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ボーダレスからタイムレスへ(庭の話 #11 )

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第10回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。

1.「庭プロジェクト」と2人の友人

 プラットフォームの支配下で発生する人間間の承認の交換、相互評価のゲームを内破する「庭」的な場所の可能性について考えるのがこの連載の目的だ。そこ(「庭」)は人間と人間ではなく、人間と事物とのコミュニケーションに基礎を置く場所になる。このとき、事物が人間間の承認の交換に飲み込まれないためには、人間の発信することへの欲望を相対化する必要がある。そのためには、事物の側が能動的に人間にアプローチし、人間はそれらに受動的に触れるというコミュニケーションが重要になる。そしてこの人間に対し強くアプローチする事物には物語が、それも共感に訴え、物語を受け取った人々が自らそれを語ることを動機づけられるナラティブではなく、物語それ自体の完結性の高いストーリーが必要とされる……というのが前回までの議論だ。ナラティブの連鎖ではなく、いくつものストーリーが人間を(ときにゆっくりと)襲い、そして(ときに知らず知らずの間に)不可逆的に「変身」させてしまう場所ーーそれが私の考える「庭」なのだ。前回の最後に紹介したある銭湯のエピソードは、その手がかりを教えてくれる例として考えればよい。

 さて、そこで今回はこの問題を少し少し回り道をして考えてみたい。ナラティブではなくストーリーが作用する場所としての「庭」を考える上で、今回は私と長年対話を続けてきた二人のプレイヤーの仕事を参照したい。それは以前取り上げた、チームラボ代表の猪子寿之と、彼の盟友である丸若裕俊の2人だ。私は彼らの制作物のコンセプトについて、対話を重ねながらその言語化と体系化をサポートしてきているが、その中で得た知見やアイデアはこの「庭の話」、そして「庭プロジェクト」にも大きな影響を与えているのだ

2.2016年の敗北と「ボーダレス」な世界

 猪子率いるチームラボが「ボーダレス(境界のない)」をそのデジタルアートの中心的なコンセプトに据え始めたのは、2015年のシリコンバレーの展示の前後だったように思う。この時点で、猪子が述べていたのは西洋近代的なパースペクティブを用いた世界像の把握に対して、東洋的、日本的な空間認識に基づいたデジタルアートを構築することだった。

〈近代以前の日本の絵画は平面的だと言われている。だが本当はそうではなく、その平面は、レンズや西洋絵画のパースペクティブとは違った論理構造によって二次元化された空間     だったのではないか。その論理構造で二次元化された絵画平面は、絵画が表す世界と鑑賞者の身体がある世界との間に境界が生まれない平面なのではないか。そして、近代以前の日本を含む東アジアの人々には、世界がその論理構造で見えていたのではないか。          
 西洋絵画のパースペクティブや現代の視覚メディアのようにレンズで景色を切り取ることは、つまり三次元の情報(空間)を二次元の情報(平面)へと、論理的に変換することだ。しかし数学的に考えれば、論理的な二次元化の方法は、ほかにも無数に存在する。そして、それらの方法による二次元化はどれも同等に正しい。なんらかの情報量は当然減っていくが、同等に減るがゆえに、レンズでの平面化・二次元化だけが論理的な二次元化の方法ではない。つまり、現代の人々は、テレビや写真などレンズで切り取った     表現を常に見ているため、世界が     写真や動画などのように見えている可能性がある。 そのように世界を     見ていると、自分の肉体と見えている世界との間に境界が生まれやすいのかもしれない。逆に、近代以前の空間認識の論理構造で世界を見るならば、     そこに境界が生まれにくい     のではないか、と。〉

 猪子の述べる「日本的な」空間認識の方法は初期のチームラボのデジタルアートのコンセプトにおける、基礎的な理論になる。その延長に発生したのが、「境界のない(ボーダレス)という概念だ。

〈具体的にはコンピューター上に三次元で作品空間をつくり、近代以前の日本美術の平面に見えるような三次元空間の二次元化の論理構造を探した。より詳細に     言うと、鑑賞者の身体がある世界と、平面が表す世界(=鑑賞者が     見ている作品世界)との間に     境界が生まれない二次元化の論理構造を探した。やがて、その論理構造による平面は、 視点が移動でき、分割や統合     でき、折ること     もできることを発見した。作品空間と、鑑賞者の肉体がある世界との境界を生まない平面になるように、前述の論理構造に基づいて二次元化したこの空間を「超主観空間」と名付けた。
 視点が移動できるということは、鑑賞者の身体を止めることなく     自由にし、作品世界を身体で認識できるということを意味する。超主観空間による平面が分割できるということは 、同じ作品の平面に対して、複数の鑑賞者が自由にそれぞれの位置から、自分を中心にして部分的に作品の平面を見て、作品世界に入ることができるということだ。さらに、超主観空間による平面が統合できるということは、作品間の境界をなくし、異なる作品空間を平面上で自由に統合し、新たな作品空間を自由につくることもできる。そして、超主観空間による平面が折れるということは、作品の展示空間を自由にすること もできる――こうした考えが生まれてきた。〉

 初期のチームラボを代表する伊藤若冲の絵画を再解釈したデジタルアートが前者(超主観空間)の産物なら、今日のチームラボが世界中の都市で展開する大規模なデジタルインスタレーション展示は後者、つまり「ボーダレス」の具現化なのだ。
 そしてこのチームラボの「ボーダレス」というコンセプトは、2016年以降政治的なメッセージに接近する。背景にあったのは、同年のイギリスのEU離脱を決定した国民投票(Brexit)とドナルド・トランプのアメリカ大統領選挙での当選だ。時代がグローバリゼーションに対するアレルギー反応のフェイズに入ったという認識は、「ボーダレス」というコンセプトに半ば結果的に政治性を与えたのだ。
 それが具現化したのが、2015年9月にロンドンのSaatchi Galleryで開かれた「teamLab: Flutter of Butterflies Beyond Borders」だった。ここでチームラボは『Flutter of Butterflies Beyond Borders / 境界のない群蝶(以下、『境界のない群蝶』)』を公開する。これは同じ空間に並べられた複数の作品間を越境して、つまり異なる複数のインスタレーションやディスプレイの間を、蝶のグラフィックが越境して飛来していくというものだ。

 同展について、猪子は私との対談でこう述べている。

〈うーん。いま、ロンドンの人たちはすごくショックを受けてると思うのね。EUができて、世界の境界がなくなっていく流れが出てきたと思ったら、その揺り戻しが起きてしまった。EUって、人類の歴史上の奇跡だったわけじゃん。しかもそれによって良い結果も出てたのに。〉

〈「境界のない世界の方が良い」ということが、いかに論理的に正しくて経済合理性があったとしても、そんなことを超越して人々が拒否したわけだよね。もし言語や論理で完全に説得できるなら、その方が明確だし良いと思うんだよ。でも、それじゃダメだということで、ある種のインテリ層が敗北していってるわけじゃん。
 僕はさ、都市部のインテリ層は実際に「境界がない世界」を体験しているんだと思うのね。それは別にビジネスとかだけじゃなくて、たとえば僕は好きな国に自由に行けて、自分たちとは全く違う発展をしただろう文明の遺跡とかを見たりできてるわけ。そういう体験があるおかげで、すごくニッチかもしれない表現でも、世界が相手だったら理解してくれる人がどこかにいるんだという実感がある。実は都市部の人というのは、境界がない世界の素晴らしさを無意識に体験していて、だから無自覚だったとしても境界がない方が良いという価値観になっているんだと思うの。〉

〈でも、田舎のローカルコミュニティで生きている人は、たとえば海外に行ったりとか、外国の人と知り合ったりする機会とかって少ないのかもしれないと思うんだよ。そういう体験ができるのは、恵まれた環境で生きてきて、経済的にも少し余裕がある一部の人たちだけ。だけどさ、アートって、究極的にはどこにでも持っていける疑似体験装置みたいなものだと思うんだよね。
 だから、「境界がない世界」を日常では体験できない田舎のローカルコミュニティでしか生きてない人でも、アートを持っていけばそれを疑似体験できると思うんだよ。そして「境界が曖昧なのって超気持ち良いんだな」みたいな体験をすることで、ほんのちょっとでも価値観が変わったら良いなって僕は思ってるんだよね。言語や論理でいくら正しいことを言っても価値観ってものは変わらなくて、実際の体験が価値観を変えると信じてる。〉

 2016年は多文化主義とカリフォルニアン・イデオロギーという2つの今世紀初頭を牽引した政治的、経済的なアプローチが敗北したーー少なくともその反動によって大きく足踏みをしたーー1年だった。前者は甘い砂糖菓子のようなと揶揄されがちな理想主義的なアプローチであり、後者はもともとヨーロッパの古い左翼たちのシリコンバレー的なものへの「悪口」として考えられた言葉だった。しかし、後者ーーアメリカ西海岸のヒッピーと東海岸のヤッピーの「野合」ーーが実現したグローバルな市場というゲームボードに、居住地も出自も人種も無関係に個人がコミットし得る環境は、多文化主義の理想を大きく後押ししたことは疑いようがない。初回で述べたように、今日の世界がその副作用に苦しめられているのだが、2016年はその反動が大舞台で一挙に噴出したタイミングだった。
 そして猪子は、この政治的、経済的な「敗北」への応答として「文化的」なアプローチを試みるのだと述べる。それは言い換えれば「正しさ」でも「効率の良さ」でもなく「気持ちよさ」「カッコよさ」を用いたアプローチだ。「境界のない世界」に適応したクリエイティブ・クラスは、まだこの世界に生きる人類のうちのほんの一握りでしかない。適応できない大多数の人々が、ブレグジットを支持しトランプを大統領の座につけた。そして、猪子はこの「壁」を乗り超えるために言葉やインセンティブの提示だけでは「足りない」と主張しているのだ。そもそもこの「境界のない」世界は「正しい」から拡大したわけでもなければ、「効率が良い」から拡大したのではない。「効率の良さ」は支持の原因かもしれないが、それだけではない。その拡大を駆動していたのは快楽であるというのが、猪子の理解だ。したがって、「境界のない」側に立ってメッセージを届けるときに「正しさ」に訴え、「効率の良さ」を説くだけでは足りないのだ。そして、その「足りなさ」を埋めることができるのが文化的なアプローチで、それが自分たちのデジタルアートのコンセプトになるのだ、と。

〈だから、この絶望と汚物に溢れている世の中で、ギリギリ残る人間の希望的な部分であったり、世界の美しい部分が、アートを通じて見られるような気がするんだよ。〉

 ちなみに、この2017年ロンドン展の最後の部屋に展示されているのは『Dark Waves』と題された作品だ。

〈川や海などの水は、線の集合として表現されています。そして、その線の集合はまるで生きているかのような躍動を感じさせます。本作は、コンピューター上で三次元的に無数の水の粒子の相互作用を計算し、波の表層部分の粒子の挙動を線の集合で描き、チームラボが考える「超主観空間」によって平面化し映像作品にしたものです。〉


 日本の伝統的な絵画の表現技法、とくに空間認識をコンピュータープログラムに置き換え、アニメーションを自動生成するーーこの作品そのものはチームラボの初期の作品に多くられた形式のアップデートにすぎない。しかしこの作品を、猪子は意図的にロンドンでの展示の最後に配置したという。

〈今、イギリスは世界に対して再び境界をつくろうとしてるから、太古からの境界の象徴として、海の作品を展示した。〉

 海とは、イギリスとその外の世界とを切断してきた存在だ。そして、いまこの海という背中断線は再び力を取り戻しつつある。そこで猪子は「ボーダレス」と題したこの展示の「海」を切断的なものではなく、(「超主観空間」による)接続的なものとして表現する作品を展示したのだ。この海は、実のところなにも隔ててはいない。作品と作品との間も、作品と鑑賞者の間も。

 こうしてこの時期にこの「ボーダレス」というチームラボのデジタルアートの初期から温められていたコンセプトは結果的に広義の政治性を帯び、そして前面化していくことになる。チームラボは2018年の東京・お台場を皮切りに、世界の様々な都市に大型の常設展示施設を建設している。2023年4月の現在では移転中の東京に加え、シンガポール、上海、マカオにこの常設展は開催されており、今後はハンブルク、北京、ユトレヒト、ジッダで予定されている。そして猪子はこの世界の各都市に建設した自分たちの拠点にチームラボ「ボーダレス」という名前を与えたのだ。

 この世界各地の「チームラボ・ボーダレス」では2017年のロンドン展などで培われたノウハウが全面化することになる。

〈境界のないアートは、部屋から出て移動し、他の作品とコミュニケーションし、影響を受け合い、他の作品との境界線がなく、時には混ざり合う。そのような作品群によって境界なく連続する1つの世界。

境界のないアートに身体ごと没入し、10,000㎡の複雑で立体的な世界を、さまよい、意思のある身体で探索し、他者と共に新しい世界を創り、発見していく。〉

 各都市のチームラボ・ボーダレスはその規模に差はあるものの概ね広大な敷地を持つ。その内部は迷路的に設計され、鑑賞者はその暗闇の中をさまよいながら、デジタルインスタレーションと戯れることになる。その多くが、鑑賞者の存在を認知することで変化するタイプのものだ。たとえば、壁に飛び交う蝶のグラフィックに何気なく触れる。この蝶は複数のインスタレーションやデジタル絵画を越境して侵入し、会場内を常に飛び交っている。人間が触れると、蝶の身体はもろくも崩れ去る。蝶の身体からはやがて花が咲く。これらの植物は人間の存在に反応して、その繁茂や開花が変化していく。鑑賞者の挙動こそが、作品のアニメーションを決定する。つまり、鑑賞者の存在と挙動も作品の一部なのだこのように、チームラボ・ボーダレスの内部では常に人間と作品、作品と作品の間の境界線が消失することになるのだ。

3.「庭」とデジタルアート

 御船山楽園は江戸時代前期に、佐賀藩の武雄領の第二十八代領主・鍋島茂義の別荘の一部として操演された「庭」だ。その総面積は15万坪にも及び、ツツジや紅葉の名所として知られるこの場所を訪れた人々は、ちょっとしたハイキングに挑む気分でこの巨大な庭を1時間から2時間ほどかけて回ることになる。別荘地の「庭」として開発されたのは江戸時代前期だが、土地そのものの歴史は古く、庭園の中心には推定樹齢300年の大木があり、奥深くには約1300年前から存在すると言われる行基由来の五百羅漢像もある。
 チームラボは2015年から佐賀県武雄市の御船山楽園で展示を続けている。特に毎年夏季に開催されるプロジェクションマッピング『かみさまがすまう森』はこの8年で、この土地の風物詩として定着し多くの観客を集めている。私は猪子がこの展示を計画中に御船山に同行し、一緒にこの「庭」を歩いたこともある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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