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魔法にかけられた。

本を閉じたあと、しばらく、自分の身体への違和感が続く。
手の指の皺。ハリ。腕の太さ。立ち上がったときの、目線の高さ。
なにより驚くのは、鏡に映った自分の姿。
「うおおおおお!? なんじゃこのオバはんは!!?」
私が叫ぶとオバはんも叫ぶので、紛れもなく私の姿であるらしい。
信じがたいけれども。

おかしい。おかしいではないか。
私はさっきまで10歳だったはずなのに、なによ、なんなのよ、いきなり中年になってしまっているって、なんの呪いなのよ!!
ハウル? いや、浦島太郎??
いやいやいや、そうじゃない。
『エドウィン・マルハウス』(スティーヴン・ミルハウザー著・岸本佐知子 訳 河出文庫)のせいだ。
あれを読むと、毎回混乱してしまう。
完全に、心が10歳になってしまうのだ。あの時のまんまの私が蘇るのである。強制的に10歳にさせられる、といったほうがいいかもしれない。
恐ろしい本である。


ピュリッツァー賞受賞作家のミルハウザー。これがデビュー作だなんて恐ろしい。

文庫版では省略されているけれど、「あるアメリカ作家の生と死」という副題がついている。
これは、エドウィン・マルハウスという天才作家(享年11歳)の伝記なのである。
天才作家とあるけれど、実のところエドウィンはこれ以上ないくらい平凡なコドモなのだが。

伝記を記したのは、彼の親友ジェフリー。エドウィンより6か月年上。
『エドウィン・マルハウス』を上梓したとき、12歳だったと思われる。
彼らが高校生という設定だったならば、私は確実にこれをBLとして読んだであろう。

ジェフリーの、エドウィンに対する執着心が凄まじいのだ。
生後8日目の出会いから、ほぼ毎日彼と行動を共にし、観察し、メモを取る。些細なことでも「エドウィン天才!」と褒め称え、ほとんど崇拝に近い。(あくびや喃語ですら、文学的なものとみなすという・・・)
エドウィンもかなり妙なタイプの子どもだが、ジェフリーも相当変な奴である。自分では常識人みたいに書いているけれども。
10歳の時には、すでにエドウィンの伝記を書こうと決めていた。

『エドウィン・マルハウス』は、コドモの、コドモによる伝記である。
なので、思い出補正はゼロだ。
ノスタルジーもなし。(なんてったって現在進行形だし)
描かれるのは、超現実的なコドモの世界なのだ。

私は子どもの頃、サンタクロースに手紙を書いていた。
信じていたからではない。
それを、親の目につくところにわざと置いておく。
二時間もしないうちに母親が見つけて、隠れ読みしているのを私は知っていた。というか、そうなるように仕向けていた。
すると、クリスマスまでの間、母親が誰よりもウキウキしだすのだ。
「まあ、うちの子ってまだサンタさんを信じているのね。カワイイ!」
そうなればこっちのもんである。
クリスマスプレゼントには、どんな高価なものだっておねだり可能になる。
サンタへの手紙は、コドモながらにビジネスだったのである。

コドモという奴は、大人が思っているほど純粋でも、無垢でも、善でもない。打算的だし、残酷だし、ヒーローよりも悪役に憧れたり、悪いことがしたいんだ! やってはいけません、と言われたら絶対やりたいんだ!!
大人の価値観、クソくらえ!
俺らにはオレらのルールってもんがあるんだよ!!!

おおっと、いけない、いけない。
また無意識に10歳に戻ってしまった。
本当に恐ろしい本である。

最初こそ、「あー、子どもの頃ってこんな感じだったなぁ、懐かしい」なんて、遠目に読んでいられるのに、いつのまにかエドウィンやジェフリーと同化してしまうのだ。
彼らと同じように、大人の無理解に憤り、ヘンテコなモノに強く惹きつけられ、「死を持って我が人生を完成させる」とか中二病的なセリフを口走ってしまうのである。

ストーリーのおもしろさ、設定の妙、文学的パロディ、50年代アメリカの退廃的な空気・・・。
この作品は、良いところがあまりに多すぎる。
もう是非読んでくれ、としか言いようがない。
なかでも「読むとコドモになれるところ」が、本書の最大の魅力だと私は思う。

子ども時代を懐かしむ本は星の数ほどあるけれど、コドモになれる本というのはそう多くはないはずだ。
『エドウィン・マルハウス』は、がっつりコドモにしてくれる。
魔法をかけてくれる。
ただし、その魔法は「ハッピー」だけを与えてくれるのではない。
子どもの頃にしか味わえない、毒を多分に含んでいる。














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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。