見出し画像

この香りは僕を30年前に一気に引き戻す

昨日の夕食にトーストを焼いた。
ハムをのせ、マヨネーズをかけて。

グリルで2分、あっという間に焼き上がる。
キッチンに焦げはじめたマヨネーズが香りたつ。

昼から始めた仕事は14時を回るといったん眠気に襲われる。

今の話ではない。
ちょうど30年前、大学3回生の頃の話だ。
僕はその頃、編集プロダクションで編集者の卵として仕事をしていた。

編集など興味がなかった僕がその世界に入ったのは、趣味のレタリングを極めたくて、何を勘違いしたか編集プロダクションの扉を叩いたからだった。
見つけたのは大学のトイレの中に張られた1枚のビラだ。
「アルバイト急募! 編集・デザインその他」
その「デザインその他」にレタリングもあるだろうと思ったのだ。
正しくは「編集・デザイン」+「その他雑用」ということだった。

プロダクションは西洞院三条下ルのマンションの1室にあった。
「ごめんなさいね、そういったことはしてなくて」
プロダクションの主宰者には、面接でそうはっきりと言われた。
レタリングができないならと席を立とうとしたそのとき、次に続いた主宰者の言葉が僕の運命を変えた。
「仕事場見ていかない? 他にやりたいことがあるかもよ」

暇だった僕は、言われるまま隣室の仕事場に入った。
朱ペンの学生が数名、忙しそうにゲラ(校正刷り)と向き合っている。
ちょっとやってみる?とゲラを渡され、1枚やったところで、明日から来てくれる?となった。
僕の編集道が開けた瞬間だった。

僕は子供の頃から誤字脱字衍字が瞬時に目に飛び込む特異体質なのだ。
入るとすぐ認められ、校正要員のはずのアルバイトなのに、僕は校閲、組版、図版制作、取材、コラム執筆、雑誌付録の企画提案も任された。
昇給制度などなかったが、こっそり時給を100円上げてもくれた。

眠気に襲われた14時過ぎ、主宰者がバイト全員にコーヒーを淹れてくれる。
職場のすぐ近くのイノダコーヒの豆だ。
ガツンと濃いコーヒーをすすって眠気を払い、もうひとふんばり。

編集プロダクションで仕事中(若い…)

まだDTPのなかった時代、組版はすべて手作業だ。
図版の縮小指示も、上にかけたトレーシングペーパーに朱ペンで直接描き入れるという原始的な作業。

16時を過ぎると今度は小腹が空いてくる。
文字を追い、手を動かし、目の疲れもピークに達している。

そこに漂ってくるのは、焦げはじめのマヨネーズの少し酸っぱい香り。
毎日その時間に主宰者が、ハムをのせマヨネーズをかけた食パンをトーストしてくれるのだった。

30年ぶりにこの香りを吸い込みたくなって、焼いた。
一昨日の文学フリマで著者の卵たちを目の当たりにしたからか。
この香りは僕を30年前に一気に引き戻す。

(2023/9/12記)

この記事が参加している募集

編集の仕事

ライターの仕事

サポートなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!