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甘えた性癖が頑なな意思に変わるまで

先生、と呼んでいい時期は人間には限られている。
わたしにも先生と呼ばれる時期があった。10年近く続けた塾講師時代だ。人に何かを教える立場だけど、同時にそれは相手から自分も何か学ぶ立場。
けど、その関係性は、何も職業で生まれる関係ではない。
この映画を見て思い出したことがあった。

たまたま、向こうからフォローしてきたのか、いいねしてきたのか、なんだったか覚えていないが、何某かわたしのツイートにアクションしてきたのがきっかけっだった。センスのありそうな、ドミナント(支配者欲)の強そうな男性だった。
好奇心で相互となり、わたしは「一戦交えられないか」という淡い希望を持ってDMで会話していた。すると、通話しないか、という流れに。初回の繋がりから、と浮かれたわたしは、喜んで応じる。
その後も定期的に彼と通話したり、性癖の話で盛り上がったり、密やかな楽しみを重ねていた。お互いに性的欲求が高い時に話していたので、「会っていないセフレ」みたいだった。

わたしがパーソナルな相談もしだすほどになった頃、彼の性的欲求が非常に高い状態で通話をしていた時があった。酔ってもいたのか、珍しく彼は饒舌で、その時にしたいプレイや、興奮材料をたくさんわたしに聞かせた。浮かび上がったのは、「制服姿の女性(もっと言うと委員長)を汚したい」というものだった。しかも、骨が浮かぶほど細身の女性を。
それを聞いて、真逆の体型のわたしは怖くなってしまった。『この人はもうわたしと関わることも性的な視線で見てもくれなくなるのでは』という恐怖。冷静に考えたら、別にそんなこと思う必要性は無いのだが、その時盲目なわたしは思い込んだら止まらないのだ。

『先生、わたし頑張るから、頑張って痩せるから、わたしにそれをしてください』
わたしは一人でに彼を先生、と呼んで委員長に憑依して話した。「それ」というのは…ちょっと公的なところで言うのは微妙なので割愛。
勿論(?)詰られた。自信もないのに頑張れる?俺の言うこと聞けるの?そんな扱いでいいのか?(こんな優しくない、普通にモラハラだった)などなど。
わたしはよくわからない全能感を感じていた(多分エクスタシーの一環)ので、できる、大丈夫です、先生のためならやります。などと言っていた。アホか。

そんな感じで、わたしと彼の少しの間、主従、ともいえない、歪な「先生と委員長」の関係が続いた。
でも、最終的に、「先生」の完全なる支配的な思考にわたしが付いて行けず、一方的に連絡を断ち、ブロックした。今思えば、医者でも家族でもないのに命令されて運動してたのが不思議。容姿に関してのコンプレックスが増えただけの、不思議な体験だった。

この映画の主人公・弓子は、芳賀一郎のことを「先生」と呼び慕う。弓子は「女断ち」している芳賀のために、弟子で編集者の辻村に幾度も抱かれる。その時の行為の音声を聴いて、芳賀は快感を得る。という設定。それって、実にSMな関係性なんでは。となった。
芳賀が精神的にオーナー属性のマゾヒスト、弓子は最終的に加虐欲を求める芳賀の為に、サディストの面に目覚めるが、精神はサブミッシブかな、と感じる。(※春画はあくまできっかけに過ぎず、とても官能的でSMな映画だった。)
クレジットを見たら、原作・脚本・監督に塩田明彦の文字。なるほどね!と思わずニヤリ。(氏は監督デビュー作でもSM感たっぷりの青春映画を作成している)

SM、そうわたしも一瞬ハマった世界。でも浸れなかった世界。何故ならそこまで全力で人を愛し、興味を持つことを続けられなかったからだと思う。

こちらはSM関連の過去記事↑
SMって、インスタントに、ワンナイト的に、付け焼き刃で今日明日することじゃないんだな。関係性をゆっくりゆっくり築いて、信頼を重ねて、お互いが惹かれあっていないと全然楽しくないし、面白くない、と、悲しくなった記憶の話。と、それでも、お金を払って女性は女性の、男性は男性の風俗で欲を払っていかないと、人間は生きていけない。愚かで可哀想で愛おしいな、の話。

そりゃSMの関係は美しくて芸術的に見えるんだろう。長い年月をかけて描き切った絵画のような恍惚さと、鍾乳洞の雫のように頑なな意思が、常人には程遠い世界だから。フィクションで楽しむのが、わたしはちょうど良いのかもしれない。

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