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おとなとこどもを通り抜けるための技術コンクール 〜『リコリス・ピザ』は青春映画にあらず!〜


イマドキ珍しい正攻法の真っ直ぐなボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーで思春期のきらきらした青臭いときめきを思い起こさせてくれる快作!
という一般的な評価は的外れ。とまではいかないが、その線に沿って考えを進めるとうっかり本質を取り逃してしまうおそれがある。
これは徹頭徹尾、技術を巡って展開される大人の映画だ。

・開巻劈頭2秒でミーツしたボーイとガール、ゲイリー(クーパー・ホフマン)とアラナ(アラナ・ハイム)が、学校の渡り廊下から体育館へ、絶え間なく空間を移動しながら投げつけあう言葉の応酬。気の利いた切り返しと口説きのヴァリエーションから成る会話のテクニック。
·····コツは熱くもなく冷たくもない平熱のテンションをキープしつつ、諦めず粘り強く行うこと。

・ウォーターベッドの販売やピンボール場の経営に見られるクーパーの実業家としての才覚、二人が共同して行う俳優オーディションにおける大胆かつ戦略的な経歴詐称など、ハッタリと先読み、お受験における傾向と対策のテクニック。
·····コツは誰よりも早く、セクシーにぶちかますこと。
(事業を始めるに当たってクーパーは、「地域でまだ誰も取りかかっていない」点を念入りに確認する)

・ガス欠で立ち往生した車、真夜中の峠。付近には怒り狂った大人ピーターズ(ブラッドリー・クーパー)が待ち受ける。この絶体絶命のピンチをハンドリングとバックギアで切り抜け、ゲイリー一行を見事に救うアラナの運転テクニック。
·····コツはここ一番の思いきりと度胸。
(アラナは、当のヤバイ大人代表ピーターズにも「運転が上手だね」と褒められる)

冷静に考えてみてほしい。
15歳と25歳のラブストーリーが描かれる本作にあって、しかし、これらのテクニックはすべて大人のものだ。
もし仮に、若者たちが思春期の馬鹿騒ぎを通じて大人になるためのテクニックを徐々に身につけていく過程を圧縮して切り取ったものが“青春映画”であるとするならば、若者たちが思春期の馬鹿騒ぎの真っ只中にあって既に習得済みの大人のテクニックを華麗に披露していくこの映画を、われわれはどのように受け止めればいいのだろう?
ここには、こども時代の競技者と、おとなテクニックの演技者、2つの“player”概念を巡る興味深い相反と乖離がある。
つまり、自らと限定されたその周囲はあくまでこどもの特権を保持したまま、清濁併せ呑むおとなの演技を巧みに成功させてみせること。これこそが彼らが目指す『クール』な生き方なのだ。
(互いに惹かれ合うゲイリーとアラナが仲違いする決定的な場面。二人は『どっちの方がよりクールか』を巡って言い争う)

だがポイントは、映画後半、ますますもって『クール』に耽溺していくゲイリーとは対照的に、アラナはそこから静かに身を引き剥がし、現実へと回帰しようとしていくことだろう。
深夜の峠、絶体絶命のピンチをアラナの見事なハンドルさばきで切り抜けた一行。恐怖の一夜が去り、朝の光がしらじらしく差し込んでくる、美しくも虚しいエアポケットのようなあの時間。
「アラナすごいよ!天才!ぼくらのピンチを救ってくれた!」などとゲイリー筆頭に大はしゃぎする男どもを尻目に、ガソリンスタンドに一人座り込んだアラナは、大人になることを心密かに決意する。
彼女の眼前には、次期市長選の立候補者ジョエル・ワックス(ベニー・サフディ)の宣伝ポスターが。

かくしてアラナはショービジネスの世界から足を洗い、ジョエルの事務所で真面目に働き始める。現実社会を動かす政治と一人前の男たちとでできあがった大人の世界へ参与することを誓うのだ。
もっとも、後に明らかになるように、ジョエルはある秘密を抱えているためにあらかじめ一人前の男像から遠ざけられている人物であり、彼の背中に憧れを重ねているアラナにとっての政治参画は実のところ“現実主義”という名のいまひとつの『クール』の模擬演習に過ぎないのだが。
おとなをコスプレするこどもたちはやはり、どこまで行ってもロールプレイングの快楽から逃れられないらしい。

実際、『リコリス・ピザ』を“青春映画”として捉えようとすると、ぎりぎりのところで無理が生じる。なぜなら、この物語には青春ものを成り立たせる上で必要なあるクリティカルな要素が欠けているからだ。
即ち、挫折→絶望→再起という成長のための主題。
よく注意して見ればわかるように、本作の登場人物たちは誰一人挫折しないし、したがって絶望を経験しもしない。どころか、思春期につきもののトホホな失敗すら、ほとんど影も見られないのだから驚く。
なるほどウォーターベッドの販売は石油危機の影響によって廃業に追い込まれるが、ゲイリーはまるで落ち込む素振りを見せない。落ち込んでいる暇があったらすぐさま次の行動に打って出るのが彼という人間なのだ。
本作が教えてくれるのは、自らを絶望から保護するために必要なのは、雄々しくはあってもあいまいな精神論ではなく、具体的な技術=テクニックの冷静な習得と実践であるという教訓だろう。

といって、無論のこと、物語は楽観的な展望に終始するわけではない。
あの恐怖の峠は、こどもとおとなの狭間の季節の空間的な表現であるにほかならない。前に進むには、ガソリンのエネルギーが足りない。後ろを見れば、自らの欲望を剥き出しにした大人の象徴として、恐ろしい化け物(ピーターズ)が待ちかまえている。
前にも後ろにも進めない、無邪気なこどもにも固有の欲望を保ったおとなにもなれない、そんな坂道を、暗闇のなか張り詰めた緊張を持って、がたごとと揺れ動きながらも“通り抜ける”彼らの姿は、われわれの心に深い印象を残すはずだ。

さて、以上のごときプライヴェートな物語の構造を、もっと大きな構造に引きつけて眺めてみよう。
先日、ポール・トーマス・アンダーソンを、デヴィッド・フィンチャーと並んで、アメリカ社会の病理=無意識を精神分析する作家であるという仮説を立ててみた。

この説に沿うなら、今回、PTA=カウンターカルチャーとしての優秀な精神分析医が俎上にあげたものは、70年代のアメリカが抱えていた無意識、即ち「クールでありたい」、「クールでなければならない」という強迫観念であると言えるだろう。フロイトーラカンの言う“超自我の命令”、“汝、享楽すべし”という父の指令が深く内面化された形である。
カウンターカルチャーの流れを汲んだ科学的宗教サイエントロジーの創始者を登場人物のモデルに据えた『ザ・マスター』が、戦後若者文化の爆発と反戦運動の高まりというオモテの歴史(意識)に対するウラの歴史(無意識)として帰還兵のPTSDやアルコール依存の問題を扱っていたといたとすれば、『リコリス・ピザ』が描いているのは、その後の若者たちがどうなったか?社会システムからのドロップアウトを歓迎する極端な「クール」像が70年代に至ってどのようにうっすらした病へと変質したのか?というアクチュアルな問題だと言えるのではないだろうか。
いわば本作は『ザ・マスター』と異母兄弟の関係にある作品なのだ。
物語を躍動させる“走る”という人物たちの運動性については既に多くの指摘がなされているが、より重要なのは、その運動が不条理な(ほとんどカフカ的な!)現実を涼しい顔で通り抜けるためのマジカルな演出として現れ出ている点だ。
もっとも見やすいのは、ゲイリーが無実の罪によって逮捕される場面。
ウォーターベッドの展示が行われているティーンエイジ・フェアの会場。セクシーな美女を使って販売促進を目論むゲイリーのもとを訪ねてくるアラナ。なごやかに会話を交わす両者だったが、突然そこに警官隊が乱入してき、ゲイリーは乱暴に手錠をかけられ、車で連行されてしまう。
口汚く警官たちを罵りながら(必死なだけに笑える)後を追い、懸命に走るアラナ。
はたして警察署の中で面通しされた結果、なんらかの事件の被疑者であろう男に「違う、こいつじゃない」と言われ、無言のまま警官に手錠を外されるゲイリー。あまりの急展開ぶりについていけず、ベンチに座ったまま茫然自失の表情。
そこにアラナが追いついてき、正面玄関のガラスまで越しに「早くこっちに来て!」と身振り手振りで合図する。
その様子をしばらくはぼんやり見ていたゲイリーだったが、やがてのろのろと立ち上がりアラナの方へ。
そして抱き合う二人。見つめ合い、笑い合いながら走り出す!
この一連の流れの、不自然なまでの自然さ、奇妙にも現実離れした現実感覚の表出はどうだろう!
ここでわれわれの身の内に起こる経験の感覚は、『ザ・マスター』で、ホアキン・フェニックス演じる帰還兵が海軍艦から脱走し、走って走ってしらみはじめた真夜中未明の(あのエアポケットの時間の!)キャベツ畑を通り抜け、さらに走って走ってフィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教の教祖がいる豪華客船の中にさまよい込む、あの優れてマジック・リアリズム的なシーンと同質のものである。
(ここで言う「マジック・リアリズム」の感覚がわかりにくい方は、PTAが手がけたRadioheadのMV『Daydreaming』を見ていただくとイメージがつかみやすいのではないかと思う。異なる時間と空間を“通り抜け”ていく弱き魂!)


つまり、『リコリス・ピザ』は、『ザ・マスター』で実験的に試みられたマジック・リアリズム演出を一歩進んだ形で大胆に導入した作品なのだ。本作の全編に漂うきらきらとしたマジカルな感覚の発露は、ひとつにはこうした企みの成果だと言っていい。
さらにわれわれは、PTAの作品中に見られる“走る”という運動性の不可思議な効果を、デヴィッド・フィンチャーの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』と、同作の脚本家エリック・ロスが脚本を担当した『フォレスト・ガンプ 一期一会』と結び付けつつ、社会に上手く馴染めないものたち(アメリカという国が置き去りにしてきた無意識)
が、20世紀アメリカを時間的・空間的に通り抜けていくことの比喩として捉えたい。
それはとりもなおさず、強く正しく、それでいて心の奥底で深く病んでいるアメリカの意識を、弱く傷つきやすい(vulnerableな)無意識が癒していく、という精神分析的なストーリーを描いているのだ。
本作を観賞後、やはりPTAはアメリカの無意識を精神分析するカウンターカルチャーとしての作家であるとの認識をいっそう強くした次第。
多様な読みの可能性へと開かれた圧倒的な傑作だ。

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