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【読書メモ】『なめらかな世界と、その敵』伴名練[2022]

 以下、いわゆる書評というより、雑文的な読書メモ。
 物語の核心部分についての記述を含むので、ご注意ください。

伴名練[2022]『なめらかな世界と、その敵』早川書房.

 知人から勧められていた伴名練の短編集『なめらかな世界と、その敵』を、2023年7月某日、読み始めた。同時代のSF、というか大衆文学全般を読む習慣が全くと言ってよいほどない私にとっては、「近年の小説」というざっくりしたカテゴリーそのものに直接向かい合うような心境だった。近年の小説――、すなわち、思い切って単純化するが、ライトなノベルということだ。
 この短編集自体は「ライトノベル」という分類から外れるのだと思うが、実際に受ける印象はかなりアニメ的というかキャラクター的である。表紙からしてアニメ的な美少女キャラクターで、文字通り絵に描いたような「ライト」感だ。
 そして、さっさと書いてしまうが、私は「ライト」なものは大の苦手なのである。
 近年の小説というものに手を伸ばす気になれない理由もそこであり、多分、記号的な美少女(orイケメン)が定型的なことをやって、読者を気持ちよくするたぐいの「文学」なんだろうなあと想像するだけで胃もたれして、書店のラノベコーナーはもちろんのこと、一般文芸のコーナーにすら足を向ける気になれない。純文学と称して売られている本や詩集に至るまで、私の嗅覚からすれば、近年のものはあまりにも「ライト」である。というか、小説以外の本だろうと本以外の商品だろうと、アニメのキャラクター的な「ライト」さは購買意欲を掻き立てる潤滑剤としてあらゆる場面で利用されており、周囲を見れば至るところで「ライト」、「ライト」、「ライト」な即物性が幅を利かせているのである。ライトな即物性とは、単純化すれば要するに、美少女(orイケメン)にムラっとして、つい商品を買ってしまうということだ。にっこり微笑む美男美女の記号から記号へ、欲望を手早く満たせるコンテンツを求めて、購買者たちがなめらかに遊歩する市場――これぞまさに、本書の題名通りの「なめらかな世界」である。
 本書の表題作「なめらかな世界と、その敵」で描かれるのは、誰もが自分の行きたい並行世界に行き、生きたい人生を生きることができるようになった社会であるが、これは、誰もがスマートフォン片手に自分の「ライト」な欲望を即物的に満たすことのできるようになったデジタル資本主義社会の、露骨なメタファーだ。主人公は女子高生、舞台は学校、物語が動き出すきっかけは、離れ離れになっていた主人公の幼馴染が転校してくることである。これまた、テンプレート的にライトノベル的。すべてが思い通りになる社会で、ライトになりすぎた「他者」との関係をどう取り戻すか――というそれなりにヘヴィーなテーマを、あくまでライトな記号の組み合わせを通じて描いた短編、と言えるだろう。
 さっさと白状してしまうが、私はこの本を読んでいてそれほど面白いとは思えなかった。まあ、ライトなのが苦手なのだから当然である。実は、最初の3篇、「なめらかな世界と、その敵」「ゼロ年代の臨界点」「美亜羽へ贈る拳銃」まで読んだところで脱落してしまった。「きつい……」というのが偽らざる率直な感想だ。
 無論、こういう小説が嫌ならば読まなければ良いだけのことなので、「きつい」ことそれ自体を批判するつもりはない。しかし、「きつさ」を度外視して、また過去のSFへのオマージュも度外視して、物語としての品質だけを見たとしても、この3篇のうち、少なくとも「なめらかな世界と、その敵」と「美亜羽へ贈る拳銃」は、「良い小説」とは言い難いと私は思う(「ゼロ年代の臨界点」は面白かったが、架空の歴史批評という特殊なスタイルなのでここでは取り上げないことにする)。大きい理由はずばり、作品が、自らの「きつさ」そのものへと向かい合っていないことである。自己言及が足りない、とも言える。
 ここで言う「きつさ」とは、美少女のイラストに吸い寄せられ、即物的な快を求めてコンテンツを消費する行為を客観視したとき、感じずにいられないような「きつさ」のことである。断罪するつもりはないが、いわゆる「キモオタ」的な気持ち悪さと言ってしまって良い。「なめらかな世界と、その敵」で描かれる、並行世界を行き来することで、自分が会いたいと思う通りの相手にいつでも会える世界というのも、要するに、きつくて気持ち悪い世界である。
 ということは、この作品は「なめらかな世界」のきつさや気持ち悪さの客観視をテーマにしているのか――と思いきや、見かけに反して、実はそういうわけではない。そういうテーマを取り上げようとしているらしき部分はあるのだが、深く掘り下げられてはいないのだ。
 主人公、架橋葉月が、自分自身の「気持ち悪さ」に気づかないまま世界に順応して生きているのに対して、葉月の前に現れる転校生、厳島マコトは、並行世界を行き来する能力を喪失した、「乗覚障害」者だ。いわばマコトは、世界の気持ち悪さをありのままに直視できる「眼」の持ち主であり、「他者」的なるものの象徴である。
 葉月は、「他者」との間にある断絶に葛藤する。葉月はいくつもの並行世界を行き来して、自分の都合に合わせて何人ものマコトに会えるのに、マコトはただ一つの自分の人生を生きなければいけない。つまり、現実に置き換えれば、記号化された美少女をどれだけ消費しても、その向こうにいるかもしれない「他者」と本当につながることはできないということである。
 葉月は葛藤の末、自分もマコトと同じ「乗覚障害」を負い、ただ一人のマコトとともに生きていく決意をする。美しい女子高生同士の友情、美しい青春物語、読者も思わずつられて感涙――。
 きっついなあ、と私は思った。
 ここでは、定型的な記号の向こう側にいるはずの「他者」は、自分を受け入れてくれる美少女として記号化されているし、「気持ち悪い」世界の脱出というテーマ自体が、青春物語を定型的になぞることでしか描かれていない。つまり、「なめらかな世界」を脱出する行程が「なめらか」すぎるのだ。私は別に、ストーリーが私の好みではないからケチをつけているわけではない。しかし、ストーリーを改変しないまでも、この小説は、どこかで、葉月とマコトの「なめらか」すぎる友情もまた虚構でしかないのではないか、と読者に違和感を覚えさせなければならなかったのではないか。それがなければ、「なめらかな世界」を客観視できる「他者」の眼が小説に投じられたことにはならないだろう。
 それはまた、友愛や(この場合はレズビアン的な)恋愛というもの自体がそもそも、「他者」をモノ化して自分に都合よく利用することにほかならないのではないか、という問いを読者に突きつけることにもなったはずである。
 そういう問いを突きつけているように見えて、実は全然突きつけていない小説が、本書の3つ目の短編、「美亜羽へ贈る拳銃」だ。一言で言えば、主人公に都合の良いことが次から次へ、これでもかと起こる小説である。
 舞台は、脳にインプラントを注入して人格を改造する技術が実用化された世界。この技術を巡って、神冴脳療と東亜脳外という2つの勢力がしのぎを削っている。東亜脳外は、神冴一族に生まれながら神冴脳療に反旗を翻し、14歳のときに出奔した神冴志恩が立ち上げた研究機関である。
 物語の主人公は、神冴脳療の一員でありながら脳医学ではなく経済学を専攻している、神冴脳療にとって「最も無価値の人間」、冴えない15歳の神冴実継。実継は志恩の弟だ。その実継が、東亜脳外で研究者として活躍する天才(美)少女、北条美亜羽と出会うことから物語は動き出す。美亜羽は志恩の養女である。
 神冴脳療内の過激派の暴走によって、志恩は殺され、美亜羽も両足を失う大怪我を負う。美亜羽を守るため、実継は、美亜羽を自分の養子として迎え入れ、神冴脳療側に引き入れようとする。神冴脳療への憎悪をたぎらせる美亜羽は、一旦その申し入れを承諾して神冴家の一員となった上で、自分にインプラントを注入! 自分を神冴脳療にとって使い物にならない「無価値」な人間に改造することで、復讐しようというのだ。その結果、美亜羽は――
 高度な抽象思考能力が減衰した(わかる)。
 内向的な性格に変化した(わかる)。
 攻撃性が低下した(わかる)。
 実継を異性として好きになった(!?)。
 そう、美亜羽は、自分が実継に恋をして、好きで好きでたまらなくなるようなインプラントを自分に注入していたのだ!(なんで!?)
 その結果、実継の前に現れる無垢かつバカかつ従順な美少女。やったあ、美少女ゲットだぜ! と浮かれるのかと思いきや、なぜか実継は文学的にウジウジウジウジと葛藤する。神経細胞をいじくって無理やり作った虚構の愛を受け入れることは出来ない――ああ、俺はどうすれば良いんだ……。
 葛藤の末、実継は「元の」美亜羽のfMRI画像を発掘。これを元にインプラントをコーディネートすれば、美亜羽を「元の」美亜羽に戻せるぞ! 意気込んで美亜羽にそう伝えるも、美亜羽はこれを拒否する。お願いです、わたしを殺さないで、振り向いてもらえなくても構わない、わたしは、あなたを好きなわたしのままで生きていたいんです……。
 きっついなあ、と私は思った。
 作者も、書きながらそう思ったのかもしれない。実継と美亜羽は人格の同一性について感情的な議論を戦わせ、実継はついに、「好きでもない誰かへの好意を植え付けられてしまった人間は、可哀想だと思う(…)その愛は――気持ち悪いものだと思う」と、読者の気持ちを代弁するかのようなことを口走ってしまう。言ってしまってから、実継は少し後悔する。

今の発言は、彼女の人格そのものを「気持ち悪い」と否定したも同然ではないか? 気持ち悪いから死ね、と言うのとどんな違いがある?

[p.147]

 と、こういう葛藤を描いておくことで、「気持ち悪い」と思いそうになる読者に釘を差すわけだ。しかし……そりゃ、物語中の文脈から言えば、「好きでもない誰かへの好意を植え付け」る主体も「植え付けられてしま」う客体も、ともに美少女キャラクター美亜羽かもしれないが、現実的な文脈からすれば、こういう「気持ち悪い」ことを書いているのは作者、それを喜んで読んでいるのは読者なのだ。自分たちの「気持ち悪さ」を棚に上げて、「気持ち悪さ」の責任をすべて美少女キャラクターに押し付け、美少女キャラクターを免罪することで、どさくさ紛れに自分たちの「気持ち悪さ」も免罪するような――読んでいて煙に巻かれるような議論である。
 最終的に実継は、自分はアイデンティティの同一性を巡って葛藤していたのではなく、ただ単純に、「今の」美亜羽ではなく「元の」美亜羽に恋していたのであって、自分が好きな「元の」美亜羽を取り戻したいだけだったのだと気づく。そう、そこにあるのは、<ある女性から好意を向けられていながら、心は別の女性に奪われている、ただそれだけの色恋沙汰だったんだ>[p.180]!
 しかし、はっきり言ってこれまた説得力の薄い理屈である。それほど深く付き合っていたわけではない美少女に惚れていたとして、その少女が外見はそのまま、自分のことを大好きでいてくれるような人格に――しかも彼女自身の意思でインプラントを注入することで――変わったという都合の良すぎる状況下、一体こいつは、要するに何が不満なんだ!?
 主人公がウジウジと葛藤する本当の理由はただ一つ、そうしなければ、あまりにも作品の「文学味」が薄くなってしまうということだ。都合の良すぎる状況下で主人公が何の不満もなく過ごすだけの、消費財としての恋愛ポルノと一線を画すためには、なんとしても「文学味」が死守されなければならない。それはつまり、美少女という記号をあまりにも「なめらか」に消費して読者が気持ちよくなる経路をどこかで阻害して、美少女に対して読者が抱く幻想をどこかで裏切るということでもある。
 そのように読者を裏切ろうとしている形跡は、他の部分からも読み取れる。3時間だけ「元」に戻るインプラントを注入され、召喚された「元の」美亜羽は、実継への憎悪をむき出しにし、実継の愛を拒絶する。さらに、自分は本当は養父である志恩に恋愛感情を抱いていたのだと告白。読者、そして実継が思っていたようなクールで孤高で異端の天才美少女なんかではなく、ただ、本物の天才である養父に叶わぬ恋心を抱いていただけの凡庸な人間だったのだと明かされるわけである。
 そしてさらに「元の」美亜羽は、インプラントで作られた「新しい」美亜羽の人格は、本当は、実継に好かれるために無垢を演じているだけのしたたかな女なのだとも暴露する。実は「新しい」美亜羽は、実継に隠れて恋愛小説を読みふけり、どういうシチュエーションなら実継が自分に振り向くか研究し、実継をずっと騙していたのである! どうだ参ったか、「新しい」美亜羽の本当の姿にさぞかし動揺しただろう、と勝ち誇ったように笑う「元の」美亜羽。
 ……いやいやいや、それ、どう考えても実継が動揺するほどの「本当の姿」じゃないだろ!
 私は思わず読みながらツッコミを入れてしまった。案の定、<「驚きはしたよ……けれど、あなたの思っているほどじゃない」>[p.173]と軽くあしらう実継。当たり前である。実継、というか読者が美少女に抱いている「気持ち悪い」幻想を打ち破るべく明かされる、美亜羽(の両方の人格)の「本当の姿」というものは、それ自体が、人々が美少女に抱きがちな「気持ち悪い」幻想の別の側面でしかないのである。確かに実継は「元の」美亜羽に失恋するが、「新しい」美亜羽にこれからずっと愛され続けることに変わりはない。どれだけ言い訳したところで、「美亜羽へ贈る拳銃」という小説は、脳を蹂躙して少女をモノ化したい、どす黒く「気持ち悪い」妄想をぶちまけた作品以外の何物でもないのである。いわば実継は、世界の外にいる「他者」と出会うことなく、小説の中でこれからも、すべてが都合の良い世界に閉じ込められ続けるのだ。
 繰り返すが、私は別に、「気持ち悪い」ことそれ自体を批判・断罪したいわけではない。ただ、美亜羽の「本当の姿」の発覚、または実継の失恋という出来事が、世界の気持ち悪さを客観視しうる「他者」との出会いとして、作中で少しも機能していないことを指摘したいだけだ。機能していないこと自体は良いのだが、機能しているかのように見せるのは良くない。<俺は、あの子と、もう一度出会わなければならない>[pp.183-4]じゃないんだよ、まったく。
 というわけで、私は「美亜羽へ贈る拳銃」を読み終えたところでこの短編集にギブアップしてしまった。おそらく、「なめらかな世界と、その敵」も「美亜羽へ贈る拳銃」も、文学というより論理パズルとして読むべき作品なのだろう。一つ一つの要素はパズルのピースとして互いに噛み合い、伏線は丁寧に回収されていき、登場人物の心情というものにも、パズルのピース以上の価値は与えられていない。実継が「新しい」美亜羽を好きになれない理由も、実継の理想の相手は<自分より圧倒的に賢い人間>[p.103]であるという、物語の最初の方で明かされる設定でさり気なく片付けられるし、「新しい」美亜羽は、実継が大好きということ以外ほぼ何の特徴もないキャラクターとして単純化されている。「新しい」美亜羽と「元の」美亜羽の人格は、インプラント一つでデジタルに切り替えられる程度の軽さである。インプラントの注入は、物語の中で美亜羽の脳を蹂躙し、美亜羽をモノ化すると同時に、物語の外でも(つまりメタ的にも)、キャラクターを、パズルのピースとして扱いやすくするという意味でモノ化するのである。
 だが、だからといって物語の中でインプラントの注入を拒んでも、パズルのピースとしてモノ化されることから逃れられるわけではない。作中で、実継の体には、あらゆるインプラントを無効にする「無関心機関」と呼ばれる装置が埋め込まれていることが明かされるが、この事実は、それ自体が、志恩の過去に深く関わり、実継の行動を左右する、論理パズルの重要な一ピースなのである。
 すべての物事をあまりにも簡単に、都合よく、軽く、「ライト」に動かせる世界で、それでも「ヘヴィー」であり続けるということ――これが、「なめらかな世界と、その敵」と「美亜羽へ贈る拳銃」に共通するテーマである。だが、なぜ「ヘヴィー」であり続けるのかという問いに対して、これらの作品は、極めて「ライト」な答えしか提出することができない。世界の外部にいる「他者」は両手を広げて自分を受け入れてくれる美少女として理想化されているし、世界を捨て、「他者」のもとへと近づく過程はあくまでロマンチックに美しく描かれる。「なめらかな世界と、その敵」で、マコトと同じ「乗覚障害」を負うため、薬品K056を飲んだ葉月は、<壊れかけの乗覚が誤作動し捉えた、数えきれない、夥しい世界の幻像を>[p.62]視る。すべてが思い通りになる世界から追放され、障害者へと変身を遂げるときに感じるはずの苦痛、恐怖、無力感は切り捨てられ、障害者になる直前に視た世界の「ライト」な美しさだけがここでは描かれる。だが、「ライト」な記号へと翻訳し得ない、「ヘヴィーであること」の厳しさや醜さを、それでもなお肯定すべきものとして扱うのでない限り、「ヘヴィー」であり続ける根拠を提示する――あるいはせめて垣間見せる――ことにはならないはずである。
 だが、ここでさらに次のように問うことも可能だ――すなわち、小説の中で「苦痛」や「恐怖」や「無力感」を描くことで「ライト」な記号に対抗する、という方法は、本当に有効なのか。そのようなモチーフを小説に登場させたとしても、それ自体が、別の種類のライトな即物性と化すだけなのではないか。ホラーや「難病もの」の小説にはそうした要素がたくさん出てくるかもしれないが、それらは本当にライトノベルよりも「格上」の文学と呼べるのか。別の即物性をぶつけるということは、結局、インプラントという都合の良いSF上の設定に、「無関心機関」という別の都合の良い設定をぶつけるようなことでしかないのではないか。つまり、そもそも論として、小説は本当に「ヘヴィーであること」を描きうるのか、という視点である。
 「なぜヘヴィーであり続けるのか」ではなく、むしろ、「どのようにヘヴィーであり続けるのか」という問いに対して作中に用意された答えを読み取ることで、「なめらかな世界と、その敵」と「美亜羽へ贈る拳銃」は、ひょっとすると、小説というジャンルにおけるヘヴィーな「文学味」というものの正体を垣間見せてくれるかもしれない。これら2篇で、登場人物が陥る「ヘヴィー」な状況というものは、やはり即物的――あるいは技術的、物理的、そして病理学的である。
 つまり――
 「なめらかな世界と、その敵」では、登場人物は、K056という薬品によって、「なめらかな世界」の恩恵をこうむることのできない乗覚障害者となる。
 「美亜羽へ贈る拳銃」では、「無関心機関」を埋め込まれた実継の身体は、インプラントの恩恵をこうむることができない。つまり、実継もまた一種の「障害者」である。そして、インプラントの注入で「元」に戻ることを拒む美亜羽もまた、両足のない障害者だ。
 つまり、いずれの作品でも、主人公は、障害者である(になる)ことを媒介として「他者」とのつながりを獲得するわけである。
 単純化して現実に置き換えれば、こういうことだろう――美少女(orイケメン)の登場するコンテンツをスマートフォンで好きなだけ消費できる社会、そしてSNSアプリ上で「なめらか」に指を滑らせればいくらでも友達を増やせる社会では、物理的に腕がなかったり、目が見えなかったりする障害者たちは、少なくとも健常者のようには技術の恩恵をこうむることはできない。つまり、スマートフォンがインフラと化した社会では、障害者たちは「他者」である。「他者」と本当の意味でつながるためには、健常者は、自ら腕を切り落とし、失明し、スマートフォンを物理的に使えないようにならなければならない……。
 これは確かに「ヘヴィー」な、なおかつ身も蓋もなく即物的な解決策である。現実生活では圧倒的な不便を強いられる身体障害者の表象が、その「他者」性ゆえに、むしろ現実社会からの圧倒的な自由を示す記号と化す昔ながらのパラドックスを、「美亜羽へ贈る拳銃」は描いていると言える。ここで潜在的に扱われるのは、両足を切り落とすことで少女の身体をモノ化したいというどす黒い願望であるが、これは、「他者」としての障害者のイメージとともにあることによって自由を得たい願望が、サディズムを媒介としたものにほかならない。
 ちなみに、谷崎潤一郎「春琴抄」は、明らかに、同じ種類の願望をマゾヒズムを媒介として描いた小説だ。これまた「きつい」作品だった。……名作だが。
 さて、多くの健常者にとっては、「他者」である当事者の不便さをまるごと引き受けなければ「他者」に出会えない、という結論は、受け入れがたいものだろう。圧倒的に「不便」にならなければこの社会から「自由」になれないパラドックスがあり、そして、なおかつ、「不便」になることは、物理的にも心理的にも圧倒的に難しいことである。これは、差別糾弾闘争における、「差別される苦しみは当事者にしかわからない」という言い方にも通じる難しさであるはずだ。
 「なめらかな世界と、その敵」と「美亜羽へ贈る拳銃」は、そうした難しさを、SF的に便利なアイテム、そして論理パズル的に定型化された心理描写によって手早く解決してしまう。すべてが思い通りになる「なめらかな世界」で親友と苦しみを分かち合いたければ、さくっとK056を飲めば良い。どんな人格にもなれる世界で色恋沙汰に悩みたければ、「無関心機関」を埋め込まれておけば良い。障害者に特有の不便さと、不便さゆえの自由は、技術の助けを借りれば簡単に獲得できるのだ。あとは、ほんの少しの不運、葛藤、勇気さえあれば、あなたもめでたく障害者。便利すぎる技術と自由すぎる技術がせめぎ合う最前線で、登場人物は「他者」に出会うだろう。
 しかし、それは結局、「不便さ」を実現するために、技術の便利な力を使うということにほかならない。
 SFというジャンルにおいて、「他者」との出会いが科学技術の力で実現されることは驚くに値しない。そして、そのようなSF的想像力は、デジタル資本主義社会において、「他者」について思考することの一つの類型を示しているはずだ。「他者」とは、社会にくまなく行き渡っているはずの技術の力が、何かのはずみで少しだけ到達しづらくなった場所に垣間見える「誰か」(または「何か」)である。ということは、技術の力が到達しづらい場所を、技術的にあらかじめ用意しておけば、そこに「他者」は召喚されるはずだ――というわけである。
 だが、そのように、「技術の力を到達させづらくするための技術」によって召喚される「他者」は、あらかじめこの社会に包摂された、偽の「他者」でしかないのではないか。
 ついでに言えば、現実の障害者たちは、生活上の不便をなくすため、誰よりも(ただし健常者とは違う方法で)科学技術の恩恵をこうむり、社会に包摂されていく。真の「他者」との出会いなるものがあり得たとしても、それは、技術の力がまだ到達していない場所に、技術を到達させること――すなわち、まだ社会に包摂されていない「他者」を包摂し、「他者」を「他者」ではなくするということでしかないだろう。障害者が、障害者であるというだけで「他者」たりうるとする考えは、健常者にとって(そして時には障害者にとっても)都合の良い幻想だ。
 これらのことは、「他者」との出会いを、単純に技術的な問題として想像することの限界を示していると言える。
 そして、小説というジャンルが、読者から「なめらか」に消費されることを拒むため、即物的な「文学味」を強めようとすることについても、同じように考えることができるはずだ。「ライト」な即物性を打ち消すために「ヘヴィー」な即物性をぶつけるということは、技術の力が到達しづらい場所を、技術の力で確保するようなものである。技術的なたわみが「他者」を召喚しないのと同様、即物性の中に「文学」が実現されることはないだろう。いや、それとも、「文学」や「他者」なるものがあり得たとしても、それらは結局、現代社会においてはその程度のものでしか無いと言うべきなのだろうか。「なめらかな世界と、その敵」と「美亜羽へ贈る拳銃」が、あまりにも都合よく「なめらか」すぎるその物語世界に対して、ほんの少し違和感を覚えさせてくれていれば、そこに「文学」性は垣間見えていたかもしれないのだ。
 伴名練のいくつかの短編において、SF的想像力と「文学」が同居できなかったという事実――皮肉な言い方をすれば、そこから読み取るべきなのは、むしろ、この社会において、「他者」的なるものと出会うことがどれほど無意味であるかということなのかもしれない。あるいは、「他者」的なるものが徹底的に無意味だと認めるところからしか、「他者」と真に出会おうとすることは始まらない、と言い換えるべきだろうか。

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