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『ユーチューバー』 村上 龍 (著) 老いに対しても、自分が若い時から「有名小説家」という特殊な人生を歩んできたということに対しても、素直で正直な私小説を書くなあ。その特殊な視点からの、コロナ三年間の時代の空気が封じ込められている点も貴重。

『ユーチューバー』 村上 龍 (著)

Amazon内容紹介は、まあいいか。

ここから僕の感想。

 村上春樹の新作長編はメディアも世間もぼくの友人たちも、なんらか「事件」として大きく扱うが、村上龍の新作は、「長編」というほどのボリュームもない。ものの二、三時間で読めてしまう、連作短編集である。ほぼ誰も話題にしないけれど、面白かったなあ。

 村上龍は私小説的な小説の時は、自分らしき主人公小説家は「矢崎健介」という名前で書く。コロナで客がほとんどいなくなった時期の高級ホテルのVIPルームで、恋人と会ったり、見知らぬ変わった男と知り合って、その男の誘いで、自身の女性遍歴についてYouTubeで語ったりする。そういう「70歳になる、20代前半で芥川賞を取った有名小説家 矢崎健介」を主人公とした、淡々とした私小説連作である。

 村上龍は正直な人だと思う。有名小説家として生きてきた自分のありよう、それが70歳と言う年齢を迎えて、コロナでホテルに人がいなくなり、部屋にこもってYouTubeを観たりディスカバリーチャンネルを観たり映画を観たりすることが日常になった自分の生活について、(視点・話者人物は、短編それぞれで、老小説家自身だったり、その恋人女性だったり、話しかける中年ユーチューバーだったりするので、文体はそれに合わせて巧妙に変えられてはいるのだが)、素直に語っていく。

 やっていることは、思い出話と、観たものの感想と、人間観察だけである。何か事件が起きるわけでもないし。でも、自分が特殊な生き方をしてきた人間で、いまさら、普通の人の生き方や人生がわかるわけもないという潔さがあって、特殊な立場、有名小説家に若くしてなって、その特殊な人生が老いを迎えた時に、今の時代の中で何を感じて生きているのか、そのことを淡々と正直に書いているのである。例えば二十年後に読んだときに、ああ、これはコロナの時代のことで、老人もYouTubeを普通に見るようになった頃のことで、そういう数年間の時代の空気を、有名な老小説家がこういうふうに記録したのだなあ、という、そういう価値がちゃんとある。

 あと、脱線するが、僕はついこの前、たまたまちょうど、妻と『テニスボーイの憂鬱』について思い出話をしたことがあった。僕が大学生で芝浦のマンションに一人暮らしをしていたとき、つまりは漠と小説家になりたいと思っていた頃、雑誌BRUTUSに『テニスボーイの憂鬱』は連載されていたのである。このころの村上龍の文章と言うのは、日本の小説家の中でも際立って天才爆発だと、それは当時も今も僕は思っていて、そのBRUTUS連載の小説を、芝浦のマンションの狭い部屋で、せっせと写経していたのである。

 その後単行本になってからも、本当に何度も繰り返し読んだのだが、なぜか妻が、BRUTUS連載時にちゃんと読んでいて、内容も正確に覚えていた。いろんな意味で、文章だけでなく、考え方とかいろいろな意味で僕の教科書だった『テニスボーイの憂鬱』を、妻がしっかり読んでいたというのは、ちょっと衝撃というか、なんかいろいろ妻にそこまで理解されていたのか自分のことを、という「そりゃマズイ」というショック、そんなことを感じたことが、つい最近あったのである。

 で、今日、これを読んでいたら、矢崎健介がYouTubeで語る女性遍歴の中に、明らかに『テニスボーイの憂鬱』の中で、主人公の恋人になる二人の女性のモデル2人のことが語られていて、それはかなりいろいろと問題含みの内容なのだが、そういうことを素直にすらすらと、この年齢になつて、またもう一度、私小説の中で語ってくれてしまうというのは、これは本当に村上龍って面白い人だなあ、好きだなあと思ったのである。

 どうしても村上春樹と較べてしまうというか、新作をあちらも読んだばかりだから並べて語りたくなるが、老人になると若い時からのつきあった女の人のことを、いちいち細部にいたるまで思い出したくなる、語りたくなる、老人と言うのはそういうものだということを小説にするとして、村上春樹があのように手の込んだフィクションの虚構世界を、ああして精緻に手間をかけて作りこんで、若き日の高校生の時の恋愛の、その美しさを文章に結晶させようとするのに対しての、村上龍のこの、なんとも正直でストレートな語り口と言うのが、対比として「何十年も二人とも有名小説家として歩んできて、これだけ遠く離れたところにたどり着くのだな」という感慨が、愛読者としてはしみじみとしてしまう。

 時間と老いという距離・フィルターを通して自分の女性遍歴を語る。その時に機能する「自己愛とか自己肯定」のフィルター特性自体が、村上龍と村上春樹では、こんなに違うのだよなあ、ということが、もうどちらがいいとか悪いとかではなく、ただもう面白い。味わい深いのである。


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