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私は睨んだのに、あの人は微笑んでいた


私はあの坂で、母にこう言っていた。


もう付いてこないで。ここからは、私が一人で行くから。


ごみをポイ、と投げ捨てるかのように冷たく言い放った。


あの日、母は私をとても誇りに思っていたはずだ。私だって、一生に一度きりかもしれない(今となっては「かもしれない」ではなく間違いなくそうだ、と言い切れる)自分の努力が実った素晴らしい日だったのに。

私はそれを台無しにした。


いろいろ手続きとかあるかもしれないから。一応、付いて行くよ。


そういって母は、勾配がひどい坂をまた登り始めた。当時はまだ48歳。
「まだ」。そう思いたかった。
肉体労働には慣れているし、こんな坂くらいで疲れるわけがない。


それでも徐々に上がっていく母の息を背後にききながら、イラつきを抑えられなかった。


なにそれ、当てつけ?こんな坂登らされて迷惑って言いたいわけ。


私は、数時間前までその丸い肩に抱きつき大喜びをしていたとは思えない態度で母をなじった。


今思えば、母が歳をとって行くのが怖かったのだと思う。

私たち兄弟に母はしかいなかった。そのときはまだ、父と母は夫婦だったけど、父とはほとんど顔を合わせなかった。正直、家に帰ってきているのか、なにを食べて生きているのかも知らなかった。


勘弁してよ、微熱。この坂、きついね。


母は、古臭いハンカチを鞄から取り出して額を拭いた。若い頃、東京で働いていた時に百貨店で買ったとかなんとか言っていた。それがまた、私を苛立たせた。


そんな、何十年前に買ったのかわからないようなもの。恥ずかしいからしまってよ!


自分の声にはっとし、あわてて周囲を見た。
同じような人たちが行列していた。合格通知を握りしめ、浮き足立った親子。丘の上にあるその高校を目指して、小さな点が逆流するように坂を登る。


この高校に入るなら、妥協はあり得ない。みんなが第一希望で入る高校なのだ。だから、その坂を上る全ての人が幸せで、私たちもそうなるはずだった。


私は母を取り残してずんずんと歩いた。待ってよ、と母の声がしても、他人のように歩きつづけた。


やだ、もうこのスカートも入らないの。着ていくものがないわあ!


母は合格通知を受けると慌てて押入れを開け、昔の服を引っ張り出していた。入学手続きをするためにどうして服を着替えなければいけないのかわからなかった。


押入れの匂いが染み付いたそれらの服たちは、いつかの参観日や、ピアノの発表会、大学の同窓会なんかに母が着ていたものだった。


困った、困った、と嘆く母をみて、私の怒りのスイッチは簡単に入る。


新しい服を買えばいいじゃん。どうして何も買わないの。自分が犠牲になって子育てするのが、いいことだとでも思ってるわけ。


母は気にしないとでもいうように、うぐいす色のスーツを取り出した。


いいもんねー。いざとなればこれ。腰回りがゴムだから。ああ、こういうのこそ重宝するんだわあ。


鏡の前で言い聞かせるように笑う母を見ると、いくらでも嫌味が浮かぶのはなぜだろう。


そんな色、余計デブに見えるんじゃない。
そんな服、着てる人なんて見たことないよ。
そんな体、何をごまかしても無駄なんじゃない。


母の体型が変わるのも、目尻のシワが増えるのも、昔の服をみるのも怖かった。
時がどんどん流れていく。私たちの母は年老いていく。


私たちは、母を失ったらどうすればいい?


高校の門で、結局は待つことにした。どこかでまだ、汗を拭いている母を想った。でも探していると思われたくなくて下を向いていた。
知らない顔ぶれが雑音を立てながら門を通過していく。すると甲高い声がした。


あら!微熱ちゃん。


みると同級の男子生徒の母親だった。彼はとても無口で友達はほとんどいない。私だって口を利いたことがない。それでも、彼女は私に気づいた。


微熱ちゃんも合格したんだねえ。よかったね。うちの子なんてギリギリだからさ。もう付いていけるかどうか。


聞いてもいないのに、勝手に話し、勝手に笑っていた。


微熱ちゃん、もしこの子と同じクラスになったら仲良くしてあげてくれる?友達ができるように見守ってて欲しいの。だって微熱ちゃん、人気者だから。


私は苦笑いをした。その男子生徒は、顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。その後、母親を車の中で怒鳴りつけた、なんていう話は後になって聞いた。


あんな恥ずかしいこと、よく言えたもんだよな。


そんな風に言っていた。


しばらくして母がきた。遠くから私を見つけて、手を振っていた。その顔はやっぱり微笑んでいた。



先日、地元の小さな無人駅の前を通ると二つの影があった。
女性は紺色のスーツを着ていて、それは窮屈そうに肌に張り付いていた。少し離れたところを男の子が歩いている。


女性はなにやら話しかけていたようだったが、彼は返事をしなかった。
すると突然、その女性が「あ」と小さく叫び、男の子に駆け寄った。そして、少し伸びた髪に触った。


指の先についていたのは、桜の花びらだった。


あんた、こういうの頭につけるの嫌いでしょう。昔から、虫とか花とか。田舎者のくせに頭につくの嫌がってねえ。


笑いながら言うと、男の子は心底嫌そうな顔をして彼女を睨んだ。歩く足を早め、その姿はみるみる小さくなる。女性は微笑みながら、その後を追いかけるように歩いた。


そんな姿を見て、可笑しくなった。どの家も同じようなことをしている。
ふと、スマホが震える。見ると母からLINEが入った。


「きのうの親子丼!失敗っていうからどんなのかと思ったらめちゃくちゃ美味しいじゃん?」


最後に「?」をつけるのは私の真似だ。「じゃん」は弟の真似。


母は今年、67歳。まだまだ現役で働いている。


この歳でこんなに当てにされてるのはお母さんだけだよ。
ボーナスも出すから、来年も頼むって言われちゃった。


「よかったね。また作るよ」と返事をした。顔をあげるとあの親子はまた並んで歩いていた。



今年もまた、春がきた。



いい知らせも、悪い知らせも、一度に舞い込み吹き抜けて行く春。
どうせすぐに去ってしまい、厳しい夏が来る。


それまでの少しの時間、ふたりが一緒に居られるように。
怒っても、睨んでも、また微笑んでくれるように。





このエピソードを基に、栞を作ってみました。


タイトル「春のふたり」



Produced by Binetsu Books



そのうち、皆さんのお手元にも届くとおもいます。春を楽しんで!


花粉症に苦しむ微熱より




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