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読書感想文『舟を編む』

『舟を編む』三浦しをん著 光文社文庫

「たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差し出したとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。」

「記憶とは言葉」

 作中の一文である。昔、「私はいつか言葉を失くすかもしれない」という不思議な恐怖を覚えたことを思い出した。恐怖を覚えたものの、自分でも今ひとつ、何が怖いのかよくわからない。記憶が言葉だとすると…とここを読んで、腑に落ちる感覚があった。私の恐怖の源に、言葉が与えられた、と思った。

 三浦しをんさんの本、実は初めて読んだ。この本は、「新しい辞書を編纂する」ことをテーマに、ある出版社の辞書編集部に在籍する「ちょっと風変わりなマジメ」氏の奮闘と、周りの人間たちの関わりをメインに、言葉に対する「重箱の隅をつつくような」作業を15年という歳月をかけてひたすら向き合っていく姿勢を力のある「言葉」で描き出す物語である。

 ちょっと前に「校閲ガール」というドラマがあった。憧れの出版社、でも思い描いていた「編集部」ではなく「校閲部」に配属された女性の物語だ。本を作る、原稿を修正し、出版する、ということが、とてもおもしろかった。そのドラマを見た頃と前後して、素人校正をしたことがあるのだが、最終的にプロの校正の、赤の入った原稿を見る機会があり、几帳面な、一つも見落としがないとはこういうことか、という原稿を目にし、学んでみたいと思った。そして昨年から、「校正の通信教育」を受けている。やってみれば、これがまぁ細かい!本ができるまでの順序や印刷関係の専門用語はもちろん、細かな規則と漢字、数式、様々な書体、アルファベット、などの海に溺れかけて早数ヶ月…。B4サイズの紙3枚程度の「校正課題」に数時間、いや数日かけて四苦八苦している(それでも見落としがある!)私にとって、膨大なページ数と言葉の海は、想像するだけで目眩を起こしそうであった。

 「好きだから」という言葉には収まりきれない、「ただそれをするのが、やむに止まれず、やるひと」と、「好きだが、そこまでできないひと」との溝も描かれている。その溝は深い。できないと感じている人にとって、「できる人」は悔しくも輝いて見えることを、認めざるを得ない。が、この物語では、そこに嫉妬、ルサンチマンによる断絶はなく、「好き嫌いとは別の何か」を感じ取ることで、両立して進んでゆく。

 ここで「歪みの少ない鏡」を思う。三浦しをんさん自身が、極力「歪みの少ない言葉」を選んで執筆されているのだろうと。自分より"下“と思っていた相手の中にある超えられない才能に気がついたある人物の描写が、私には圧巻であったのだ。

 「言葉」という大海をゆく「舟」。これは「船」ではない。

 明鏡国語辞典によると【[舟] は主に小型のふねや手動式のふねに使う。[船] は大型のふねのほか、「船を出す・船旅・船乗り」など、ふねに関する語に広く使う。「釣り舟/釣り船」など、小型/大型で使い分けるものもある。】とある。

 言葉の大海原に漕ぎ出す一艘の舟は、決して大型の機械を使い工場で大量生産されて作られたものでは、ないのだ。そう思うと、家にある辞書の全てを見る目が、変わった。

 

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