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災害や戦争のニュースに感じる「後ろめたさ」に向き合うために、僕が自分に課している2つのルール

元旦から気分が滅入るニュース続いてしまって、何を書けばいいのか……と思わずにはいられないのだけれど、今日からこのnoteの更新を再開したい。昨年と同じように、前日に考えたことをまとめる、というスタイルを基本にときどき作品評や新著の草稿、雑誌連載の連載などを混ぜていきたい。

さて、今日僕が書きたいのは「後ろめたさ」についてのことだ。災害や戦争など、社会という単位で共有される大きな問題が起きたとき、人間はそれをどう受け止めたらよいか分からずに戸惑う。より具体的にはその「戸惑い」にどう向き合っていったらいいのかということについて書いてみたい。そして結論から述べると、僕はこの「後ろめたい」という感情は大事にすべきだと思う。しかし、その「後ろめたさ」を他人を責めることにつなげるのだけは止めたほうがいい、ということだ。そして同時に「何かしたい」という気持ちが芽生えたときは、そこから逃げないほうがいい。少なくとも僕はこの2つのルールを自分に課している。

では、その理由を書いていこう。

2011年の東日本大震災のとき、僕はこの自分が経験したことのない大きな災害に戸惑い、そしてそれをどう受け止めたらいいのか、きちんと考えようと思っていた。僕はその頃、年長の物書きから疎まれ、SNSに風評を流されたりひどい誹謗中傷を受けたりしていた。そして彼に気に入られるために、こうした嫌がらせに加担してご機嫌を取ろうとする若い物書きやファンダムの住人たちがたくさんいたことにも、ものすごく失望していた。さらに当時の日本はだんだんとTwitterがインターネットの中心になろうとしていた時期で、僕はこの新しいプラットフォームが作る「世間」がこうした陰湿な、ムラ社会的なコミュニケーションの場所として、とても「有効」に機能してしまっていることにも失望していた。

だから僕は震災直後の新聞のインタビューに、Twitterを中心としたインターネットは新しい「世間」として機能するのだと述べた。震災直後は、TwitterやLINEといったアプリケーションが新しい情報共有の手段として注目されていたので、肯定的な側面にも言及していた。しかし、僕はこのとき既にこの新しい「世間」に陰湿なものを感じていた。

たとえば当時「不謹慎」な振る舞いをSNS上で咎める人たちが急増した。東北がこのような未曾有の大災害でたいへんなことになっているときに、お前たちは楽しそうに振る舞っている様子をなぜ投稿するのか、と(僕も友人たちとモノポリーをしている様子を投稿しただけで、ここぞとばかりに攻撃された)。しかし、僕は思う。果たして瞬間湯沸器のように、その場で不安を共有するために、形式的な、ほとんど定型文のようなかたちでアリバイのようにSNSに「お悔やみ」の類を投稿することや、十分な判断材料もないままに適当な分析を投稿することが社会的な「コミットメント」なのだろうか。震災を疎ましく思う同業者を中傷するための口実に用いるような態度は、果たして「社会的」なのだろうか。

普通に「お悔やみ」を述べたいと考える人はいて当然だと思う。しかし、「そうしない」人を責めて、自分はより真摯で倫理的だとアピールすることに卑しい他虐的な自己愛以外を認めるのは、僕は難しいと思う。

もちろん「とりあえず何か言う」ことは、「いま、ここ」で不安を紛らわすためには必要なことなのかもしれない。しかしそれ以上の意味があるとは、僕は思えない。

僕はあのときからずっと、こう思っている。とりあえず「いま、ここ」にアリバイ的に、問題を気にしていますというアピールをするのはやめよう。それはそれで意味があるのかもしれないけれど、僕はもっと粘り強く考えて、時間が経ってもいいからちゃんと状況を改善できるコミットにしよう、と。

僕は震災から数ヶ月後、東日本大震災の応答として『リトル・ピープルの時代』を出版して、その印税を全額寄付している。それは震災をきっかけに考えたことをまとめた本なので、そうするのが筋だと考えたからだ。ちなみにこの寄付も、「ちゃんちゃらおかしい」と前述の人物から罵倒された。僕はこの発言を、一生許す気はない。

また、検察官の定年延長の問題でTwitterで反対運動が起きたとき、僕はこの運動に直接は参加しなかった。僕はこの少し前から、Twitterで意見表明をするのを避けていて、代わりに時間はかかっても、しっかりとあとに残るものをしようと考えた。その少しあとに、僕は石破茂、菅野(山野)志桜里の両名を招いて、憲法と三権分立を考えるオンラインイベントを開いた。こうした司法権の独立を脅かす行為が発生する原因を、法の側面から考えることに意味があると思ったからだ。

そして、ここは誤解しないで欲しいのだけれど、僕は当時Twitterで展開されていたハッシュタグ運動を、一切批判していない。そもそも、僕はこの運動の主張を支持しているので、批判する理由がない。ただ、自分には別のコミットの仕方があると考えたから、そうしたのだ(動画配信などでは、支持を表明していたはずだ)。

しかし、残念ながらいいまX(旧Twitter)を主戦場にするアクティビストの多くが、僕のこうした「かかわりかた」を認めてくれない。同じタイミングで、同じ話題に、同じ語彙を同じ形式で投稿しないと共闘していると認めてくれないし、最悪の場合は自分たちの運動に「水を差す」という理由で攻撃の対象にまでされてしまう。繰り返すが、僕は自分と違うやり方でコミットしているひとたちを、少なくともある時期からは一切批判していない。人それぞれの「かかわりかた」を尊重することが、これからのアクティビズムの前提になると考えているからだ。

さて、その上で僕は「後ろめたさ」についてどう考えたらいいかを簡単に書きたいと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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