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たとえどれほど「いいこと」が書いてあったとしても「強い側が弱い側を貶めている」言説は「シェア」しないほうがいいという話

最近、硬めの話が続いたので少し身近なこと(でも、大事なこと)を書こうと思う。

僕はもう何年も前から「ニュースをシェアする人」をあまり信用しないようにしている。もちろん、その人ならではの視点から有効な解説を加えてくれる人もたまにはいる。そして権力の横暴に対してしっかり「声を上げる」ことはとても大事だと思う。

僕はSNSの左派ポピュリズムに乗らないし、人間関係的にも距離があるのでなぜか「声を上げる」ことを冷笑する側にカテゴライズされているけれど、そういった「人間関係的に敵か味方か」でしか考えられない人たちは、僕がテレビのワイドショーをクビになった経緯とかを調べてみるといい。

話を戻すと、ほとんどの人の場合はそのニュースをシェアする人で自分の「立場」を表明しているだけで、特定のコミュニティからの「承認」を目的にしている。飲み会でボスの気に入らない相手の悪口を言って若手が気に入られようとする醜悪なコミュニケーションとあまり変わらない。

特に気をつけなければいけないと思うのは、強いものが弱いものを批難しているものを「共感」したと言ってシェアする行為だ。

これはかなり危険なことだと僕は思う。市民が政府や大企業について、つまり弱いものが強いものに対抗するために「告発」する場合と、たとえばオーナーや経営者が従業員に対して、有名人がその家族や身近な人(無名)について書く場合では、かなり性質が違う。

その記事のメッセージがたとえどれだけ「正しく」「立派」なものだったとしても、そこで例示されているエピソードがもしかしたら彼/彼女が悪意を持って、あるいは思い込みでその人を不当に貶めているものかもしれないという可能性を、僕たちは絶対に忘れてはいけないと思うのだ。

西原理恵子さんの娘さんの問題が少し前に話題になったけれど、彼我の発言力に差がある場合「言われた」ほうの訂正コストは本当に大きく、ダメージからの回復が難しい。僕も僕を潰すために業界の年長者からひどいデマを何度も流されたことがあり、いまだにそれを信じている人もいると思う。

そいいう経験をしているので、僕はまるでワイドショーのコメンテーターのように記事をシェアして「共感」する人のことをあまり信用しないし、特にその発信者が自分より弱い対象を悪者にしているときはその発信者の発言内容をある程度疑うようにしているし、何も考えずに「共感」して拡散している人はものを考える力が足りていないと判断するようにしている。

では、どうすればいいのか?

僕の提案は「自分の言葉で(それ自体には言及せずに)書く」ことだ。と、言ってもまだよく分からないと思う。だから、具体的に説明しよう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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