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能登という場所

後悔

去る年の12月2日。私は能登半島を旅行していた。

元々は金沢競馬場に行くという大目標を携えて、どうせなら能登の方にも行ってみようという好奇心からであった。

そして、私の無計画から訪問できた場所は珠洲市の「珠洲岬(聖域の岬)」と能登島の「のとじま水族館」だけであった。

少しの物足りなさを感じ、この時はまた能登に行って輪島の方にも行ってみようと漠然と考えていた。

いつかは…と思っていた私はその1ヶ月後に後悔することになった。

もっと時間をとっておけば…
日程をずらして2泊くらいしてゆったり周っていれば…
考え始めると袋小路に閉じ込められそうな気さえしてしまう。

なぜここまで後悔するのか、それは能登半島に起こった地震のせいだ。


令和6年能登半島地震

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

新年の挨拶が飛び交い、各々実家に帰省したり正月休みを満喫していた元日の16時過ぎ。


石川県能登半島沖で震度5強以上の地震が発生した。


大きな地震は元日中頻発して起こっていたが、特に16時10分に発生した震度7、マグニチュード7.6の地震では家屋の倒壊、火災、津波などの二次災害を引き起こした。
これを原因として、石川県では1月11日時点で死者213人、安否不明37人を数えており、同日政府はこの地震を「激甚災害」「特定非常災害」に指定した。

また、地震の規模や長く続く余震から、気象庁は元日午後この地震を「令和6年能登半島地震」と命名し、報告書を順次ホームページにあげ続けている。
気象庁が地震に名前をつける時は大きな被害を受けた、または想定している場合のみで、震度7を計測し、土砂崩れによる被害を引き起こした「平成30年北海道胆振東部地震」以来である。



今回の地震の被害の中で特に注目されたものとして、「輪島市の大規模な火事」、「珠洲市での津波被害」「石川県各地の液状化現象」など様々あるが、一際大きくクローズアップされたものとして「高速道路や鉄道などの交通網の寸断」が挙げられる。


元々低い山や丘陵地に沿って人里が立ち並ぶ「里山」の地域が多い能登半島では、幹線道路が少なく、能登半島の端にある珠洲市まで伸びる高速道路が存在しない。
(金沢市から穴水町をつなぐ自動車専用道路(のと里山海道)はある)

のと里山海道

道路も「能登の大動脈」と呼ばれる国道249号線を初め県道が様々連なっているものの、その多くが山間を通る道であるため、地盤沈下や土砂崩れによる通行止めが相次いだ。線路が歪んで鉄道が使えず、滑走路が地割れを起こし空港も機能しない。その影響で孤立した集落もある。

国道249号線

その結果、金沢や富山方面から運ばれる支援物資が満足に届かず、また個人のボランティアが現状を鑑みず突貫で能登に向かった結果道路が渋滞となり、自衛隊などの車両が被災地に到着できなくなっているなどの問題も多発している。

簡単に言えば、現在能登半島は「陸の孤島」のような状態となってしまっている。


この状況から、私は1ヶ月前に巡った能登に思いを馳せ、今回の地震で能登に何が起こったかを知るとともに、能登半島をもっと身近に感じるために能登半島が日本人とどのような歩みをたどったのか学ぼうと考えた。


能登半島の地震

まず、能登半島に起きた地震について情報を見ていた。

そして、結論から言ってしまうと、能登半島はよく地震が起こる場所だということがわかった。

しかし、地震が頻発するようになったのは2021年以降で、それ以前は過去10年で震度1以上が662回ほど。地震が少ない奈良県や滋賀県に比べると多いが、三陸などの地震が多い場所に比べると少ない方である。

それが2021年は年間89回、2022年では202回、2023年は248回と、2020年以前の10年間の回数の1/3が1年の間で起こっていることになる。

ただ、震度5以上の地震が全く来ないというわけではなく、2007年には震度6強の地震が能登半島を襲っている。

それ以前にも断層帯が多くある石川県全体で50年〜100年ごとにマグニチュード6以上の地震が頻繁に起こっているため、あながち珍しいというわけではないようだ。

2021年以降の地震の頻度が多くなった問題については、「流体」が原因となっていると考えられており、今までの地震とは違う様相を呈している。

能登半島の地下15km下に海水がプレートが動くことによって流れ込み、この海水(=流体)が断層の滑りをよくしたことで地震が多くなっていったのだそうだ。

今回の地震のメカニズム(mbsnews 1月9日配信)

日本は地震が多い国とはいえ、ただ活断層の動きだけが原因ではないというのは頭の痛い問題だ。

ちなみにこの流体による活断層の動きで地盤が150kmも北東(佐渡島方面)にずれ込んだのだそうだ。
阪神淡路大震災でも50kmのずれだったそうで、その3倍と考えると恐ろしい。

(実は東京工業大学が能登半島への群発地震について2022年の段階で言及している↓)

(2023年5月の地震の際にも似たようなことが原因として挙げられていた↓)


能登半島と人

本当に人里が必要か

能登半島の被災地域が交通インフラの寸断により救援物資もままならない状態となったことから、SNSではこのような言説が飛び出した。

「物資も満足に届けられない場所を復興してどうするのか。被災者を都市部に全員住まわせれば良い」

極端ではあるが、なんとなく言いたいことはわかってしまう。

平野部が少なく地震が頻発する土地というのは、地震による土砂崩れや道路の寸断などの被害が想定しやすい。結果として人的被害も必然と多くなってしまう。
それに加えて、今回の地震のように大きな津波を引き起こしたり、広範囲に火災が広がるようなことがあれば、経済活動を行うために要する日数も余計に多くなってしまうだろう。

しかし、そんなところがなぜ人が多く住む土地になっているのだろうか。

日本海に突き出す形状

能登半島 
(画像は「半島同盟~penisula union~」様の『雨々降れふれ!雨降り大国\能登半島/』よりお借りしています)

能登半島は地図を見ての通り、日本海に突き出すような形をしており、日本海側の半島では最も海岸線の突出面積が大きい。

遡ってみると歴史も古く、縄文時代から西日本の文化圏に接し、古代遺跡が多く出土することから人々の営みがあったことが窺える。(例:真脇遺跡(6000年前))

しかし、平野部が極端に少なく、丘陵地と海岸線が接していることから戦場となることが少なかった。
主に政治と戦争が取り上げられる歴史の教科書では、文化圏が接しているとは言え、なかなか表舞台に立つことがない。
(とは言うものの、現在の輪島市では有名な『輪島朝市』の元になる市場が、珠洲市では珠洲岬が流刑地として平安時代から存在していた)

一方で対馬海流に乗って北上してきた魚とリマン海流によって南下してきた魚(主に回遊魚)の漁場としてうってつけの土地であったため、漁業や塩業など水産を生業とする人々が住み着く土地となっていた。

時代が下り、鎌倉時代、室町時代、戦国時代になると能登半島も歴史の表舞台に出るようになり、関東管領畠山氏、上杉謙信、織田信長、前田利家など歴史の教科書で見たことがある歴々が能登半島の領有に動き出すようになる。

そして、一際大きく能登がクローズアップされたのは江戸時代になってからだった。

北前船

時代は変わり、江戸時代に北前船が現在の輪島市や珠洲市に寄港するようになると、そこで廻船問屋を営んでいた商人が大儲けするようになる。

北前船の航路

ちなみに「北前」という名前は山陰地方の人々が現在の北陸地方を称する時に使った言葉である。
そして、なぜ唐突に山陰地方が出てきたかというと、寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常が、巨大市場であった大阪に藩で作った米を海路で運ぶ際に、加賀から山陰地方を通り、関門海峡〜瀬戸内海というルートで運んでいたため、加賀藩が間接的に山陰地方と関わるようになったからだ。

元々陸路で運んでいたが、時間がかかりすぎるというデメリットがあったため、大きな船でより効率的に運送が可能な海路に活路を見出した。実はこれが「北前船」の原型なのである。

この加賀藩の海運を元にして、東北諸藩からの年貢米の輸送を楽にするために寛文12年(1672年)に酒田(山形県)~江戸までの『西廻り航路』が開発された。


そして、この時代の流れで能登の人々は何をしていたかというと、「雇われ船頭」が続々と誕生していた。

江戸時代以前から漁船や貿易船の船頭をしていた能登の人々の操船技術を北前船経由で知った近江商人が、船頭を能登の人々に任せるようになる。
これを契機に漁船の船主から雇われ船頭に鞍替えする能登人が増え、続々と近江商人がいる大阪に旅立っていった。

その後、北前船の発達や西廻り航路の開発によって、漁船よりもはるかに大きい「和船」が造船されるようになると、近江商人から商売を学んだ船頭たちが自ら商売を行うようになる。

北前船で日本各地の港に寄港し、そこで仕入れたものを別の場所で売り捌き利益を得る。

その結果、北前船の寄港地となった輪島や珠洲では廻船問屋が続々と誕生し、明治時代に北前船が姿を消すまで栄華を誇った。

※参照↓


伝統と観光と漁業の国・能登

北前船が姿を消して以降の歴史は伝統を守る人々の歴史だ。

輪島塗、珠洲焼、能登上布、漆器や銅器など、海運や水産が主だった能登半島に北前船が様々な文化を持ち込み、それを産業として育てていった。

また、水産についても寒流と暖流のぶつかる場所という唯一無二の漁場が、美味しい寒ブリやアジ、イカなど日本人の味覚を刺激する旬の味を届けてくれる。

それが現在の伝統と観光と漁業の能登を築き上げていったことは言うまでもないだろう。

ただその土地ならではの職に就いている人たちが多い環境で「危ないから引越し」などという決断は、一見合理的に見えても、職を失うということや生まれ育った土地に帰ることができなくなるというリスクがあることは理解しなければならない。


まとめ

今回の地震のメカニズム、能登の歴史を少しではあるが知って得た感想は「なぜこんな危なっかしくも魅力的な風景をもっと堪能しておかなかったのか」ということである。

後悔は増すばかりだ。

しかし、今まで深い関わりのなかった北陸地方全体への興味も増してきた。


現在石川県の馳知事が「石川県に来てほしい」としきりに発信している。

能登が完全復活するまでには時間を要しても、アンテナショップや被害が少ない加賀方面に観光しに行き石川県全体にお金を落としていくことは可能だ。

私のような小市民が被災地に行って行動することは現状まだ難しいと思う。しかし、少しでも金銭的な援助はできるため、日本人として力になりたいと思う。








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