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娘がお友達をつき飛ばす。こんな時どうしたらいいのか私の中に確固たる正解は見当たらない

私には1歳8ヶ月になる娘がいる。
とても活発で、ひとめ目を離したらどこかに行ってしまいそうなほど元気もりもりだ。

そんな娘は日に日に我が強くなり、
お友達が遊んでるおもちゃを欲しがって無理矢理奪ってみたり、
お友達がおもちゃを貸して欲しそうにしていてもほとんど貸さない。

この頃の子どもには良くあることで、発達の段階としてはごく一般的な通過点らしいが、
それにしても、まぁ強いのだ。意地悪なジャイアンみたいだ。

さらにここ最近は、自分のパーソナルスペースがあるらしく、そのスペースに入り込んできたお友達をエイッと押してしまうのだ…。

言葉もまだ全てが通じているわけではないし、娘とのしっかりした意思疎通は難しい。

百歩譲ってお友達が意図して娘に近づいたのだったら、「おもちゃを取られると思っちゃったのかな…」など、まだ事情は汲める。

そういう状況ばかりでなく、単にお友達がただそこに佇んでいただけなのにも関わらず、
娘自身が自分のパーソナルスペースを侵されたと認識すれば手が出るのだ。

娘がこんな感じになって来てから、
他の子を怪我させたり傷つけたりさせまいと、
遊び場では娘から目を離さず、手が出そうになってもすぐに制御できるように気を張っているつもりだ。

でも、昨日またやってしまった。
「あっ!!!!!」と思ったけど、一瞬過ぎて私の手が追いつかなかった。
全く初対面のお友達をエイッとつき飛ばして、その子は頭を壁にコツンとぶつけてしまったのだ。

できる限り誠意を込めて相手の子とママさんに謝ったけれど、
相手のママさんは明らかに怪訝な顔をしていた。

そりゃそうだよね。シンプルに危ないし、迷惑だし、我が子が可哀想だし、逆の立場だったら私もそうなるわ…。

それでも、相手のママはこちらを気遣う様子を見せてくれ「大丈夫ですよ…」と言ってくれた。

その子が大事には至らなかったことに安心したし、相手のママが激怒しなかったことに正直安堵した。

こんな感じでここ最近の子育てはいつもヒヤヒヤだ。

一時保育で娘の面倒を見てくれる保育士さんからも保育中の娘の様子を教えてもらったが、やはり同じようなことがあったらしい。

「私たちとお母さんでその都度根気強く教えていきましょうね。」

保育士さんは、このくらいの月齢の子にはよくあることだからあまり落ち込まないでと、母の私を責めることなく愛ある言葉をかけてくれた。

ただ、先生たちとお母さん(私)が、思いに相違なく一貫した態度でダメなものはダメと子どもに伝える必要があるからねとアドバイスをくれ、伝え方も教えてくれた。

とてもありがたかった。

と、同時にそこはかとない寂しさが胸をかすめた。

思い返せばこの寂しさは、かなりかなり前、もう30年以上も前からことあるごとにやって来た。

子どもが生まれて、
自分に「母」または「人の親」というアイデンティティができたからか、
娘に自分の小さい頃を重ねて見るからなのか、

寂しさが胸をかすめる頻度は高くなった。

私には、子育てにおいて手本となるような母親像がないのだ。

「こんな時どうしたらいいんだろう」と不安になったとき、

「〜してもらって嬉しかったら、私もこうしよう」とか

「自分の母だったら、きっとこう言うだろうから私もそうしよう」

のようなロールモデルがない。

もちろん、子育てにおいてロールモデルなんてなくても今の時代はネットで検索すれば色々な“答え”が見つかるし、

先に出た保育士さんのように子育ての先輩たちに聞けば惜しみなくなんでも教えてくれる。

だから、不器用ながらも試行錯誤しながら子育ては続けていけると感じている。


私が言いたいのは、そういう物理的な不安解消法のことではなくて…

私の心には、
確固たる安定根のようなものが育ってないような負い目がいつもあるんだ。

心の中で静かに強く見守っていてくれて
それで大丈夫だよと
ひだまりのように支えてくれる
安心感をくれるような…

うまく言葉にできないけど、
“普通”の人が意識せずとも当たり前に持っているような大事なものが私には欠けているような気がしてならない。


思い返せば、私は5歳の頃には物事を自分で考えて行動していた気がする。

幼い頭で考えられることなんてたかが知れてるが、母が頼りにならなかったから、成長過程の中でなんでも自分で考えて、身につけた。

自ら突き進むには実は不安の方が大きくて、
いつも誰かに道しるべを出して欲しかったが、幼いながらに自分の置かれた事情を理解していたつもりだったので、私は強くいようと努めた。


「自己憐憫(じこれんびん:自分を可哀想と思うこと)」に浸って、悲劇のヒロインになっていた自分は手放したので、もう必要以上に卑屈になったり自分の存在価値を確かめようと思ったりはしない。

ただ、いつも心のどこかには寂しさがあるのは事実だ。

私はこれも含め、丸ごと私を抱きしめている。


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