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【インタビュー】言語聴覚士として働いた経験から誰もが食べる喜びを得られる食を提案する事業を始めた笠井幸子さん

 わたころメンバーの田島です。今回は、言語聴覚士として働いた経験から誰もが食べる喜びを得られる食を提案する事業を始めた笠井幸子さんをご紹介します。インタビューは2023年9月13日に行いました。

 笠井さんは、幼少期の頃、歩きづらさがあり調べたところ、脳性マヒと言われていた。ある医師より脳性マヒではないのではないかと言われ、中学2年生のときに大きな病院でしっかりとした検査を行ったが、診断名がつかず、末梢神経系の障害ではないかとされた。シャルコー・マリー・トゥース病と確定診断がついたのが30代になってからであった。30歳頃に結婚をし、子どももほしいと思ったので、しっかりとした診断を受ける必要を感じてのことだった。住まいの近くの病院に遺伝性疾患の研究をしている医師がおり、紹介状を書いてもらい検査を受けた。その病院は、言語聴覚部門を立ち上げる予定で言語聴覚士を募集していた。その当時、後述するように他所に勤めていたが、その医師は病院の病院長であり、誘いを受けたため、その病院で働くことになったというご縁も生じた。現在は1日/週、非常勤で勤務している。

 もともと自分が何に適性があるかわからない時期が長かった。高校卒業後、とりあえず大学に行こうと思った。勉強が大嫌いで勉強はほとんどしなかった。そのせいか大学は不合格となり、合格した短期大学に行くことにした。短期大学時代は下宿生活をしていた。思いつきで行動する性質であり、英語が好きで、海外にも行きたかったので、短期大学卒業後、留学するつもりだったが、ビザが下りず実家に戻った。

 半年くらい、就職せず、何もすることなく過ごした。母親は薬剤師をしており多忙だったので、家事をしたり、母親に弁当を持っていたりした。母親の勤務先の医療機関で事務の仕事を2年間ぐらい行った。そのときはじめて、「こんな仕事、私は嫌だ」と思った。面白くなかったのだ。「自分の生きる道をみつけねば」と切実に感じた。

 学校時代に放送部に入ったり、合唱部に入ったりしており、声を使って何か表現することに楽しさを感じていたことに気づいた。事務仕事をしていた医療機関で言語聴覚士の仕事ぶりを見ていて、私はこの仕事をしたい!と思い立ち、この仕事は自分に向いているのではないかとインスピレーションも働き、言語聴覚士になるための学校を受験し、淡路島にある学校に行くことになった。

 淡路島で下宿生活を3年間送った。淡路島は比較的温暖、のどかな土地でとてもよい環境であり、卒業後も住み続けたいと思ったほどだった。しかし生活に不便さを感じてもいた。短大時代は若くパワーがあったため車いすを自走で坂道なども登っていたが、淡路島では杖や三輪自転車を使ったりして買い物に行った。今にして思うと「ようやった」と思う。

 勉強は大変で、1年生の最初の時に「やめようか」と思うほどだったが、夏休みに見学をしたり復習をしたりして自分のペースで勉強をしてリセットをし、やめることなく勉強を続けられた。学年があがると、だんだんと勉強に楽しさを感じられるようになった。勉強が嫌いだった自分が嘘だったように勉強に熱中をするようになった。3年時に長期実習を2か所経験したが、実習先を先生方が調整してくれたため、移動に不便さを感じることなく行うことができた。

 就職先は何か所か受けたがすべて就職叶わずであったため、卒業後に実家に戻った。そうすると、ほどなく地元で言語聴覚部門を立ち上げる医療機関(急性期、回復期)があるとのことで、そこに就職することができた。学生時代に地域リハビリテーションに興味を持っていたのでいずれ地域リハビリテーションに携わりたいと思っていたところ、リハビリ特化型のデイサービスの存在を知る。そこで働きたいと思ったが、遠方であるため車の免許が必要だった。車の運転は難しいと医師から言われており免許取得は難しいと思ったが、何とか取得ができたため、デイサービスに勤務することにした。

 デイサービスの仕事は楽しかったが、医療機関では自分から動かなくても仕事があるが、デイサービスでは自分で仕事を考えて動かなくてはならない状況であり、そういう意味での苦労があった。利用者や職員のなかには、笠井さんを障害者とみる人もおり、傷つく経験もあった。また、「私だってそれできるのに」と思うことをやらせてもらえないこともあったので、自身の成長機会が奪われてしまっている感じもしていた。そんな時に、上述した病院長からの誘いがあったのだ。医療機関に勤めていた際には、白衣の力なのか、患者からそのような態度に出会うことはなかったと述懐する。しかし同僚からは、笠井さんはが障害のためにできないことについて、一人で頑張ろうとしてしまい指摘を受けたこともあった。

 結婚した男性は食堂を経営していた。一番最初に勤めた医療機関の近所にあり、よく利用しており知り合った。波乱万丈があって結婚し、今年で10年になる。地域に根差した素敵な食堂であり、この食堂を沢山の人に知ってほしいという思いがある。食堂の手伝いをしたいが、できないことが多い。もっと役に立てることはないかという思いがあり、笠井さんは、これまで言語聴覚士として食事支援をメインに行ってきて、食べられる喜びを感じられることは大きいし、たとえ食べられなくても、何かしら工夫すれば一口でも口に入れられる可能性を知っているので、この食堂で喜びを取り戻せる人を作ることがこの食堂に嫁いだ使命だと思うようになった。夫もそれに賛同してくれ、現在はフリーランスになり、食堂のメニューにやわから食などを用意するようになった。

 食べることは人生そのものである。そういう食事づくりを伝えたい。食事を通してコミュニケーションもなされる。フリーランスとなった個人事業名は「SeatTable」だそうだ。診断名がついたことで、障害について人にも説明をすることができるようになった。それまでは言語聴覚士として認められたいと強く思っていたが、言語聴覚士はあくまで資格にすぎない。自分自身ができることとして、障害についての経験を語り、発信をすることも自身の使命と強く感じるようになっている。

【かさい食堂】
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【SeatTable】
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