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今までの自分とこれからの自分

あのときを境に、徐々に、時に大きく変化してきていたんだと気がついた。

きっかけは、3年前の冬、父がインフルエインフルエンザにかかり、意識混濁状態から大学病院へ緊急搬送されたときに遡る。
二度も延命治療はどうするかと、主治医に聞かれたほど、重篤な状態だったのが、幸いにも一命を取り留め、大学病院から近くのかかりつけの病院に転院、そこで治療を受け、体重がある程度回復した段階で、病院に隣接する、介護老人保健施設に入所できることになった。この時のことは、3年経った今も忘れることはできない。大学病院に搬送され、救急センターでの処置を終え、とりあえず入院したのはいいけれど、父が回復するにつれ、退院を促されるようになった。
それはそうだ、大学病院には毎日、重い病気を抱えた患者さんが来院する。入院、手術が必要な患者さんもいて、病床はいつも満床に近い状態だと聞いていた。(特別室などは別として)
あと、一週間で退院してほしいと言われたとき、実は私自身が、父のインフルエンザに感染し、回復したばかりだった。熱が下がったとはいえ、他人に感染させてはいけないので、あと一日外出は控えるようにと言われていた。
しかし、そんな悠長なことは言っていられない状態だった。
大学病院の相談室に行き、事情を話し、どうにかあと一週間程度、退院を延ばして欲しい。その間に、どうにかして転院先を見つけるからと泣きついた。
私の必死な訴えに、ソーシャルワーカーさんも病棟の詰所や、担当のDr.、看護師さんの元へ何度も足を運んでくれて、どうにか対処できるように頼んでくれた。
でも、より良い返事をその場でもらうことはできず、何か動きがあったら電話をくれるとの約束だけを取り付けて、大学病院を後にした。
外に出てみると、とっぷりと日が暮れていて、朝からずっと相談室にいたんだなと思ったら、どっと疲れが出て、やっとの思いで帰宅したことを憶えている。

不安な気持ちで家に帰ると、母が心配して、交番に届けたり、隣駅近くに住む、従姉妹に相談したりしていたことを知らされた。
そういえば、一度も母に連絡の電話をしていなかった…そんなことにも気が回らないで必死だったんだなぁと思ったら、涙が滲んできた。
しかし、ここで萎えてはいられない。必死に気持ちを立て直し、大丈夫どうにかなると、母と自分に言い聞かせ、次に何ができるかを考えていたとき、大学病院の主治医から、家から歩いて15分くらいの、主治医が関係している病院に転院できることになったとの連絡が入った
その知らせに、母は涙を流していた。
これで、まずはひと安心と胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
熱が下がったばかりで、フラフラしていたはずなのに、気づけばしゃんとしていた。もう、前に進むしかない、私がやるしかないと覚悟を決めた気がする。

転院して熱は下がっても、父はなかなか退院できなかった。
体重が極端に落ち、歩くこともままならない状態では、家に帰ることできない。
この間、介護保険関連、公的な事務処理など、父がしていた仕事を、私が一手に引き受けることになった。父が元気だった頃から、ほとんど父に頼りっきりだったが母。こんなことまで父を頼るのかと思うほど、いつの間にか、面倒なことを一切放棄していた。それはただただ甘えのように私の目には映っていたが、必ずしもそうではなかった。あとでわかったけれど、母、正常と認知症の境目、グレーゾーンにかかっていたらしい。グレゾーンは、たまに同じことを何度も言う程度で、ほとんど日常生活には支障をきたさない。
最初に分かった時は、それなりにショックではあったけれど、母が他界するまでなぜか進行することがなかったのが、せめてもの幸いだった。

父が病院から介護老身保健施設に入所することが決まって、母とホッとした同じ頃、私の身体に異変が表れた。
厳密に言えば、本当はもっと以前からなのだけれど、生まれつきの障害からくる、二次障害による脚の痛みがひどくなってきた。
まだまだ不安定な母と二人の生活に、入所中の父のこと、公的な手続きなどなど、いっぱいいっぱいの状態に、さらに自分の脚の不調が加わって、精神的にも追い込まれていた。
死にたいとまでは思わなかったけれど、病院からの帰り道、車を見ると、もし今、車道に飛び出したら、怪我をして入院することができるなと思ったことは、何度もある。実際に、実行することはなかったけれど、あの時の私は、確かにおかしかったと思う。

そんな多忙な日々を送るなか、唯一の息抜きは、月に一度の、名古屋行きだった。
朝早く新幹線で名古屋に行き、トレーナーとのエネルギー世界についてのレクチャーを受け、関連したテーマでディスカッションをして、夕方、また新幹線で帰ってくる。
観光もしなければ、美味しいものも食べない。ただただ、勉強をしに行って帰ってくるだけ。にもかかわらず、元気になれる、貴重な一日だったのに…

コロナがすべてを変えた…

続く




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