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「光る君へ (12) 思いの果て」について「純文学は性的表現の最後の砦」視点から感想文を書いてみる。なぜか村上春樹『ノルウェイの森』と、トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクについて論じています。

 小説はまだ書く準備は整わないが、とりあえず、性的なことを「お下劣」とか「不適切」とか言うのはやめることにする。そうではない。性的表現に真正面から取り組むのが純文学の大切な役割なのである。その点で今季の大河ドラマ『光る君へ』と、TBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある』は実に純文学的な傑作ドラマなのである。

 僕の性的表現に関するスタンスを「純文学は性的表現の最後の砦」と呼ぶことにした。という決意表明文でもある。

 とはいえ、真面目ばかりが純文学ではないのである。性欲の前に、いかに人間はお馬鹿さんになるか、というのを真正面から目をそらさずに描く、時には大真面目に、時にユーモラスに、全部、純文学なのである。

 そして『光る君へ』は、脚本家、大石静氏が、

「戦がない時代。男性のエネルギーは女性に向かっていったのではないか。平安時代のセックス&バイオレンスを描きたい」〉

(Oricon News 2022-05-12 11:10)

と語っている通りなので、性的なことを真ん中に据えて描くことは、このドラマのメインテーマなのである。だから、その点を中心に感想文を書くのは、このドラマの感想文として王道なのである。力んでいるな、俺。文末が全部「である」だもんな。

 さてね、今回、注目ポイント、論じるのは三点。
①藤原実資(ロバート・秋山竜次)、袋とじ画像に興奮するのシーンについて。
②藤原道長(柄本佑)、21歳の性的暴走と『ノルウェイの森』主人公、ワタナベトオルの行動の共通点、に見る「純文学の王道」主人公の性的行動について。
③源倫子(黒木華)の、アグレッシブ・アタックに見る、大石静の「女性の性的欲望」観について。からの、トルコのノーベル文学賞作家、オルハン・パムクの小説群における女性の描き方。

①ロバート秋山、袋とじ画像に「見えておる」と喜ぶのシーン。

 (後に結局、自分がまひろを妾にするのだからビックリだが)、親戚の世話好き叔父さん、藤原宣孝(佐々木蔵之介)が、結婚相手に藤原実資(ロバート・秋山竜次)がいいんじゃないかと思いつく。昨年、北の方が亡くなったので、「正妻」としてである。まひろが「父上より学識があるんですか?」と聞くと、父上は「それだけじゃなくて権勢に媚びない、筋の通った方」という、叔父さんは「学識があり、人望があり、何より財がある」とべた褒めである。たしかにここまで、序盤戦では、ややプライド高すぎて融通が利かないが、お笑いキャラではなく描かれてきたのだが。

 しかし、今回は、「赤痢で下痢気味」で、日記に「鼻くそのような女との縁談あり」と日記に書くと、だんだんキャラ崩壊。と思ったら佐々木蔵之介が、縁談のお話ともに持参したお土産の巻物の中に、ここからはNHK副音声の描写ね。

副音声ナレーション「見舞いの巻物を開く。中に一枚の紙。薄い衣をまとった女の絵」
秋山のセリフ「おほっおほっほ」
副音声「透けた衣に、ふくよかな白い肌」
秋山「おほほっ、見えておる」

NHK+ 副音声

何が見えておるかと言うと、これ、透けた衣の下、お尻の割れ目筋がちゃんと描かれている。片方の乳房も(乳首はなしね)描かれている。ので、喜んじゃったのである。学識もあり、政治的には権威に媚びずに筋を通し、人望もある。そういう立派な大人物でも、スケベ―画像には「おほっ、おほほっ」となる。男性とはそういうものである。そう、大石静さんは描くのである。しかし、批判的ではない。男ってそういうモノでしょう。仕方ないなあ。そういう風に描くのである。藤原実資についてのWikipediaを見ると

女性関係
気難しい性格であった実資も好色であったようで、『古事談』に以下の逸話が伝わっている。
 実資の邸宅であった小野宮第の北対の前によい水の出る井戸があり、付近の下女たちがよく水を汲んでいた。下女の中で気に入った女がいると実資はよく誰もいない部屋に引っ張り込んでいた。そこで頼通が一計を案じ、自邸の侍所の雑仕女の中から美人を選んで水汲みにやらせ、もし実資から引っ張り込まれそうになったら、水桶を捨てて逃げ帰るように命じた。案の定、実資はその雑仕女に手を出そうとしたが、予定通り女は水桶を捨てて逃げ帰った。後日実資が頼通を訪ねて公事について話をした際、頼通が「ところで、先日の侍所の水桶を返していただけないか」と言った所、さすがの実資も赤面し返事ができなかったという。

Wikipedia「藤原実資」

 平安時代、好色だからといってそのことで人間としての評価が下がるわけではない。学識の点や政治的に筋の通った人である点はおそらく今後も肯定的に描かれ続けるはずである。

②藤原道長(柄本佑)、まひろにフラれたその足で、源倫子に会いに行ってしてしまうからの『ノルウェイの森』との比較考察

※以下に『ノルウェイの森』についての盛大ネタバレあります。要注意。

 前のnoteにも書いたが、今回のドラマのこの年、おそらくは986年、藤原道長は21歳である。人生における性欲ピークの年齢と言ってもいい。恋愛、恋心も下半身に駆動されてしまう。社会的な自分をどうしていくか(立身出世とか、世の中をどうするとか)ということと、下半身駆動の恋心と性欲の区別不分明な状態の混乱、というのを、大石静氏脚本はとても上手に描いていると思うし、柄本佑さんも見事に演じていると思うのである。
   まひろに文を書いて廃屋に呼び出したときの下心は「正直に倫子との縁談を進めていることを告白しつつ、それはまひろに言われた正しい世の中を実現するたためだ、とカッコいいこと言ったら、もしかして妾でもいいと言ってくれないかな、そう言ってくれたらまたここでしちゃおうかなあ、したいなあ」であったことは確実である。一回しちゃった場所に呼び出すんだから、したかったのである。
 その前に、父親、兼家に「源の娘との縁談を進めてくれ」とお願いしたのも、まひろを諦めたから、かと思ったら、「まひろを妾にする」は諦めていなかったのだな、道長、欲張りさんである。

 でも、はっきりとまひろに断られちゃったので、道長くん、なんとその足で土御門の源雅信お屋敷、源倫子のところに、文も書かず、いきなり押しかけちゃうの、これかなりのマナー違反である。ほんとは何度か文のやりとりをした後で、行かないとだめである。

 この、よく考えるとめちゃくちゃな道長の行動を見ていて、僕は、昭和から平成にかけての日本最大のベストセラー、村上春樹の『ノルウェイの森』主人公、ワタナベトオルくんを想起してしまったのである。

 ワタナベトオルくんも、あれは20歳から21歳くらいの、道長と同じ年齢の時の、若気の至りの性欲暴走で、たくさんの女の人を傷つけてしまう話、というのが本当のところなのだが、みんななんだかとてもオシャレさんな悲恋純愛物語みたいに思っていて、なんだかなあ、なのである。あの主人公のトオルくんほど、性欲のままに暴走する男の子はいないのである。イメージでは村上龍の小説の主人公のほうが性欲暴走しそうであるが、村上龍の方がたいてい女性に対してなんというか「童貞の頃の女性へのおそれと憧れ」が強くて、大人になってもどこか奥手なのである。一方、村上春樹小説主人公にはそういうところが希薄で、ほいほいと登場する女性人物と、どんどんすんなり肉体関係を結んでいくのである。そういう意味で、村上春樹小説の主人公というのは、読者に「性欲の塊」とかんじさせないうちに、どんどんつぎつぎ女性と関係を結んでいくという意味で、光源氏の遠い末裔のような位置づけに、日本文学史的にはあると思うのである。

 ちなみに純文学には「モテオトコ文学」と「モテナイオトコ文学」というのが明らかに存在する。太宰治は「モテ男文学」で、三島由紀夫は「モテナイ男文学」である・両者は全然似ていない、ということを以前に論じたことがある。村上春樹は「美男子ではないのに自然体モテ男」文学であり、村上龍は「金持ちになっても有名になっても心はモテナイ童貞時代を忘れない」男の文学なのである。全然違う。

 『ノルウェイの森』というのは、高校時代の親友(自殺している)の彼女と大学生になってから東京で再開して、なんとなく付き合うよう付き合わないような関係を続けたのち、彼女の二十歳の誕生日に、してしまう。してしまったことの罪悪感から(しかも、死んだ親友とは、彼女は感じないためにできなかったという負い目があったのに、トオル君とはやたらと感じてしまい、できてしまった、という彼女にとってショッキングな結果となり、)彼女は心を病んでしまい、遠くの山の中のサナトリウムに入る。入っている間に、東京でトオル君は、別の彼女と付き合い始めてしまう。それはなんか、仕方ない感じもするが、それだけではない。それとは別に、女遊びをする悪い先輩東大生にくっついて、一夜限りの女遊びも繰り返す。病んでしまった彼女のことも好きだし、新しい彼女のことも好きだし、女遊び先輩とくっついての性的遊びもやめられない。そういう生活をしてしまう。そして、ついにサナトリウムの彼女が死んじゃうと、そこにいた、彼女と仲良しだった年上の女性とも、小説最後の方で、しちゃうのである。彼女の死を受け入れる、そこから回復するために必要なプロセスであるかのように年上女性とのセックスが描かれるのである。そして東京に帰ってきて、新しい方の彼女との関係が始まる、深まるのかなあ、というところで小説は終わる。
 こうして事実関係だけを並べると、このトオルくん、いいやつなのかどうか、よく分からない。この話全体が、いい話なのかどうか、よく分からない。
 でも、20歳から21歳の性欲と恋心の区別をどうつけたらいいのかよくわからない男子の心と体と行動について、そうなってしまうことに対して悩みまくってしまう心のありようが、実に正直に誠実に語られているのである。あまりに正直に誠実に、かつおしゃれに淡々と語られているので、読んでいても「こいつ、ひでーやつだなあ」とは思わず、「素敵な恋愛小説」として読まれてしまうのである。

 今回の『光る君へ』の道長のことを見ていて、まひろにフラれたその足で、倫子のところに行って、倫子に押し倒されてしてからセックスしてしまう道長を見て、『ノルウェイの森』のトオル君のことを思い出した、という話でありました。日本古典文学における最高の小説「源氏物語」と、戦後、昭和から平成において最大のヒット純文学『ノルウェイの森』の主人公の、やりたいほうだい性的にお盛んなのに、なぜか清潔な恋愛をする素敵な男としてイメージされちゃうの謎、については、今後もっと掘り下げて分析しないといかんと思うのである。

③倫子は自分の選択で、積極的に人生を進めている人物として描かれているのが印象的。からのトルコのノーベル賞作家、オルハン・パムクの小説を連想するのはなぜか。

 さっき「道長を倫子が押し倒して」って書いたけれど。今回、いちばん印象的だったのが、あのシーンだったのだな。この時代の貴族女性は、父親・一族の出世の道具として使われて、男に見初められて、寵愛されて通ってもらえれる間は幸せだが、やがて正妻でも疎遠にされたり、ましてやどんな高貴な男性に見初められても妾であっては、とても不幸、そういう女性観・認識を根底に置きながら、その中でときどき、主体的に自分の人生の設計を推し進める女性、吉田羊演じる詮子もそうだったが、黒木華演じる源倫子のそのスタンス、とても印象的な人物造形である。女性の自立、みたいに、そういう女性の扱いに反抗して、学識や専門性を持ち自立・自律しようとする、という方向に紫式部や清少納言を描くのはまあ言って見ればありがちな感じがするのだが、源倫子の場合、自分の家の地位の強さと限界、そこでの自分の価値と幸せ、それと「誰を愛するか」の判断、しかも打算ではなく「本当に素直に好きになる」というある種の無意識のコントロール、あざとくなく好感が持てるのに、自分の欲望をいろいろいちばん有利なところにはめ込んでいくのである。

 そのアグレッシブさと自然な欲望の肯定というのが、部屋の中で道長を後ろ向きで待つ姿、表情に凝縮していたのである。

副音声ナレーション「廊下に控える道長。御簾の下りた部屋に一礼する。」
道長「道長でございます。無礼を承知で参りました。お側によってよろしゅうございますか」
副音声ナレーション「頭を下げる倫子。」
道長「失礼いたします」
「御簾をめくり、中に入る道長。うつむき、目を閉じた倫子。気配に身を固くする。手を握られ顔を上げ。目が合い、視線を逸らす道長。胸に飛び込む倫子」

NHK副音声

ここで、倫子が勢いよく道長を押し倒すのである。

倫子「道長さま、お会いしとうございました。」

NHK副音声

押し倒されて、しばし動けなくなる道長。
やがて意を決して、男女上下反転・道長が上になる。

副音声ナレーション「倫子を見る道長、抱きしめる」

副音声

 抱きしめるっていうか、押し倒された道長が、一瞬茫然とした後、上下反転して、倫子にのしかかるであるが、下になった倫子の表情が、まずアップで映し出されるのである。完全、愛されモード、幸せそうな倫子の顔である。これ、あざとく「してやったり」顔で演じることも演出することもできるのであるが、脚本も演出もそうしない。どう考えても、初々しく上気し恥じらい、まあいろいろと自然にかわいいのである。(僕の主観感想です。)
 出会いからここまでの、倫子の道長への恋、結婚したいという気持ち、そして押し倒してからののしかかられるところまでのお話の流れと黒木華の演技に、あざとさではなく、ごく自然な「ちゃんと恋をして、ちゃんと結婚したくなって、ちゃんと愛される」欲望の自然な発露のプロセスが描かれるのである。ここが、大石静脚本のすごいところだと僕は思う。まひろの悲恋失恋を描くなら、倫子の道長との結婚プロセスにあざとさがあると描いても不自然ではない。でもそうは描かないのである。「大谷翔平と結婚するなら田中真美子さんしかいないよなあ。他の人が入る余地はないよなあ。どっから見てもお似合いだよなあ、何もかも釣り合っているなあ」という、そういう感じが、道長と倫子には、あるのである。まひろ、身を引いて正解、残念だけど。そういう感じが黒木華演じる源倫子にはあるのである。

 自分の欲望を、周囲の流れと自然に一致させる才能、というものがある。それは男性と女性が不平等である状態が人類の歴史で長く続いた中で、女性がそれに対処するために編み出した生き方の戦略・能力なのかもしれない。女性を、単なる受動的存在、男性優位社会での被害者として描くのではない。その状況の中での女性の能動的「幸福獲得のための戦略」として描く、というのが、大石静氏の狙いのように思う。

 もう一人の道長の妻になる明子の「復讐のため」というのは、これはこれで大河ドラマの定番というか、「権力闘争の中で、その敗者である父の無念を晴らすために敵の妻となる」というのは、あるパターンだと思うのだが。まひろの「職業的自立」、明子の「復讐のための結婚」というのに対し、倫子の「自然な欲望の肯定」というのが、なんだかとても新鮮で印象的なのである。

 で、さっきは村上春樹に話が飛んだのだが、今度は、トルコのノーベル文学賞作家のオルハン・パムクの小説に話を飛ばそうと思う。こちらは読んだことがある人が少ないと思うのだが、この人、1952年生まれの現代の小説家である。トルコというのは、アジアとヨーロッパの境目で、イスラム教の国の中ではいちばん世俗化(宗教戒律が厳しくない)が進んだ国で、戦後の高度成長期の日本が、どんどん民主化、西欧化しつつ、戦前の伝統的な価値観やライフスタイルや家族観も残っている、みたいなのに近い変化をしてきた、そういう社会変化の中の恋愛や結婚を描いた作品も多い。イスラム教では女性の結婚は親が決めちゃうし、結婚するまで父親や男兄弟の許可がないと一人で外出しちゃいけないしみたいな厳しい男女差別的なこれは宗教上のきまりがあるのだれど、都会化西欧化が進んだイスタンブールではそういうものから自由な生き方をする人がどんどん増える一方、トルコ半島の東側では、古い価値観やライフスタイルが根強く残っていたりする。日本で、九州だとまだ男尊女卑の感じが残っていて、東京で結婚したカップルが九州にお盆正月で帰省すると、親戚のおっさんたちがひどく男尊女卑な振る舞いをしてびっくりする、みたいなやつがトルコだともうちょっといろいろ厳しくあったりするわけだ。
 なんだけれど、オルハンパムクの小説というのは、それをイスタンブール的西欧化した価値観から、旧弊な価値観・社会を批判する、という立場からだけ書かれているかというと、わりとそうでもない。そういうイスラムの伝統的価値観の中でも、歴史的に、女性は自分の欲望と、自分の幸福を実現するために、いろいろと主体的な選択をして人生を切り開いてきたのだよなあということが感じられるような女性の描き方をするのだな。黒木華演じる源倫子みたいな感じで。女性には主体的な欲望もあるし幸福のための戦略的で主体的な選択もする存在であり、そのことに男性は振り回されたり不意打ちを受けたりもする。

 戦後の高度成長期の中での、田舎からイスタンブールに出てきた夫婦を描いた『僕の違和感』という小説でもそうだったし、16世紀くらいのイスタンブールの絵師のことを描いた小説『わたしの名は赤』でも、それは主人公絵師とその恋人の関係でも、現代の東部田舎町での政治的事件を描いた『雪』での、ジャーナリスト主人公男性と昔の恋人の関係でも、その社会・時代なりの女性の主体性能動性というものが、必ず丁寧に描かれていたと思うのだよな。

 女性には女性の性的欲望のあり方があって、そのことと自分の幸せな人生の実現をどう関係づけるか、という作戦、戦略性があって、女性だからと言って受動的で被害者で、というばかりではない。それはもちろん、現代において実現されつつある、男女平等な生き方、男女平等な権利があったということではもちろんない。その時代・社会の「男女不平等な現実への適応」でしかないわけだけれど。でも、文学ができることというのは、そういう社会の中で、女性がどう生きてきたかを、現代的な価値観から批判したり否定したりして描くことだけではないはずだ。その時代、その社会のあり方の中での女性の能動的、欲望肯定的生き方があったことを掘り起こすこともできる。『光る君へ』における、黒木華・源倫子の「能動的押し倒し」描写を見ていて、そういうわけで、オルハン・パムクの小説を思い出しちゃったのだな。

長くなったね。おしまいです。感想文の中に出てきた小説関連の感想文noteを下に貼っておきます。

















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