見出し画像

メディアに抗議することで私たちが失ってしまうもの

メディア(TVや新聞など)の報道に対して、民間企業や個人が抗議の声を上げるケースがたまに見られると思います。「自分たちが情報解禁する前に報道された」「取材されたが横柄な態度だった」など、いろいろと不満もあるのでしょうが、抗議の声を上げることで何か解決するのでしょうか。

どちらかというと、メディア報道に対して抗議をすることは、いかなるケースでも世の中をよりよくすることには繋がらないと考えています。SNSなどで声を上げるのが簡単な民間企業や個人に対し、メディア側の言い分や考えというのはなかなか大衆には届きません。立場上言えることが限られるので平謝りしかできず、モヤッと感を残してしまうのも不健全なので、両者の立場をフラットに考えて整理してみたいと思います。

ちなみに、私の立場は広報PRやコミュニケーションを生業とする一般人で、メディア側の人間ではありません。しかし個人的に、メディアへの抗議が相次ぐ流れを放置するとメディアの力が弱まり社会にとってのデメリットが大きいと思うため、あえてトピックとして取り上げます。

近年見られるメディアに対する抗議の傾向

最近(2023年夏)の具体的な事例だと、とある音楽フェスが情報解禁前に報道されてしまったとして、公式サイトで抗議メッセージを公開した件がありました。

(報道機関が情報を先出ししてしまう)リークという言葉が使われていたり、感情があらわになった強い声明だったりして、Twitter X(しばらくこう呼ぶことにした)で話題になっていました。

報道された側の主張を見ると、先に報道されたことにより発表時の高揚感が奪われてしまったことや、何度お願いしても発表日を揃えてもらえず想いをぞんざいに扱われたと感じている点が問題のようでした。

一方で報道した側は、開催を待ち望む人々の声が多いことから前々から取材を続けてきた中で、関係者に事実確認が取れたため、広く伝える意義があると考え報道したと言っており、反省とも読み取れる声明は出したものの謝罪や報道の取り下げはありませんでした。

この件に限らず近年のメディアへの抗議の傾向として、「自分たちの想いや気持ち、積み重ねた努力、こだわりのようなものがぞんざいに扱われ、傷ついた」という感情的なところがアクションの根源にあるという共通点が見られます。

感情的な訴えは共感を得やすいのですが、そのぶんロジカルに判断しづらくなってしまうので、社会的立場であり発言に責任をもたなければならないメディアに対し、民間企業や個人の側が「感情」を武器にして声を上げるという時点で、そもそも公平なジャッジはしづらいのかなと思います。

メディアの役割と存在意義

メディアは報道機関であり、民間のイベントや商品を宣伝するためにあるわけではないということは、理解すべきなのかなと思います。

掴んだ情報の事実確認さえ確かに取れれば、いち早く伝えたいと思うのがメディアの習性であり、その使命感とプライドは持っていなければなりません。また取材とは報道のための材料を得るための行為であるので、最低限のマナーは守るべきではあるけれど、必要以上に媚びへつらったり低姿勢になったり、忖度があったりすべきではないとも思います。

情報解禁の問題に関しては、メディアに届いてしまった情報は報道される、というのは当たり前のことで、その緊急性や報道価値の判断はメディアの裁量でなされるべき。もし特定の日まで報道されたくないのなら、チーム内でも情報解禁日を徹底し、どこからも漏れないようにするのは広報の役割・責任で、それができなかった落ち度を認めずにメディアにぶつけるのは少し違ってしまいます。

ちなみに、「情報解禁日」という概念は広報とメディアの間では常識になりつつありますが、これは日頃からの信頼や関係値に基づいてマナー的に成り立っているもので、法的拘束力があるわけではありません。あくまで「お願い」でしかないので、日頃の関係構築をした上で謙虚な気持ちで定めるものだと捉えています。

ジャーナリズム視点で考える

ここから少し真面目な話になるのですが、「報道の存在意義」についてぜひとも考えていきたくChat GPTに聞いてみました。

このような報道の在り方や存在意義というのは、もう長いこと議論されている話。軽い内容だからといって軽い気持ちで報道に向き合うと、今回のような不幸なケースが増えてしまうだけなので、ジャーナリズムの歴史も知りつつその存在意義を考えてみたほうが今後のためになりそうです。

ジャーナリズムに関して、3名の歴史的人物の主張を取り上げます。

1889年生まれの米国のジャーナリスト・政治評論家であるウォルター・リップマン - Walter Lippmannは、1922年発表の『世論』という本でメディアと民主主義について批評する中で、私たちがメディアを通して現実を認知している状況を「疑似環境 pseudo-environment」と表現しました。

私たちが「事実」と認識していることのほとんどは、直接目にしたり触れたりすることはなく、複雑な社会をメディアが縮約し、そのフィルターを通じて再構築された虚構にすぎない、ということです。彼は「ステレオタイプ」という言葉を生み出した人でもあり、メディアにより生み出される、真実とは限らない曖昧な世論について批判しています。

ジャーナリズム領域では知らない人の少ないカナダの英文学者・文明批評家マーシャル・マクルーハン - Marshall McLuhanは、1964年に刊行した『メディア論』で、「メディアはメッセージである」という名言を残しています。

一般にメディアが媒介となって伝える情報の中身が注目されるけれど、そのメディア自体がすでに情報・命令のようなメッセージを含んでいると主張しました。これは先のリップマンの主張にも近いところがあり、メディアが現実を違う形で再構成しているのだとすれば、それを批判的に見ることも必要だと説いています。1960年代というとテレビが本格的に普及しはじめた頃ですが、この頃からインターネット社会を予見しているかのような主張ですね。

それから米国のコミュニケーション理論家・メディア批評家であるジェームズ・ウィリアム・ケアリー - James William Careyによる1989年の著書『Communication As Culture(文化としてのコミュニケーション)』では、電信技術の発達による時空間の再編成、それが社会生活や商業にもたらした変化について述べられています。

コミュニケーションがモノの物理的移動と分離した、物理的な処理過程をコントロールすることが可能となった、といった内容。今となっては私たちが当たり前に享受しているコミュニケーションの在り様も、電信社会における「コミュニケーション学」として論じられるようになったのはついこの30年くらいのことなのです。

メディアがパワーを保てない社会はきっと崩れる

これらの主張からわかるのは、今われわれが当たり前に暮らしている社会というのは健全で自由な報道がなされてきた歴史の上にようやく成り立っているものであり、私たちが認知できている(気がしている)社会というものも、メディアを通じて各個人の中に構築されたステレオタイプが生む虚構でしかないということです。

そして電信技術を使ったメディアを介したコミュニケーションというのはまだまだ論じられて年数が浅いので正解はなく、自分たちで作っていかねばならないね、ということでもありました。

だから自分たちの都合だけでメディアに抗議をするのではなく、もう少し広い視野をもって社会を形づくる媒介としてのメディアの存在意義を考えてみたほうが、結果的に生きやすい社会には繋がっていくのではないかな、と思っています。

メディアのパワーが弱まると、政治や権力者を監視する役割が不足して、透明性を確保した民主主義の運営が難しくなったり、より実生活に近いところでは情報操作がされやすくなり誤情報が流れやすくなったりします。メディアには満遍なく社会の意見を流通させる役割もあるので、その機能が低下すると文化的多様性が保てなくなる、社会的対話が起きづらくなる、といった弊害も考えられます。

SNSで個人の表現の自由が実現できているのはよいことですが、それにより相対的にメディアの力が弱まりパワーバランスが崩れると、結果的に私たちの住む世界が生きづらくなるだけのような気がしています。とはいえお金や人材の問題でこれまでと比べてメディアの体制維持が難しくなっているのは社会構造的な問題であり事実なので、全員が意識して強さを担保していかなければならないところです。

どこか一箇所に責任を押し付けるのではなく、地球で社会活動を営む全人類の課題として意識をもっていくべきことなのかな、と思っています。

さいごに

仕事柄、報道に向き合ってきたひとりの人間として、極めて中立的かつ俯瞰的な立場から書いてみたつもりです。ただメディア論というのは現代社会において相当センシティブな話題のようなので、読解力に自信がない人はあえてあえてシェアしていただかなくて大丈夫です。

読んでいただきありがとうございました。何か感じてくださったら、いいねをよろしくお願いします!


さらに書くための書籍代・勉強代に充てさせていただきます。サポートいただけると加速します🚀