しかし、そんな情勢に屈せず〈学問の自由〉の名のもとに開催を引き受けたのが同州アメリカン大学であった。当時の平岡敬・広島市長の尽力無しに実現はなし得なかったことでもある。
ただ、最近の世論調査を見ればこの当時よりアメリカ国内における原爆投下への受け止め方は随分変化しているようだ。
これは日本国内、昨今の『表現の不自由展』・あいちトリエンナーレの騒動および、ひろしまトリエンナーレ中止と合わせて考える必要がある。一側面から限定的にしか物事を考えられないのは、自戒の意も込めて、人間の弱さだと思う。

快晴の空、上空1万メートルから目視で相生橋めがけて投下された原子爆弾は誤差わずか300メートルの精度で炸裂した。木造2階の島病院の真上。爆心地から2~3キロ圏内は全壊全焼となる。ちなみに広島駅は爆心地より約2キロ。原子爆弾投下されたときに川には水柱がたったとも。爆風の威力で爆心地は真空状態になり、それが吹き返しの爆風をよんだ。従って、爆風は必ずしも1方向からではなく、四方八方から襲ってきた。1㎡あたり11トンの風圧。

原爆ドーム道路から電車通りはさんで向かいの現・商工会議所前に昔の護国神社はあった。神社の鳥居だけが残り、現在の位置、広島城へ移設された。※平和資料館内より、原爆ドームと鳥居の位置関係

煙突もそのまま残った。

ヒロシマに投下された原子爆弾・通称リトルボーイはウラン型。ウランの原子を通さない物質として、「水」と「コンクリート」の2つ。2020年の今に至るまで被爆建物が存在していることの意義を改めて考えさせられる。

たとえば、爆心地から360メートル、被爆建物・旧帝国銀行広島支店は、広島アンデルセン本店として愛されてきた。しかし、2020年建替工事によりほぼ別物に。似せて再現した気持ちはわからぬでもないが、当時の重厚な石造りの質感を失ってしまった感があり、馴染めない。一部の壁は残すとは聞いていたが。

学徒動員の犠牲

その朝7時半に空襲警報は鳴ったものの、何事も無いということで8時には学徒動員の生徒たちも集合し、8時15分には皆持ち場についていた。日本では300万人が学徒動員されたうち、1万人が犠牲になったといわれている。廣島には各地から9000名が動員され、うち6500名が原爆の犠牲となった。戦中の学生は8月10日~20日が夏休み。学年が上の生徒達は軍事支廠で兵器や缶詰製造に従事した。比治山高等女学校の生徒達は広島城内にあった陸軍の通信業務に従事。歳が若い生徒達は建物疎開、すなわち爆撃を受けたときに延焼を防ぐために道幅を広くするための作業に従事していた。小学3年生~は県北の庄原や三次等へ疎開していた。小学1、2年生は手がかかるということで親元から学校へ通っていた。

※宇品陸軍糧秣支廠(缶詰工場)のHPリンク

こちらは現在保存の可否をめぐってまだ結論がでない被爆建物・陸軍被服支廠倉庫。生活の中で目にはしてはいたが、解体の話がでて焦って間近で見て、そのスケールを感じた。保存を求めるオンライン署名も現在、約2万6000筆を集めている。

※詳細解説のHPリンク

原爆投下の検討

ヒロシマ・ナガサキに原爆投下されるまでに候補地は他にもあった。

廣島が軍都であったことは、原爆投下の選定を左右した一因として大きい。また地理的にも川が多い街であることから、焼夷弾による爆撃に不向きであった。同じ広島県内であっても、呉、大竹、三原は空襲にあっている。廣島中心部はあえて爆撃をせずにあえて残しておいて、原爆投下の威力を測定する意図があった。

京都は日本の歴史ある都であることから除外。新潟は連絡ミスにより7月に空爆をしたために原爆投下の正確な威力が測定できないがために除外される。小倉は天候不良のため除外。

長崎も天候不良のため、いよいよとなったら沖縄近海に爆弾を捨てて帰っていたかもしれなかったと。ヒロシマの威力1.5倍のプルトニウム型原子爆弾・通称ファットマンの重量では、引き返すだけの燃料が足りなかった。上空雲の切れ間の一瞬から標的に定められた常盤橋が見えたときに投下された。視界不良もあって標的からは4キロ炸裂した地点にはズレが生じて浦上天主堂から500メートルのところで炸裂した。

1975年昭和天皇記者会見

当時の感覚からすれば、〈記者会見〉というのも不敬な言い方になるそうだ。天皇から「御言葉をかける」という形で実現した。ここで本人も被爆者である中国放送 秋信利彦・当時記者(故人)が原爆投下についての質問をしている場面が映像にのこっている。

(つづく...かもしれません)

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