善と正解がイコールでは無いという事。

私は永らく自分の中にある「正義」や「善」と呼ばれる選択に進み続ける事が『正解』なのだと思っていた。

勿論、正義や善というモノが自身の置かれた環境、体験した事で作られたものであるから絶対的な尺度では無い事も理解している。

それでも他者から賞賛される事、評価される事。
優しい人だと言われる事は私の中の正解だった。

場合によって「優しい人」が「都合のいい人」に置き換わるという事も分かっている。

ただ一つ、それでも何処かで自らの外から報いがあると思っていたのだと思う。救いがあるのだと期待していたのだと思う。

誰でもそうとは言わないが私はその思案している事が現実にならないと完全な理解が出来ない。いくら推測を立て予防線を張ったとしても傷を回避する事は出来なかった。

それでも正義を貫いたのは、その先に安寧や救済があると信じていたから。

ただ、結局の所は真に救われるには自分の手で掴みに行かなくてはいけなかった。

そして正義や善は正解ではなく、理想で綺麗なものであれど、この社会を生きる上では『不正解』であったことを理解した。

反抗すればいいのに、首を振ればいいものを私は「ああ、そうか。」と納得してしまった。
それをおいそれと受け入れる事はないだろう、私が沢山の事から目を逸らすことも私の中の『不正解』を選んで社会の『正解』を選ぶ事も出来ない。

ごめんなさい。此処には救いの言葉はない。

ただ、もしこの社会の事実。ほんの1つの側面であるのかもしれないけど、同じ様な悩みを抱える同志がいるのなら自身の傷を和らげる何かになればいいなと思ってここに遺す。

私は、私と同じような同志がこの社会の中でも「善と正義」を抱えながら傷を追う事も承知で歩みを進める者達が少しでもその痛みを和らげられるのなら、生きていた意味があるのだろう。

改めて簡潔に。

自身における『正義』『善』は、
社会における『正解』ではない。
『正義と善』イコール『正解』にはなり得ない。

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