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理想のわたしたち、現実の彼ら、自然の循環

わたしは常日頃、「1分後には死ぬ」と思いながら生きている節がある。
この曲が終わったら暴走車に巻き込まれて、この決断をして上を見上げたら鉄骨が落ちてきて、鍵を開けたら物陰から不審者が現れて、などなど、シチュエーションはありとあらゆる所に隠されている。(ふざけたり面白がっている訳ではない、本人は至って真面目)
だけど、そう簡単に世の中いのちの危険性には遭遇しない。不思議なもので。ニュースや媒体では、毎日誰かが何かに巻き込まれているのに。わたし(もしくはわたしたち)は、幸福で、運のいい生活を送れているのだ。

とはいえ、いろんな苦難がある。嫌なこと、不満なこと、傷つくこと、あらゆるマイナス要素は多分、いのちの種類だけあって、いのちの数より多い。運のいい生活、を送っている割には受難ばかりで、茨道、というにはあまりに過ごしやすい。なんて難しいシーソーだろう。

「1分後に死ぬ」の意識が芽生えたのは、いつだったか思い出せない。気がついたら、幼い頃からわたしの頭の片隅にはその考えが潜んでいて、なんなら脳内で最悪の事態になった場面の予告映像(?)も流れていた。よっぽど、世の中から逃げたかったのか、それともなんらかの強迫観念から来るものだったのか、わからない。そして、それを考えては、何も起きない現実を体感してホッとし、小さく喜ぶことを繰り返していた。この行為が、生きていく上で気楽だったのかもしれない。

気楽さ、は、呼吸するときにどうしても必要な要素だ。何も息を交換する時だけじゃない、精神を落ち着かせる為の「呼吸」にもあたる。

この映画の主人公は、木漏れ日を見つめること、それを切り取り(撮影)保管すること、「いつも通り」の繰り返しの毎日を送ること、だと思った。
まるで償いのように日々を生き、まるで未練がないように淡々と生き、それでもやわらかい気持ちを刺激された時は静かに笑う。
周りは自分のようにゆっくりとは過ぎてくれない。ときに掻き回されたり、ときに都合がつかなかったり、ときに向き合わなくてはならない。わたしにはそれが真理のようだった。なくてはならない約束事。皆はわたしではなく、わたしは皆なのだ、という。
舞踏のような、祈りのような踊りを舞うホームレス(田中泯)が登場する。主人公は彼を見かける度に、気にかけるように傍観する。その姿は、主人公にまとわりついている、あるいは、守っている神のような、精霊のようである。ああいった人、時々いるよね。一緒に観に行った人とそんなことを話したが、ああいう人たちも、なにか幸せがあって、なにか苦悩があって、今があるんだろうな。そして、呼吸をしている。気楽な姿で。

作中でほんの細やかなシーンで、何があったかわからない開けた土地に遭遇するシーンがあった。建物が取り壊され、土地が開拓され、残った地の原で、ブルーシートともに敷き詰められた土嚢が、戦地の死体のようだ、と思ってしまった。不謹慎なのはわかっているが、無機質に、でも等間隔に並べられた土嚢、「何が建っていたっけ?」と言われる建物の存在感喪失、それが、人の死を示しているようだった。サイクル(日常)の中で人はひっそりと生き、ひっそりと死ぬ。それがこの作品で一番言いたいことなんじゃないかとさえ思った。

わたし(たち)は運のいい生活を送っている。全てが誰に定義された訳でもないそれぞれの「完璧」なる毎日。誰にでも当てはまる物語。
呼吸ができるって、すごいこと。
1分後に死なないことは、すごいこと。
そんなことを改めて感じた「完璧」なる時間。
この映画を観た時の感情は、悲しむでも、微笑むでも、思い悩むでもない気がする。最後のシーン、役所広司の表情が正解だろう。この世にたくさんの辞書があろうと、掲載されきれていない感情はたくさんある。人間は「完璧」じゃないから。

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