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何をしたいのかわからない若者へ - シビックハッカー、海外ではたらく

ここ数年で何度か母校の学生を対象に講演をさせて頂く機会がありました。
テーマは「卒業生がどんな仕事に就いて何をやっているか」
講演後、嬉しいことにいくつか反響がありました。反響をくれた多くの学生達に共通するのは、将来何になりたいかわからない、何をしたいのかわからない、と悩んでいるということです。
そんな若者に向けて、講演で話した内容をここに書いてみることにします。

学校を卒業して、就職し、そこで定年まではたらく、という選択肢以外にも、こんな生き方があるんだな、と選択肢を増やすヒントになれば嬉しいです。

tl;dr 長くて読む気にならない:仕事に忙殺されていた社畜サラリーマンがとりあえず英語の勉強を始めたら五年後に海外で理想の仕事をみつけたので、やりたいことがわからなかったら英語の勉強を勧めますよ、という話です。

1. サラリーマン、英会話に出会う
2. サラリーマン、シビックテックに出会う
3. 専門学生、起業に失敗する
4. 無職、シビックテックコミュニティに入る
5. シビックハッカー、海外ではたらく

1. サラリーマン、英会話に出会う

2008年、立派でもない成績でなんとか学校を卒業し、某IT企業にソフトウェアエンジニアとして就職しました。そこで五年と少しはたらくことになるのですが、毎日のように強要される残業、繰り返される転勤、仕事では上司に問題点を指摘し改善案を提案するも取り合ってくれず、退職するまでの間、あまり幸せではありませんでした。一時期、このままではやっていけないと残業の合間に隠れて転職活動をしていましたが、面接でよく聞かれた質問が「業務以外の時間ではどんなことを勉強しているの」。残業していると業務以外の時間なんて無いんですね。答えられませんでした。でも実はこのとき苦しんでいたのは、仮に時間があっても何を勉強したらいいのか分からないことでした。

転職活動にことごとく失敗してから数ヶ月後。デスマーチのようなプロジェクトにひと区切りがつき、比較的落ち着いたプロジェクトに配属されました。突然残業が無くなると、平日の夜は何をしたらいいのか分からなくなると同時に今まで見えていなかった景色が見えてきます。ある夜、駅前でひとつの広告が目につきました。「英会話教室、体験入学無料!」何となくドアを開けていました。

先生が指し示すものをできるだけ英語で言う、実質スキルテストみたいなものが"体験入学"だったと思います。なぜか印象に残っているのが、イルカの写真を見せられて「This is a dolphin.」も言えなかったことです。英語力は全くありませんでした。

将来の目標なんてありませんでしたが、やりたいことも特にないし、英語ならいつかは必要になってくるだろうと思い、とりあえず英会話を始めてみました。そこからのめりこみ、留学したい、と思ってから具体的な計画をするまでに、あまり時間はかかりませんでした。

英語が話せるようになったら帰国後の転職活動はもうちょっとうまくできるだろう、そんな期待を持って、当時の生活費と、留学にかかる学費、交通費を元に予算をたて、費用が貯まったら退職して留学すると決心したのは2011年ごろのことでした。

無理に目標をもつ必要はないし、それに悩んでいる時間はもったいないです。とりあえず何かを始めてみましょう。

2. サラリーマン、シビックテックに出会う

私の父は地方の市役所ではたらいています。幼いころから、どんな仕事をしているのかを聞く機会は何度かありました。覚えているのは父が区画整理という仕事をしていたときのこと。消防車が入ってこれない道路を拡張するため、彼は近隣住民の方へ工事の協力の依頼をしていました。もし火事になったときに消防車が入れなくて困るのはその住民の方々です。しかし、彼らは頑なに拒否し、なかなか協力に応じてくれない、という話でした。私はまだ子供でしたが、それを聞いて憤りを覚えました。これは一つの例ですが、日本、とくに地方では、保守的で変化を好まない傾向があります。多くの企業や学校での仕事のやり方に関しても同様なことが言えるかと思います。明らかに理不尽で効率的でないやり方を、疑問も持たずに、または疑問を持っていても解決できずに、我慢して慣習に従い続けている人たちが周りにいませんか。社会人になった私もその一人でした。

留学するまで残り一年をきったころ。別の炎上プロジェクトに配属され、その日もうんざりとしながら遅めの帰宅をし、西友で買った割引シールの貼られた惣菜を電子レンジで温めながら、何気なくテレビをつけました。映っていたのはNHKのスーパープレゼンテーションという番組。TEDカンファレンスという世界で活躍している人たちがプレゼンテーションをするイベントを、日本語字幕つきで放送するというものでした。テレビの中で、一人の女性が話していました。その女性は、プログラミングの力でアメリカ国内の市町村などの自治体の仕事を効率化し、暮らしやすい街にしていく取り組みについて語っていました。彼女はGoogleなどの企業から問題解決の方法を知っている人たちを一年間限定で雇い、行政機関に送り込み、そこで共にはたらくことによって得た成果と、どうやって自治体と共存して良い未来を子供たちに残すかについて述べていました。

私は彼女のプレゼンテーションに衝撃を受けました。日本よりも先進的だと思っていたアメリカでさえ、行政は保守的で古くさい方法で仕事をしていること。そんな行政に最先端のはたらき方を知っている人たちを送り込んで問題点と解決策を見つけ、行政と共に市民を助けられる仕組みを作っていること。ショックを受けたのと同時に、自分のやりたいことが見つかった瞬間でした。すぐにその女性について調べ、シビックテックという分野の仕事ではたらいていることがわかりました。当時は日本語での検索結果はほとんど無く、それ以上調べることはありませんでしたが、英語を勉強して、いつか理解できるようになって、もっとこの人たちのやってることを知りたい、将来は同じような仕事をしたい、と思うようになりました。

もし私たちが全員で力を合わせなければならない重要な課題に直面したら、私たちはただの文句をいう集まりになるのでしょうか。または、それだけではなく問題を解決するために手助けもする集まりになるのでしょうか? (Jennifer Pahlka)

3. 専門学生、起業に失敗する

留学先の語学学校に半年通ったあと、専門学校で一年間、WEB開発とデザインを学ぶことは日本にいたときから計画していました。専門学校への入学条件の一つとして、もちろん英語が必要でした。TOEIC800点程度の語学力が求められていましたが、2013年に日本を離れる時点では300点台しかありませんでした。英語を上達するためにカナダへ渡るときに決めたことは、たとえ日本人の友達と一緒にいてもできるだけ英語を使って話すことでした。この些細な意思と、同じように考え、その意思を支えてくれる友人たちに助けられながら、半年後の入学願書提出時にはなんとか条件をクリアできました。

専門学校の同級生はほぼ全員、英語を母語とする人たちでした。入学初日に何人かと一緒に飲みに行きましたが、一人ほとんど言葉を発することが出来ず、かなり悔しい思いをしました。その日から、通学時に歩きながら、ヘッドフォンでスティーブ・ジョブズのスピーチを聴き、それを発声して繰り返す、という訓練を始めました。他人から見たら「お金がなかったから友達の寮の床で寝ていた」とか独りでしゃべっている不審者です。それは少し恥ずかしかったので、朝は通勤ラッシュより早めに家を出ていました。それでも最初の数ヶ月は自己紹介やプレゼン発表のたびにかなり緊張していました。同級生全員が私の言っていることを理解してくれようとしていて、怖がる必要は何もなかったというのは後から気づきました。

入学して一ヶ月くらい経ったころ、ある同級生から「起業のアイデアがあるんだけど一緒にアプリを作らないか」と誘われました。起業には以前から興味はあったものの、やり方は全くわからず、アプリの作り方もわからず、それでも彼の熱意に感心し一緒に始めることにしました。昼間は授業を受け、授業後には学校の課題を消化、そのまま学校で深夜までアプリ開発。週末も祝日も学校に通い詰めました。結局残業やってるのでは、と思われるかもしれませんが、ゴールを共有して自分が作りたいものを作ることは、日本ではたらいていたころと違って苦痛ではなく、むしろ楽しかったです。

開発を始めて半年後、あと一ヶ月頑張ればアプリのベータ版がリリースできる、と息巻いていた矢先のこと。「全く同じアプリがシリコンバレーで発表された。そちらは大きなチームを組んで、巨額の出資を受けている」と、一緒に起業した彼が相談してきました。そこから方針を転換する余力も財力もなく、開発を中止することとしました。辞めるという決定に至るのは、始めることより難しかったです。深夜の教室で悔しがったことは今でも忘れられません。

今振り返ってみると、自分たちの起業のやり方もアイデアも浅はかなものでした。しかし、この経験がなかったらそれにも気がつかなかったと思います。失敗から学ぶことは圧倒的に多いです。

「負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる(山王工業高校 堂本監督)

4. 無職、シビックテックコミュニティに入る

専門学校を卒業するころに気づいたのは、予想していたよりもはるかに英語が話せるようになっていたということです。二年弱のうち九割以上の時間を英語だけで過ごしていたことがいつの間にか自信につながり、現地での就職に挑戦することにしました。

私たち外国人がカナダで就職をする場合には、就労ビザというものが必要です。私の場合、ビザ申請に少し手違いがあり、ビザが発行されるまでの数ヶ月間は無職でした。旅行に行くお金はありませんでしたが、無職なので時間だけはあります。現地の求人広告をまとめ、必要されている技術の中でよく出てくるものをいくつか選び、毎日一人で勉強していました。また、Meetupという、同じ趣味や目的を持った人たちで集まるイベントにも参加していました。当時参加していたMeetupは主に写真撮影、プログラミング、英語学習をテーマに集まるイベントでした。そんなある日、新しいイベントが作成されたとMeetupのアプリから通知がきました。そのイベントはシビックテックに興味がある人を対象にしたものでした。

そのイベントの第一回目は、シビックテックとは何か、という紹介でした。そこには何十人もの参加者がいて、こんなにも多くの人たちがシビックテックに興味を持っているということに嬉しくなりました。イベントのホームページや掲示板みたいなものもすでに用意されており、Meetup終了後、自己紹介スレッドには早速多くの人が投稿していました。
私も他の人にならい、なぜシビックテックに興味を持ったのか、どんなことができるか、といった内容の自己紹介を書き、次のMeetupを楽しみにしていました。

しばらくして第二回のイベントの通知がきました。内容は、地元のシビックテックスタートアップの代表が講演をする、とのことでした。それまでアメリカのシビックテックばかり調べていて、自分が住んでいる街にその分野の会社があることはまったく知りませんでした。これは行かなければ、と参加を予定していたのですが、イベント前日にインフルエンザにかかってしまいました。やむをえず参加をキャンセルし、第三回のイベントの通知を待っていましたが、その通知は結局訪れませんでした。主催者が忙しくなったりして活動中止、ということはたまにあることです。そんなとき、LinkedInを経由してメッセージが届きました。送り主は第二回のイベントで講演をしたスタートアップの代表でした。現在ソフトウェアエンジニアの採用を行っており、掲示板の自己紹介を読んで興味を持ったのでランチを一緒にしたい、という申し出でした。

指定されたカフェに行くと、彼は先に席についていました。会話の冒頭で、実は採用を考えていたけど既に他の人を採用したからこれは面接ではないことを知っておいてほしい、と告げられました。採用のチャンスを失ってがっかりとした気持ちもありましたが、シビックテック関連の会社を立ち上げた本人と実際に会い、彼の話を聞き、自分がTEDトークを観てからどれだけシビックテックに興味を持って英語や技術を勉強してきたか、起業をしようとしてどんな失敗をしたか、を話せたことは貴重な経験でした。英語、シビックテック、留学、プログラミング、起業の失敗、という点が結びつき、彼と話す機会を得ることができたのです。

将来のことを考えて点と点をつなげることは不可能ですが、後から見返してみるとそれがつながっていたことは明確でした。(Steve Jobs)

5. シビックハッカー、海外ではたらく

貯金が底をつき始めていたころ、申請していたビザの発行準備ができたと連絡がきたので就職活動を始めました。求人広告を見て、十件に履歴書を送って、一件返信があるかないか。就職先は選んでいられない、とにかく仕事が欲しい、とメールを送る日々が続いていました。ある日、一社から面接の案内があり、電話面接、技術面接、そして役員面接を行いました。結果、最初の面接から五日後、私は小さな印刷会社でWEBエンジニアとしてはたらくことになったのです。

カナダでは、全ての会社がそうなのかわかりませんが、一般に残業という概念がなく、その日までに仕事が終わらなかったら仕事を割り振っている上司の責任、とばかりに全員定時に帰宅します。もちろん上司も定時退社します。定時後の時間を利用して大学へ通う人も、ジムへ行く人もいます。私といえば、TOEIC以外の英語の試験を受けるべく、引き続き英語の勉強をしていました。

いくつかの季節を印刷会社で過ごしたころ、また一通のメールを受け取りました。送り主は半年以上前に一緒にランチをした彼でした。メールにはただ一言、「久しぶり、最近なにやってる?」とだけ。印刷会社で仕事をみつけたということ、もっと多くのことを学びたいのでメンター(指導してくれる人)が欲しいということを返信しましたが、特に用件もなく、なぜ突然メールを送ってきたのかと不思議に思っていました。

数日後、再び彼からメールが来ました。「もしよかったら、うちで一緒にはたらかない?」

そのメールから今日までの二年間、シビックハッカー(シビックテック領域で働くソフトウェアエンジニア)として彼とはたらいています。彼も含め、同僚たちがメンターとなってくれて、二年経った今でも学ぶことが毎日あります。この会社にオフィスはありません。普段は家にいますが、基本的にどこで仕事していてもいいです。同僚は北米中に散らばっており、最大四時間の時差がある人もいます。誰も勤務時間を管理せず、昼休みにジョギングに行く人や、休暇で他の国へ行きながらそこで少しだけはたらく、という人もいます。子供を保育園に迎えに行ってそのまま一緒にボルダリングをしにいく、と告げて早退する同僚もいます。比較的自由な社風の、ソフトウェアエンジニア六人を含む二十人程度の小さな会社ですが、生産性は高く、数百万人の利用者にサービスを提供し、喜んで使ってもらっています。

以前は何をしたらいいのかわからない、と悩んでいました。これに対して私がみつけた手段が、とりあえず英語を勉強するということでした。何の気なしに始めた英語でも、それを使うことで、日本にはないはたらき方、生き方、そして尊敬したいと思える人たちに出会えることができました。大事なのは、始めてみた、ということだったと思います。

今は一昔前と違って、初心者でも無料でプログラミングを学ぶことができる方法がインターネット上に豊富にあります。プログラミングを勉強すれば、将来あなたがソフトウェアエンジニアにならなかったとしても、その知識をどんな職業でも活かすことができます。仮にあなたがスポーツのコーチになったら、選手のデータを解析して的確なアドバイスが出せるようになるでしょう。仮にあなたが小学校の先生になったら、現場の先生たちが苦しんでいる無駄な仕事を削減し、繰り返し行う作業を自動化するアイデアも提案できるでしょう。今から始めても遅すぎることはありません。八十歳過ぎた日本人女性がアプリを開発したニュースは海外でも広く知られています。

自分から動き出さなければ誰も助けてくれません。文句を言っていても何も変わりません。自分次第です。(Code for America - Our Values #2

おわりに

先日、勤務先の別の代表から、突然メッセージが来ました。朝九時前、まだベッドの上で起きようかどうか迷っている時間。彼は今から電話できるかと聞いてきました。半分寝ぼけた頭で電話をしてみると、今から話して欲しい人がいる、と言って誰かに電話をかわりました。なんだろう、と思っていたら、その方は私が六年前にNHKのスーパープレゼンテーションで観て感化された、あの女性ご本人でした。十分前後の通話でしたが、眠気は吹き飛び、頭の中が真っ白になり、何を話したのかは正直覚えていません。正気に戻ってから、英語を勉強してきてよかった、と思ったのと同時に、その女性といつか意味のある会話ができるように頑張ろうと決意を新たにしたのでした。

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