もしかすると所有欲の塊なのかもしれない
大学生になってすぐ、プレーヤーもないのにCDを1枚買った。
Samson Françoisが弾くショパンだ。
どうしても手に入れたい1枚だったというのではない。
実家にはレコードしかなく、晴れて自由の身になったらCDを1枚買おうと心に決めていたのだ。
バイト代を貯めてステレオセットを手に入れたのは数か月後だったから、それまでの間僕はただキラキラしたCDを眺め、悦に入る。
ずっと憧れていたCDなるものを所有しているという事実だけでよかった。
その後もCDはぽつぽつと増え、全部で100枚くらいにはなっただろうか。
しかし気づけばいつの間にか音楽はネット配信が主流となり、持つものから流すものになった。
最後にCDを買ったのはいつだろう。
もう思い出せないほど昔の話だ。
それでも僕はその100枚のCDを持ち続けている。
もうプレーヤーにかけることはないけれど。
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本を買うことは少ない。
図書館を利用することがほとんどだ。
その点、レンタルすることなどほとんどなかったCDとは違う。
まったく出版社にいた者がこんなだから、本が売れなくなるわけだ。
例外的に、好きな村上春樹は短編を除いて持っている。
また司馬遼太郎も多くを持っているが、いずれもハードカバーの単行本は1冊もなくすべて文庫本だ。
ただ読めればよく、単行本で一揃え持っておきたいという思いはない。
本にかける思いはかなりあっさりとしている。
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出版社にいた頃、編集者たちにとって文庫本は雑誌代わりと知った。
皆、昼の休憩は文庫本を1冊持って出るのが常だったが、まるで競馬新聞のように二つに折り曲げ、ズボンの尻ポケットにぐいっと突っ込んで行く。
初めてその光景を見たときに驚いたが、読み終わったらそのままゴミ箱に捨てると聞いてさらに驚いた。
単行本に比べて気軽なのは分かるが、ものを大切にと教わってきた僕にとって、たとえ文庫本といえどそのような扱いは衝撃だった。
でも出版社の人間にとっては、版面のレイアウトや装丁の細部にまで丹精した単行本こそ本であって、共通規格の型に流し込んで焼き直す文庫本は単なる印刷物であって本ではなかったのだ。
同僚に聞けば、ただ本が(つまり単行本が)手許にあるだけでいいのだという。
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となると、一度読んだらほぼ二度は開かない文庫本を後生大事にずらりと並べている僕の本棚とはいったい。
聴きもしないのに持ち続けるCDといっしょじゃないか。
手許にあるだけでいいという感覚は同僚のそれと遜色ない。
ただ経済的な理由で単行本に手が届かなかっただけだ。
僕はもしかすると所有欲の塊なのかもしれない。
(2023/6/13記)
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