【映画評】「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975) 形式と内容の主従逆転

「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(シャンタル・アケルマン、1975)

評価:☆☆★★★

退屈な映画

 平凡な主婦の淡々とした日常を、長回しの固定カメラで延々描く映画である。3時間20分にわたって、ただひたすら、主婦の日常が映される。
 コーヒーを入れたり、じゃがいもを剥いたり、じゃがいもを茹でたり、ベッドメイクしたり、じゃがいもを捨てたり、売春したり(!)、じゃがいもを買ったり、浴槽で体を洗ったり、気色の悪い息子に「セクハラ」めいたことを言われたり……。
 ――こんな文面を読んだだけで想像がつくとは思うが、面白いか面白くないかで言えば、恐ろしく退屈な映画である。そして、言うまでもなくアケルマン監督は、「退屈」な動作を執拗に映すことで、ありふれた生活風景を異質なものとして浮き上がらせようと目論んでいるのである。あえて面白い・面白くないという言葉を使えば、そもそも作り手が「面白くない映画」を作ろうとしているのだから、面白くないのは当然といえば当然だ。

マイケル・スノウ「波長」との比較

 ここで教科書的なデータを言おう。延々と対象を映し、「映像を観る」という行為そのものに意識を向けさせる本作の手法は、ニューヨークのアンダーグラウンド映画――特にマイケル・スノウらの構造映画と呼ばれる潮流から影響を受けたものである。
 構造映画とはどんな映画か? 例えばスノウの「波長」という作品は、監視カメラのようなアングルで室内を映す固定カメラが、ゆっくりと時間をかけて壁の方へズームインしていく――という、ほぼそれだけの作品である。
 その長さ、45分。
 おまけに、カメラのズームインに合わせて、「キーン」という雑音が徐々に大きくなっていき、観客は否応なく、「自分は今、映画を観ているのだ」という事実に向き合わざるを得なくなる仕掛けになっている。「ジャンヌ・ディエルマン」に輪をかけて退屈な、恐るべき作品だ。
 とはいえ、この作品は、いわゆる劇映画(物語映画)を基準とすれば間違いなく「面白くない」映画ではあるが、スノウが意図していたこと自体はむしろわかりやすい。観客は、自分が味わっている「退屈さ」にどのような意味があるのかを読み解けるし、そのような体験には、エンターテインメントを観て面白がるのとは別の次元の「面白さ」すら感じることができるだろう。いわゆる「前衛的な作品」を観る醍醐味と言える。(以下、実験的な芸術一般を含め、広い意味で「前衛」という言葉を使う)。
 さて、「ジャンヌ・ディエルマン」はあくまで劇映画であり、手法そのものは「波長」と比べれば遥かに親切だ。実験的な手法になれている観客であれば、映画館のシートに座って3時間20分を過ごすこと自体はそんなに苦にならないだろう。また、観客、特に2022年現在の観客が読み解くべきメッセージも、全く難解なものではない。
 つまり、「波長」は「前衛的な作品」としてはある意味面白い映画であり、「ジャンヌ・ディエルマン」は、「前衛的な作品」を念頭に置けば、わかりやすい映画である。だが、劇映画を基準とすれば、あくまで両者は「退屈」だ。「ジャンヌ・ディエルマン」は、いわば、「劇映画としては退屈である」こと自体に意味を与える――という「前衛的」な手法を、劇映画の枠内で採用した作品である。

「前衛」の擬態

 しかし、言葉を変えれば、それは、表面上「前衛的な作品である」というポジションを確保するために、「前衛」の手法だけを転用するということにほかならない。作品が「前衛的」なように見えれば、劇映画のテーマとして描かれる「主婦の日常」や、そのテーマを通じてアケルマンが表現したかったフェミニズム的思想もまた、それ自体がある種、先鋭的=「前衛」的なものとして、正当性を水増しされることとなる。
 「ジャンヌ・ディエルマン」で淡々と映される「主婦の日常」――あるいはもっと具体的に、女性が男性にコートと帽子を渡す仕草や、「女はセックスのとき、短剣で刺されるような痛みが徐々に気持ちよくなるらしいよ」という気色の悪い息子のセリフなど――は、男性社会で疎外されてきた「女性的現実」の実態を示す記号として、極めて予定調和的だ。そこには何ら難解なメッセージは無いし、目新しいものもない。
 当然、1975年当時はこれが新鮮だったのだ、という反論もあるだろう。だが、それは程度の問題だ。「形式」においては、この作品はアンダーグラウンド映画の手法を反復しただけだし(もっとも、構造映画のアプローチ自体、すでに1950年代のレトリスム映画で試みられていたことの反復だったのだが)、「内容」においても、この作品は、すでにフェミニズム的にほとんど確立されていた問題意識をなぞるに過ぎない。この作品に新しさがあるとすれば、構造映画とフェミニズムを劇映画の枠内で結びつけたことであるが、アンダーグラウンド映画が持とうとした、商業的な劇映画への批判的な視座を思えば、これは皮肉である。
 「ジャンヌ・ディエルマン」は、「物語を受動的に観ること」へ批判的な意識を向けさせる手法だったはずのものを、逆に、物語の説得力を強める手法へと転用した映画である。そこでは、「物語」によって対象のあり方を固定化し、観客を誘導する、劇映画というもの自体の暴力性が問われることはない。
 おなじみの、前衛的ムーヴメントが「前衛っぽさ」の商品化へと回収される光景は、男性社会に流布する「女性らしさ」のイメージを批判するはずだったフェミニズムが、新たな「女性らしさ」の固定化に寄与していくことと似通っている。

形式と内容の主従逆転

 構造映画の方法論は、「劇映画を観る」行為が兼ね備える、普段は意識されることのない特性を炙り出そうとする。この方法論を劇映画に取り込むということは、すなわち、劇映画というもの自体へのメタ的な視点を、劇映画に取り込むということである。つまり、「ジャンヌ・ディエルマン」が擬態しようとする「前衛」性とは、「メタ」性のことだ。あるいは、それを中立性と呼び替えても良い。
 芸術表現が「前衛」的になればなるほど、世界は更に「メタ」的に俯瞰され、世界の真の姿は公正に(中立的に)表現されるようになる――という幻想は、創作者にとって魅力的だろう。だが、そのような幻想が共有される場では、むしろ、新たな表現形式によって浮き彫りになってほしい「内容」の方を先取りして作品化することが横行する。「ジャンヌ・ディエルマン」における、形式としての構造映画と、内容としてのフェミニズムの関係もそのようなものだ。構造映画のメタ的=中立的な視点によって浮かび上がるべきものとして、「女性のシャドウワーク」や「フラストレーション」といった要素は、あらかじめ選び取られている。つまり、劇空間内のある要素が、「メタ」性を伴うものとして特権化されている。
 このことは、フェミニズムが傾きがちな、女性は先天的に社会への「メタ」的な視点を持ちうるという考えにも通じ合っているだろう。女性のメタ的な視点とは、男性よりも独特で、男性的なバイアスから自由で、それ故男性よりも公正な視点ということだ。例えば、ある映画作品の監督が女性であり、スタッフも女性であり、作品内でフェミニズム思想の公式がなぞられていれば、それだけで、作品が「女性ならではの視点から撮られた映画」として肯定されるとすれば、あまりにもレヴェルが低い評価基準である。だが、フェミニズム映画の古典とされる「ジャンヌ・ディエルマン」すら、この程度のレヴェルでの評価と無縁ではない。ある種のアイデンティティ政治においては、むしろ、そのようにレヴェルが低いことこそが、最もしぶとい強みになるのである。
 今日、この作品が、「それまで注視されなかった女性の家事を執拗に映し、浮き彫りにした作品」として評価されるときには注意しなければならない。大抵の事柄は、執拗に映せば結果的に浮き彫りになるはずだからだ。「執拗に映す」ことで「浮き彫りになる」あらゆる事柄の中から、ある一つを特別に選ぶことは紛れもなく政治的な振る舞いである。しかし、この政治性は、「執拗に映す」手法が一見すると中立であることによって、容易に曖昧にされるだろう。
 こうした「曖昧さ」こそ、今日の観客が意識を向けるべきことだ。
 「ジャンヌ・ディエルマン」は、構造映画のメタ性を利用して、フェミニズム思想がそもそもメタ的=中立的なものなのだと思わせようとする。このことは、「内容」におけるフェミニズムと「形式」におけるメタ性の関係を逆転させ、「内容」においてフェミニズムを取り上げることこそが、「形式」におけるメタ性を担保しているかのような、よじれた錯覚すらもたらすだろう。わかりやすく言い換えれば、それは、男性が退屈そうに労働する姿を古典的な方法で映した映像より、女性が退屈そうに家事をする姿を古典的な方法で映した映像のほうが、(内容ではなく)表現形式において「前衛」的であるかのような錯覚だ。無論、錯覚と裏腹に、古典的な方法論は温存されたままである。
 常に「新しい問題」を提示し続けなければならないアイデンティティ政治と、常に「前衛っぽい」表現を供給し続けなければならないアート市場は、見た目上の「新しさ」のために、互いに互いを利用する。この文章ではあえて「前衛」という言葉を使ったが、女性ないしマイノリティとしての作者の属性(や、そうした属性を単純に肯定する思想)によって価値を担保しようとするあらゆる「アート」作品がはらむ問題に、この議論は適用できるだろう。(一応、個々の作品の優劣は別問題だと付言するべきだろうが)。
 端的に言えば、「ジャンヌ・ディエルマン」は、「前衛」っぽさと「女性的視点」らしさの固定的なイメージを、古典的な劇映画として商品化した作品だ。そうした意味で、この作品は、ありきたりなプロパガンダ商品である。言うまでもなく、ありきたりなプロパガンダが「メタ」=中立を装うことほどたちの悪いことはないし、プロパガンダが中立を装うための道具として利用される「前衛」ほど有害なものはない。

(2022年執筆。2023年5月4日加筆修正)

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