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【毒親育ちの育児】「あんな親にだけはならない」よりも効果的な、世代間連鎖の防ぎ方を探す、という話。#家族について語ろう

毒親育ちは連鎖する。
ネットで情報を漁るとよく言われていることでもあるし、少なくとも自分の親に関してはある程度事実だろうとも思う。
毒親育ち――つまりは愛着障害を持ち、「親密な他人」と適切に関わることができない人間は、親となった場合にも、子供との間に適切な関係性を作ることが出来ない。あちこちに書いてあるこの理論は、なるほど非常に分かりやすい。原因と結果がハッキリしていて、大変結構。

――なわけがあるか。

私にとってこの理屈は「自分もまた毒親になる」という無慈悲な宣告であり、絶望的な予言だ。何に寄らず諦めはいい方だが、こればかりは「仕方ない」の一言で許容するわけにはいかない。私個人の未来だけならまだしも、私の息子が、私のせいで、毒親被害を受けることが確定している、そんなことがあってたまるか。
そう怒りに駆られてググっても「じゃあどうすれば防げるか」という疑問への答えは、せいぜい「気をつけましょう」程度しか出てこない。ふざけんな。気をつければ何とかなるなら、世の中の交通事故はとっくに0になってるし、ロケットの打ち上げが失敗することなんてない。世のシステムエンジニアがちょいちょい徹夜する羽目になるのは「気をつけてもダメだったから」で、我々が人間である以上、どんなに努力しても「気をつける」では限界があることを、私は身をもって知っている。

だが、答えがどうしてもないなら仕方ない。
ならばせめてと「私は絶対に、自分の親のような毒親にはならない」と強い覚悟を抱いてみても、日々は無常に襲い掛かる。
純粋な育児ストレスに加え、自分自身見たこともない「理想の親」の形を探りながら、それを必死に演じるストレス。しかも過去の私の演技がある程度上手くいっているが故に、「自分には得られなかった、幸福そうな子供時代を過ごしている我が子」という、殺人級にコンプレックスを刺激してくる存在が常に目の前にいる、という状況。
刺さる。刺さりまくる。
心の一番奥深く、誰からも触れられないように、これ以上傷つかないように、必死に隠して守り続けてきた最も柔らかい箇所に、油断するたびに刃物がぶっ刺さる痛みを、それでも子供に気取られないようにモナリザ的微笑で隠しながら、「そんなことで痛みを感じる自分自身」を宥めすかしながら、うっかりすれば八つ当たりで子供を攻撃してしまいそうな衝動を堪えながら、「あんな親ではない」安定した親の皮をかぶり続けるのは、控えめに言って苦行、大げさに言えば精神的な拷問ですらある。

考えてみれば当然なのだ。
たとえ心根がガンジーとか聖徳太子レベルの聖人君子であろうとも、「愛着障害を持っている」人間が、そんな高難度の離れ業を平然とこなせるわけがない。彼らが聖人君子たりえたのは、その手の障害を持たずに済んだか、持っていたとしても解決が済んでいたからこそ、のはずなのだ。

そう。こんな拷問に完璧に耐えきるなど、普通は、出来ない。
だからこそ、毒親が連鎖してしまうのだ。
「良い親」を目指せば目指すほど、「あんな親ではない親」を目指せば目指すほど、負荷は上がり、ストレスが溜まり、情緒が不安定になる。判断の一つ一つ、「良かれと思って」に誤りが増え、ネガティブな感情が増殖していく。AI搭載のアンドロイドでない人間である以上、そうなるのは当然の事象だ。

だったら、どうすれば良いのか。
どうすれば私は、毒親にならずに済むのか。

膝を擦りむいて帰ってきた息子の手当てをしている母に「へぇ?ママって、泣いてる○○のことは慰めて絆創膏貼ってあげられるんだ?私が小学生の頃は『そのぐらいで泣くんじゃない!何で転ばずに歩けないんだ!』って怒鳴られた覚えしかないんだけど??」と喧嘩を売りたくなる私は。

ベソベソしている息子に「アンタは良いよねぇ、ゆっくりベソベソしてられて。泣いてるってだけで引っぱたかれたことないもんねぇ?」
と嫌味を言いたくなる私は。

帰宅した夫が息子の傷を気にしているのを見て、「フーン、私がインフルエンザに罹ろうと流産しようと、一切何の心配も声かけもしなかった癖に、○○の擦りむき傷は心配できるんだねぇ。優しいパパさんですことぉ」
とこれまた喧嘩を売りたくなる私は――っと失礼、これは毒親の話というより、夫婦関係の問題だった。

とにかくそんな、聖人君子とは程遠い、僻み・嫉み・妬み・恨みを死角なくフル装備している私が毒親にならないためには、息子に「毒親育ち」を連鎖させないためには、どうすれば良いのか。

私は、考えた。
考えて考えて、一つの結論に至った。

「私が毒親になる」のを防ぐのではなく、
「息子が『毒親育ち』になる」のを防げばいいのだと。

つまりはこういう理屈だ。

私が今、毒親育ちであるのがなぜ問題なのかというと、愛着障害を持っていて、それ故に生きづらさを持っているからだ。
もしも私に愛着障害がなく、生きづらさがなかったならば、「私の親は変だった」で話は完了する。変な親だった、性格が悪かった、変な育児してた、今後の付き合いは最小限にしよう。親のことなんかスッパリ忘れて自分の幸せを追求する人生を送ろう。これだけで済んだはずなのだ。

ということは、息子が愛着障害を持たないで成長できれば、毒の連鎖は止まるのである。

愛着障害とは何か、という話は長くなるので置いておく。毒親育ちの方なら自己分析の過程でご存じの方も多いだろうし、知らなくて興味を持った方はググって欲しい。
超乱暴に言うと、「他人との関わりにおける感情の動き方が変」で、「そのために、他人と適切に関われない」状態が愛着障害だ。
息子がこういう特性を持たずに、安定した愛着スタイルを持った大人になれば、今の私の言動が多少おかしくても、「変な母親だった」「お袋のことは好きじゃない」程度で済む、という話になる。

はっきり認めておくが、これは単なる開き直りだ。
つい2年前に毒親育ちを自覚出来た私は、解毒が全く間に合っていない。息子の人格が形成されているはずの今この時期に、自分の愛着スタイルを今日明日で完全に治し、感情を適切に整えて、正しい親子の絆を結ぶ、そんな真似は到底出来そうにないし、頑張って取り繕っても、結局は見せかけだけのハリボテにしかならない。それが現実としてどうしようもないことが分かるからこそ、こう考えるしかないのだ。

さて、健全な愛着スタイルの形成には、いわゆる「安全基地」が必要とされる。
安全基地とは、「心細いとき、そのことを素直に話せて、頼ることができる人のこと。安全基地に頼ると、安心したり、もう一度やってみようと思ったりできる存在」だ。なお、以下のページから引用している。

私自身、こういった場所がない状態で育っているが、安全基地の定義をこれとするならば、逆に言えば「この定義さえ満たせれば、安全基地は成立する」わけだ。父親・母親などの誰か一人に限定する必要があるとは、私が漁った範囲ではどこにも書いてはいない。つまり必ずしも母親や父親である必要はなく、複数人で分散することも可能で、つまり「私でない誰か」がこの機能を担っても良いはずだ。
ということは、私が息子にとって十分な安全基地になれなくても、安全基地を複数確保すれば良い
システムの冗長化により「安全基地」機能全体の稼働率を上げ、母親が私=愛着障害持ちの人間であるという、1筐体での信頼性の低さを補う。要はクラスタ化してしまうのだ。この概念は元SEとして、理論上は正しいはずだと言える。我ながら、これはなかなか名案だと思う。

毒親は高確率で、子供の外界との接触を断とうとしたり、厳しく制限したりする。自分の支配力が弱まるのを恐れ、自分の育児が外から批判されるのを恐れるためだ。独裁政権国家が情報を遮断し、国民だけでなく外国人の出入国をも厳しく制限するのと同じ理屈である。
そして、そのため子供は家庭外の人間との接触が少ない状況で育ち、毒親以外の安全基地を得る機会を失いがちだ。
私は実際、父(養父)との接触にさえ母による厳しい検閲が入った、完全な密室育児の状態で育った。私が母以外に安全基地を作ることは、意図的ではなかったかもしれないが、母によって阻害されていたのだ。

ならば私は、息子が他に安全基地を作ることを制限しなければいい
例えば、私から見ると「愛情など期待できないアスペ疑い夫」。彼は息子に対しては現状かなり「良いパパ」をやれているので、息子目線では安全基地になり得る。同様に、私にとっては「毒母」だが、息子には良いお祖母ちゃんをやれている母。ここも(母自身が愛着障害持ちなので)完全にではないだろうが、一部は使えるだろう。それ以外の「誰か」は現状ではまだいないようだが、例えば信頼できる学校の先生などの存在が、今後出現してくるかもしれない。
とにかく私がちょっとぐらい安全基地として機能できなくても、そこを補完する「信頼できる存在」が、息子の近くに居ればいいのだ。
そうすれば、私が多少毒っ気のある親になったとしても、息子が愛着障害を持たずに、生きづらさのない大人になることが可能なはずだ。

素晴らしい。完璧な計画である。

勿論、毒親にならないための努力はしたい。しているつもりだ。
だが、私はどうしても息子に対して、どこか関心を維持できない部分がある。恐らく愛着障害の恐れ・回避型の回避部分が出ている。私の母のような過干渉な毒は与えることはないだろうが、無関心系の親になっている可能性は否定できないし、何かと構って欲しがる息子に、「うるさい」「あっち行ってて」「動画の話はもう聞きたくない!!」などと毎日のように言っている。息子がちょいちょい側に寄ってきては延々喋り続けるのを、どうにも我慢しきれないのだ。

相手が「幼少期の私」ならば、私タイプの親でも毒親にはならないと言い切れるが、「息子にとって」私が毒親にならずに済んでいるか、これからもならずに済むかどうかは、さっぱり分からないし、恐らく一生分からない。
だが、私は息子の世界に、例えば夫や母やその他の他人が、私よりも上位に存在するのを許容することは、出来る。息子に母親として愛されたい、などとは全く思っていないからだ。(この「思っていない」ところが問題なのだろうけれど)

母である私の言うことを聞かずとも、息子が誰かの言うことを聞き、社会規範を学べるならば。
母である私を愛さなくとも、息子が父親や、祖母や、それ以外の誰かを愛し、正しく関係を結べるならば。
息子にとっての安全基地が、私一人では全ての機能を果たせなくとも、あちこちに存在して、全部の機能を合わせれば、必要分に達するならば。

私がドライすぎる親でも、子供を本能では愛せなくても、僻みっぽく性格の悪い人間であっても、息子の相手よりゲームの方が100倍面白いと思ってしまっても、息子が健全な愛着を持てる人間になってくれれば、無罪なのである。

あくまでも理論上は、という話だ。
実際に成立するのかどうかは分からない。
だが、私からすれば「気をつければ毒親にならずに済む」なんて都合のいい未来を漠然と信じ続けるよりは、「息子の安全基地候補の人間を、息子から遠ざけない。むしろそういう存在を歓迎して確保する」という方がよほど具体的で分かりやすく、現実に効果のありそうな対応策だと感じられる。

私自身の愛着障害を治していくのは、それはそれで、やらねばならないことである。だが、とにかく今、自我を形成している最中のはずの息子を「毒親育ち」にしないために、私にできることは精神修行だけではないはずだ。
息子と、息子が信頼する人間を、邪魔することなく見守るというだけで、息子が健全に育つ確率を上げられるなら、是非そうしたいところである。

息子を毒に染めずに育てたい、というのは、勿論私のエゴだ。
そんな種類の配慮は、息子には必要ないかもしれない。
生来の明るさを持ち、子供らしい強さを持つ息子は、私程度の毒など効きもせずに、健やかに育つことが出来るかもしれない。
険悪とまではいわないが、精神的な結びつきが全くない私と夫・私と母が、表面上だけを一つ屋根の下で取り繕っている、この歪な「家族」という器の中で育ってしまうことの方が、息子にとって悪影響である可能性も、否定できない。

だから、その点で息子に恩を着せるつもりは全くないし、「息子のために我慢している」というつもりもない。これは私が、私が過去にしたこと――子供を産むという選択をしたことに対する責任を、私なりに果たすというだけだ。息子にとって悪影響の方が大きいと判断すれば、即座に方針を転換するつもりでもある。判断が間に合うかどうかは、確証が持てないが。

私には、自信がない。
勉強以外の取柄が何一つない役立たずで、生活能力もなければ気も利かず、愛嬌も可愛げもなく、自分一人の力では何も出来ず、母の保護下でなければ生きてさえいけない脆弱な人間だと、そう刷り込まれてきた自己認識が、「母でさえ毒親になったのに、自分のような人間が毒親にならずに済むはずがない」とこびりついたまま、離れない。
そもそも、母親としての適性があるかどうかも怪しいのに息子を産んでしまった、という負い目が、私にはある。歪な「家族」を今すぐ解体して、私がシングルマザーとなって息子を育てた場合、経済的な問題だけならきっと何とか出来るだろう。だが私が一人で、息子の安全基地として十分な機能を果たせるとは、どうしても思えないのだ。

私がずっとそうであったように、この世界に生きていることを、息子が呪うような日が来たとして。
「子供を産むことこそが幸福と生き甲斐を作る」という母の主張を鵜呑みにして、それを目的に結婚し、出産までしてしまった私は、謝ることしか出来ない。

生まれ育った環境に問題がなかったとしても、息子が自分の生きる意味を疑うようになる日は来るのかもしれない。
どんな人にも、挫折や絶望を味わう瞬間はあるだろう。思春期の漠然とした葛藤から、そこに至る人もいるだろう。
だがせめて、そんな日が来るまでの間に、息子の自我が少しでも強さを得ているように。
息子にとって有益であるならば、夫も母も含めて、使えるものは全て使ってでも、私は、息子への負い目を減らしたい。

これは、ただのエゴだ。
息子のためであるかのように見せかけて、私自身の罪悪感を薄めることを目的としている。
だが――息子が愛着障害を持たずに成長できる、という範囲を、理論上は、逸脱していない。それを免罪符にして良いのかどうかも分からないけれど。

息子が成長し、安全基地としての「家族」が、私が、不要になる時まで。
息子という個人を、息子が愛し愛されるはずの世界を、出来る限り守っていこうと思う。
私の選択が、取り返しのつかない誤りとはならないように、祈りつつ。

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