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【脳科学?】毒親育ちの私は何故、子供を「本能で」は愛せなかったか、という話。

自分と似た属性の方――毒親育ちやアダルトチルドレン的な方々のnoteを継続して見ていると、「親、特に母親の愛を強く求め続ける子供」の感情を強く感じて、胸を打たれる日が多い。同時に、罪悪感も感じる。

私もまた、母からの愛を強く求めていたにも関わらず、自分自身は子供のことを「本能から自然に」は愛せなかったからだ。

息子を出産した後、「可愛らしい赤ちゃん」である息子を見て、愛おしい気持ちが湧き上がったことはなかった。
授乳のたびに嫌悪感ばかりが募り、夜泣きで起こされる度に、殺意と呼べるほどの強烈な苛立ちを感じた。
「自分は母親になるべき人間ではなかった」という後悔が産後うつを悪化させ、その後息子が3歳頃になるまで、毎日「いつまで耐えれば死ねるだろう」と思っていた。
何とか騙し騙し乳幼児期を乗り切り、今息子は元気に小学校4年生となった。今も私は「本能で」は愛せていないと思うが、息子という個人とのコミュニケーションを重ねるうちに「普通の父親と子」に相当するレベルの愛情ならば、向けることが出来ていると思っている。

ところで、だ。
「乳児を本能からは愛せない」のは、それこそ父親ならば割と自然な、非常によくある話である。何も珍しいことはないというか、だから世のパパさんたちは「父親の自覚を持て」とか何とか言われ続けてしまう。言われなければ「本能から自然に」はその自覚が持てない人が多いから、だろう。

本能で子供を愛せる母親ならば、「親の自覚」はわざわざ努力しなくても自然に持てる。
逆に言えば、本能で赤ん坊を愛し損ねた、私のような母親は、世のパパさん達と完全に同じ状況である。「親としての自覚」や「親になった実感」は、相当の努力か時間が蓄積しなければ持てない。

私は乳児期の息子の世話を、ワンオペとまでは言わないが、大部分を行っていた。が、別に自分が母親である自覚なんてロクに持っていなかった。赤ん坊は「面倒を見なければならない謎の生命体」にすぎず、自分の子供だと理解はしていたが、だからといってそこに「養育の義務」以上の何か――例えば血の繋がりを理由とした、特別な連帯感など全く感じていなかった。子犬や子猫と変わりない距離の、むしろ激しく手間がかかる上にモフモフしていない、うるさい子ザルなだけである。
3か月検診などのシーンで「お母さんは~」と保健士さんに呼びかけられても、「え?母ですか?家にいるはずですけど」と素で思ってしまうぐらい、自分が母親だなんて自覚も持てず、完全に他人ごとだった。

そして0歳児の育児は、そんな私にとって恐ろしいまでに精神的に過酷な作業だった。退職直前の、残業100時間越えが続いたシステムエンジニア時代の2倍から3倍は辛かった。ワンオペで、いや多少の手を借りても7割以上の乳児育児をやったら、私は何度でも育児うつに陥るか、子供を置いて逃げ出すだろう。
「本能から自然に」我が子を愛せない、素面の状態の人間には、育児はそこまでストレスがかかるものなのだ。(単に私が適性不足だった可能性もあるが、同じぐらい適性が足りない母親も父親も、一定の割合でいるはずだと思う。)

しかし、私のような母親ばかりでは、鳥類や哺乳類は大半が育児放棄を起こして絶滅してしまう。多分、大げさでも何でもなく。
だから、本来ならば不可能な「乳幼児の育児」という作業を可能にし、赤ん坊の命を守るために、あらゆる動物の母親(の大多数)にはドーピングが行われる。
本能で子供を愛せるように、「オキシトシン」の分泌によって。

子供と一緒にいる時にオキシトシンが出る、これによって母親は自己犠牲をしてでも子供を優先することが出来る。子供を抱くと安心し、子供を離したくないと思い、一方で危険が迫れば命がけで子供を守ろうとする。オキシトシンはそういう効果があるようだ。

ところで、私は毒親育ちで、毒親育ちの標準装備としての「愛着障害」を持っている。
愛着スタイルとしては不安・回避型のようだが、対人関係では回避型の特徴が強く出やすい。
そして、愛着スタイルが回避型の人間は、オキシトシン受容体の密度が低いという話があるらしい。


何故、私は我が子に対して「愛おしさが湧き上がる」ことがなかったか。
赤ん坊を抱いても、授乳しても、何一つ幸福を得られなかったのか。

「幸福感」や「愛おしさ」を感じるには、オキシトシンの受容が必要。
その受容体密度が低い(と思われる)私はオキシトシンの恩恵を得られなかった。
そういう理屈のようである。


オキシトシンの恩恵が得られなかった私は、完全に「父親サイド」の気分で、メインの育児を行った。
しかも、毒母を筆頭とした周囲は私に、一般的な母親同様、オキシトシンが十分に働いている前提で「赤ちゃんとずっと一緒に居られて良いわねぇ」というスタンス。産後のガルガル期に配慮した対応をしてくれることはあっても、私が赤ん坊から離れるチャンスは全く与えられなかった。
勿論、私が「もう嫌だ、気が狂いそうだ」という種類の主張をしなかったせいなのだが。

なるほどなるほど。そりゃきついわ。
しかも、それが私の「仕様」なら仕方ない。

私が「本能から自然に」我が子を愛せないのは、そういう風に私の脳が出来ていなかったから、ということのようだ。最初からそうだったのか、毒親育ちであるが故にそうなったのか、は分からないが。

なーんだ。私が悪かったわけじゃないのか。
そう思ったら、なんだか気が抜けた。

いや、勿論息子にしてみれば気の毒な話である。ちょっと当時の記憶がハッキリしないので断言できないが、多分、乳幼児期の世話は普通にやれていた……と思う。思うけれど、「愛情深い」コミュニケーションを取れていた自信はないし、笑顔を見せられたかどうかも定かではないというか、多分息子が3歳あたりまでは殆ど全く、笑えてなどはいなかった気がする。そして、幼稚園以降は息子が抱っこをせがんだり、四六時中話しかけてきたりするのに辟易して、結構塩対応をしているという自覚がある。

だが、私から生まれなければ息子は息子として存在できないし、その母親である私が「初めからそういう仕様」だったなら、もうこれは致し方ない事、としか言いようがない。
息子が何らかの愛着障害を持っていたとして、それはある意味必然だったと諦める外ないのだ。そして、今後の影響を最小化するための努力をするしかない。

私にできるのは、今日より後の息子への関わりに、なるべく気を払うようにすること。そして息子と夫の関わりや、息子と母(息子から見て祖母)の関わりを注視し、ポジティブな効果が大きそうなら促進、ネガティブな効果が大きそうなら間に入って緩和したり遮断したりする、そういう種類の努力だろう。
叱った後にちょっと膝の上に乗せて抱きしめるとか、泣いている時に慰める程度のことなら、私にも出来るはずだ。問題は、自分自身にそういう経験がないので「どの程度の量や頻度が必要なのか」の見当がつかない点だが、そこも様子を見ながら適量を探り当てるべきだろう。

物理的に甘ったれてくるときには、可能な範囲でスキンシップを取るようにする。
精神的に甘ったれすぎるときには適宜諭していく必要があるだろうが、あまり突き放しすぎないように、「安心感」を持たせることを重視して、その上で自立を促す――そういう方針で良い、のかな。たぶん。

息子は明るく健康な精神を持っているように「見える」が、モフモフしたものがとても好きだ。今年に入ってから発掘された「赤ちゃん時代に使っていた、ひざ掛けサイズの毛布」を気に入って、ここ半年ほどは常時、家の中にいる間中、マントのように持ち歩いている。
気温が30℃近い日にも。
毎日、夜に眠る時には、大量のぬいぐるみで自分の周囲を囲うようにする「寝る準備」を欠かさない。
のんきで明るい性質を見ると安心する一方で、そういう「愛着障害が既にある、かもしれない」要素を見ると、悩む。
私自身が、不安に思いすぎるのも良くないだろうけれども。

「宿題が終わったって言ってゲームしてたけど、終わってないでしょこれ!!ゲームがしたいからって嘘つくんじゃないの!!」と私に雷を落とされて、「ごめんなさいポヨ……」と、神妙な顔をしながらもカービィの真似を止めない息子には、少なくとも相当の余裕を感じてはいるものの。
その後寝る直前まで、サボった分の宿題をやらされながら毛布を手放さない姿に、「大丈夫かなぁ……」という思いが募る。
いや、宿題はやってくれ頼むから。

ただ。
血の繋がっていなかった父からの愛が、しかも父が亡くなってから随分な時間が経った今になって、私を支えてくれている。その事実がある以上は。
「本能では子を愛せない」私の、「父親のような愛」だって、息子に届かない理由はない。そのはずだ。そうあって欲しい。

毒親育ちを自覚して、自分の内面と向き合って、アラフォーの私がいつか自分の愛着障害を、生きづらさを、手放すことが出来るのならば。今9歳の息子が同じような愛着障害を持っていたとしても、間に合わないなんてことはない。
そうだ、きっと間に合う。間に合え。

「愛着障害 治し方」とGoogle先生に聞きながら。
具体的な手法なんてどこにも書いていないが、大人と子供の両方に共通する概念から何とかして解法を導き出そうと毎晩足掻いている私は、多分「母親の自覚」は持てるようになった、と思う。

頭を使うのに疲れたら、たまにはゲーム中の息子を勝手に抱きしめて、私のオキシトシンを補充させて貰うのも、良いかもしれない。


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