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第14回目 英霊の依頼 タイ王国南部編

泰緬鉄道で死を覚悟した兵隊からの帰還依頼 タイ王国カンチャナブリ―

クワイ橋(戦場にかける橋)

期間:2023年 6月16日~7月1日

1:日本の兵隊からの連絡 6月23日に合流日を指定してくる

2023年4月初め、一人の兵隊さんから連絡があった。彼の気配から場所を察するにカンチャナブリ方面で亡くなり、そちらに迎えに行き、そして、日本へ連れて帰って欲しいということでした。そして、6月23日にその日本兵と会う約束になった。何故、6月23日なのかは不明のままである。

この時点で、英霊の依頼という名の活動に同行して頂いているF氏に連絡を開始しました。彼は、第8回目の英霊の依頼から共に活動をしている同志です。私から、F氏に対して次のメッセージを送っています。『6月動くかもしれません。タイ側カンチャナブリ方面。あくまで仮です。行くときは突発的に。はっきり言えずすいません。』という内容でした。

このやりとりが始まってからしばらくして、タイ王国北部の街チェンマイから車をチャーターしてタイ王国南部カンチャナブリへ向かう可能性を、F氏に伝えています。きっとタイ人の妻とそういった話が私との間でされ、F氏にお伝えしたのだと思います。そして、10日間、私に日にちをあけるように日本の兵隊さん側から連絡を受けていましたが、結局、14日間、タイ王国に行くことにしました。理由は、4月22日 突然の義父の他界で葬式に御参列して下さっていた、葬祭の手伝いをして下さっていた親類縁者との御挨拶・食事会を持つ必要性があったので、10日間という日程を英霊の依頼活動の準備・遂行時間として充分なものにする為には、数日間ほど、予備日の必要性が出てきたからでした。この10日という日数を聞いて、私の動きに対する必要日数が明確になり、結果的に10日以上タイに滞在する必要性を感じたからでした。そういった流れに乗りつつ、うまく今回の英霊の依頼活動における行動計画をまとめることにした。

2:4月22日 タイにいる嫁の父が他界

しかしながら、妻の父が他界されたという突然の訃報が妻に届いた後、なんとなく英霊の依頼活動を遂行するにあたって、徐々に依頼を引き受けるどころではない気持ちになっていきました。嫁がすぐさま、タイへ帰国することになり、緊急ということもあり、私は妻を関西空港へ見送ることにしたのですが、空港内で不思議な出来事があった。ふと何気に見た空港内のデジタル時計に目をやると、6:23になっていた。そして、その数字が私に対し、強調されて意識づけられてきた。まるでその瞬間だけ、時計と私の間に異様な空間を感じるというか・・・。その瞬間、私は、6月23日を現在の妻の父の死という状況とは関係なく、日本兵との合流日を忘れるなと、改めて強く念押しされたような気になりました。

そのあと、妻を無事、空港内に送り、見送りをしたのですが、それからは、嫁の連絡が一方的になり、私の質問に対し返事がほとんど無かった。『忙しい。他のことは考えられない』といった返事のみでした。父が死んだのだから、心の状態も理解できる。それに、タイの御葬式は、一日ではなく、数日間するのが普通のようでした。多くの関係者が御葬式に来られるので一晩では終わることが出来ないようで、また、火葬日の良い日を選んで行うようで火葬場の混み具合によっても、日が延びることが多々あるようでした。

そんな状況の中で、英霊の依頼活動の進捗状況は、全く進展も無く、ただただ英霊と約束した6月23日に向けて、時間を消費していくだけになり、何も準備が進まない私は、今回の日本兵からの帰還依頼は、出来ないんじゃないかと再び心折れそうになり始めていました。

すると、何者かが私に声をかけてきました。

『止めることはない。このまま進みなさい。』と現状に全く問題ないことを伝えてきました。

今となって思うことは、義父の死によって、私がタイ王国へ長期休暇を取るための大義名分をもたらすことになり、私の仕事上の周囲の皆さんがタイに2週間行くことに納得、協力して下さったように感じさせられました。そう考えると、何者かの声は、この我々家族が置かれる状況(義父の死)が、英霊の依頼活動を好転させると知っていたのではないかと思えてならなかった。そういう意味では、妻の父に感謝すべきことなのかもしれない。兵隊さん側としては、妻の父が死して、英霊の依頼を遂行出来るように、間接的に我々の長期帰国へ手助け頂く流れになったことも認識しているのではないかと予測されました。

3:『私は生きて日本に帰れない気がする』

  5月某日、私の頭にあるイメージが流れ込んできた。そのイメージの中の一人の若い日本の兵隊はタイ王国とビルマを繋ぐ列車に乗って移動していました。彼は列車の窓から列車の右舷後方で、爆撃による爆発を目の当たりにしました。

彼は直感的に、『私は、生きて日本へ帰れない気がする。そして、祖国にいる両親にもう会えない気がする』死を受け入れる覚悟を決めた瞬間の心の動きが私の中に伝わってきた。

   そして、その当時の映像を見せた後、彼は当時、年齢が25歳。ふくしまという地名を告げました。名前は〇〇〇。なんとなく、彼の 意思から伝わる雰囲気で、関西の方のような気がして、ネット検索すると、其の姓は大阪で一番多かったことがわかりました。私なりの裏付けが取れたので少しこの活動に向かう心を鼓舞されたような気持ちになりました。そして、重要なのは、彼を含む他の兵隊さんたちを一人でも多く連れて帰ることなので、意識をそちらに向け、徐々に集中力を高めていくようにした。

4:5月16日 同志F氏とのメッセンジャーのやりとり

私の飛行機の便の購入が遅れていました。妻がなかなか購入しないので、困っていたところ、早々にF氏は北海道からタイ王国チェンマイまでの航空券の手配に入り、5月19日には購入に至っていました。私の方は相変わらず、嫁が航空券を購入せず。理由としては、我々が乗る飛行機は、搭乗者が多くなく、いつでも予約が可能であるということでした。とはいえ、慣れない出発間近での航空券を買う素振りは、私的には心臓に悪かった。最終的には、私の仕事の混み具合を見計らって、6月16日に日本を発つことに決めました。無事、航空券は購入出来、やっと気持ちが一抹の不安から解放されました。

ここで改めて、私の仕事の状況の確認ですが、抱えている仕事は結構ありましたが、皆さん急ぎで無いということ、仕事が施工困難であれば、他の業者に頼むということでなんとか調整が出来ました。というか、お客さんから、日程を調整するかのごとく動くのでびっくりしました。いつものことですが、モーゼの十戒という映画のように、私の前の仕事が整理整頓され、海が割れるが如く、英霊の依頼活動への道が開いていくように調整されていくのを感じました。なんとなく、見えない力が作用しているのを意識させられ、いつもながら、すごいなと思いながら、正道を歩くかの如く、タイに向かうことが出来ました。

これにて、6月16日、関西空港よりタイ王国チェンマイへ向けて、直行便ベトジェット航空で5時間半の移動時間を経て、タイ王国北部の街チェンマイへ無事到着しました。

ベトジェット(ベトナムの飛行機会社)

5:5年弱ぶりのタイ王国チェンマイ

前回、タイ王国にて兵隊さんからの帰還依頼があった時以来になる。チェンマイは以前と同じように見えるが、やはり、新しい建物や車が目に留まった。圧倒的に日本車が多いにしても、中国車も目に入るようになっていました。

チェンマイ空港には、嫁の親友であるOさんが迎えに来てくれていました。さっそく空港近くのデパートへ行き、美味しいタイ料理カオマンガイ(鶏の料理)を腹ごしらえをして、チェンマイの自宅へ送って頂きました。シャワーを浴び、扇風機を全快にしながら、床に寝そべり、飛行機移動での疲れを取るがごとく浅い睡眠を取ることにした。夜は、Oさんと共に妻と3人で古いナイトバーへ飲食・リラックスしに行きました。

昔は、よく来たナイトバーも10年以上は来ていない気がした。歳をとったなと、ただただ思うばかりだった。

タイ王国チェンマイに到着した16日から19日まで、嫁の親友Oさんから始まり、親類縁者、そして、大学の先生とのパーティー・食事会をして過ごすことになった。私は、仕事の関係上、妻の父のお葬式に行くことが出来ませんでしたので、なんとか、義父のお葬式にご参列してくださった皆さんと食事をすることでお許しを乞うような気持ちで、挨拶と会話をしていました。

いつもながら、妻の親交関係の広さのおかげで、皆さんに良くして頂き、感謝するのみであった。

6:姪っ子からの連絡

我々が20日タイ王国チェンマイに到着する北海道のF氏を迎える2日前、姪っ子のYちゃんとその彼氏が、カンチャナブリへの英霊の依頼に参加したい旨を連絡してきた。車はグランドキャビンのような大きなワンボックスカーで10人乗れる車なので、私は問題無いよと妻に伝えました。妻も、問題無さそうでしたので、夫婦の合意の元、英霊の依頼活動の旅に彼女たちを受け入れることにした。

姪っ子のYちゃんとは、1年半前、私が日本の兵隊から帰還依頼を受けて日本へ連れて帰る活動に関わる第二次世界大戦インパール作戦について話したことがあった。彼女は、タイで舞台の一つになった戦争(インパール作戦)のTV番組で興味を持ち始め、我々夫婦が日本の兵隊の御霊を引き上げていることを思い出して、動画サイトを紹介してくれたりしてくれていました。

ですので、きっと、今回の英霊からの帰還依頼活動の話を妻から聞いて、行きたいと興味を持ち始めてくれたのかもしれない。私ども夫婦、F氏の常駐メンバーも高齢化が進み始め、特に私においては、疲れがたまりやすく依然のように少し休めば体調が回復するということは無くなっていた。妻に関しても、同じような感じで、いろいろ質問しても持前の勢いも以前ほどではなくなっていたので対応・返答も遅く、そんな部分を姪っ子Yちゃんが来ることによって、活動に若さが加われば、楽に進められるのではないかと思ったりもした。

それにこの活動に参加するということは、何かしらまた英霊の依頼活動において、機転になる存在であるのではないかと勘ぐっている自分もいました。

7:6月20日 F氏 タイ王国チェンマイ入り

F氏より、日本を発ち、チェンマイに向かっていると連絡が来ました。空港到着予定時刻は9:30。我々も自宅からチェンマイでお借りしている車を不慣れながら運転し空港へ向かいました。車を駐車場に止め、空港内へ。すると、F氏は既に国際線出口から出てきており、お互いの姿を確認すると、笑顔がこぼれた。実に4年ぶりの活動が再開した瞬間でした。

さっそく、空港内で、携帯電話がタイ王国でも使えるようにSIMカードを購入した。これにて、ギガ制限を気にせずタイ国内でもネットが使えるようになった。

次に、事前に予約しておいたホテルへ向かい、早めのチェックインをしました。ホテルは最近出来たホテルで内装がとても綺麗なホテルでした。次の日の21日からカンチャナブリ方面に出発する際、お迎えの場所としてとても良い場所ですし、周囲にコンビニなどある便利な場所だったのも決め手でした。

飛行機でのお疲れもさほど無いようで、まずは、英霊の依頼活動を始める前の恒例の土地神様へのご挨拶と御礼と許可を祈願する為、チェンマイ市内を一望出来る現地の人々の信仰心が注がれるお寺へ訪れることにした。そちらでは、チェンマイを一望し、この国の全体像をわずかながらでもF氏にも感じていただき、お寺内でご挨拶を土地神様に向けてさせて頂きました。『どうか、この国に留まっている日本の兵隊さんの魂を日本へ連れて帰る許可をお願いいたします。そして、今までこちらの国でお世話になりありがとうございました』と念じ、旅の安全も祈願しながら、手を合わさせて頂きました。

この後、ちょうど小腹が空いてきましたので、タイの皇室が先導する無農薬野菜のレストラン Thai Royal Project Restaurantに行き、現地の美味しいタイ料理で腹ごしらえをしました。

次にそのまま、F氏が持ってきたお金をタイバーツに両替したいということでしたので、空港近くのロビンソンデパートに向かうことにしました。そこでは、妻も用事があり、その用事を済ます間に、私とF氏は、タイ王国の地図を購入したり、デパートの内部をあちこち歩いてみて回った。食料品店では、今回、訪問予定の連合軍側の墓地に慰霊をする際のイギリス側のお菓子があるかなど確認してみた。

時間の経過と共にF氏の両替のこともあり、妻がどこに行ったのか気になり、探し始めると、妻側から我々を見つけてもらい、そのまま両替所をデパートの中を探し回った。少々手間取りながら、やっとのことで見つかり、両替が完了。気持ちが楽になり、デパート内を歩いていると、我々の前から日本の兵隊の服装をした男性が歩いてくるのが見えました。妻は気づいていなかったようで、F氏は目に留まっていて、日本の兵隊の恰好に似ているなと思ったそうです。私は、すぐにその男性が誰かわかりましたので、妻にすぐに日本兵の恰好をした彼のことを伝えました。彼は有名人でタイ王国でドラマ化されたコボリという名の日本兵の姿をまねて、毎年、チェンマイのムーンサーン寺の慰霊祭にご参加されているタイ人でした。というか、その時もその恰好をしていたので、彼は常時、その恰好をしていることに気が付き少々驚きました。ドラマの中では、コボリさんはタイ人女性と結婚するという内容でした。詳しくはドラマを見ていないのでわかりかねますが、5年弱ぶりにその慰霊祭で見たコボリさんの姿に扮したタイ人の彼に会うことが出来て、思わず、声をかけてしまいました。それからは、妻と何やら話し始めたのですが、この後、ムーンサーン寺に一緒に向かいましょうということになり、コボリさんも我々が乗ってきた車に乗車し、共にお寺に向かうことになりました。この時点で、私的には、『なんで彼(コボリさん)が我々と合流して、F氏をいつか連れていく機会があればと思っていた慰霊祭のあるムーンサーン寺に早々行くことになったんだ?』と流れの展開の速さに腰を抜かしました。

毎年8月15日にチェンマイで慰霊祭が執り行われる代表格のムーンサーン寺に到着した我々は、このお寺で英霊の御霊の供養にも務めてくださっているお坊様にご挨拶をし、慰霊をさせて頂きました。すると、鍵の閉まっていた博物館を開けて下さり中を見学することが出来ました。この地で亡くなった、もしくは九死に一生を得た日本兵たちの遺品を目のあたりにすることになりました。F氏は興味深く拝観されており、様々な遺品や写真を見て、どこの部隊のものかなどを注意深く観察されていました。

左側の男性がコボリという日本人に扮したタイ人男性
戦時中に日本兵が使っていた携帯品

この後、F氏が言っていたことは、あの無駄と思えるデパートでの徘徊の時間(時間つぶし的な)があったからこそ、我々はコボリと名乗る日本兵の姿に扮した彼と偶然、会うタイミングを掴み、チェンマイで野戦病院として使われていたムーンサーン寺へ行くことになって、博物館へも入館させて頂けることになった。そして、博物館の中で飾られていた原爆ドームの模型(コボリ氏に扮したタイ人の彼が博物館に寄贈)についても、タイ王国チェンマイへ向かう道中、搭乗した飛行機の機首になぜかHIROSHIMAと銘打っていたのを不思議に思い気に留めていたので、何かこれも関係があるように感じると言っておられました。

この後は、疲れてきたので、F氏をホテルに送り、数時間、休憩した後に一緒に食事を取ることにした。結局、妻は疲れたので家で休み、明日21日からの英霊の依頼活動に向けて英気を養うということになったので私とF氏だけで近くの簡易なレストランで夕ご飯を食べることになった。

明日からの活動について確認し合ったりしながら、心の準備を整えつつ、リラックスしながら、談話も楽しみました。そんなに長引くこともなく、ある程度したら、ホテルにF氏を送り届け、私も家に帰宅して、ゆっくり休むことにしました。

ドライバーの話によると、チェンマイからカンチャナブリまで10時間あるという。結構タフな旅の行程になると覚悟を決めました。

8:カンチャナブリへ出発 6月21日

いよいよカンチャナブリに向けて出発の日となりました。朝7:00の予定でしたが、ドライバーさんから連絡があり、20-30分遅れると連絡がありました。我が家には、姪っ子Yちゃんとその彼氏が到着し、ドライバーさんが来るのを待ちました。スーツケースを道まで出し、待っていると車が到着。さっそく、ドライバーさんに詰め込んでいただき、F氏滞在のホテルに向かいました。


我々が乗っていく車

ホテルの前に到着すると、既にF氏は準備万端で待っていました。さっそく、今回のメンバーとなる人たちと顔合わせをし、車に乗り込んだ。私とF氏は後部座席に乗り、長丁場になるドライブに備えました。

出発時刻は8:00となりました。

ここで、簡単に今回のメンバー紹介をすると、私ども夫婦(2名)、北海道からF氏(1名)、ドライバーのSさん 嫁の友人の旦那さんでもあり、英霊の依頼1回目のドライバーさんでもある(1名)、そして姪っ子Yちゃんとその彼氏(2名)総勢6名のチームになります。

全員、朝食を食べていなかったので、適当な所でドライバーさんのお勧めレストランで食事をとりながら移動を続けました。移動中は話も弾みますが、やはり、食べることは旅の醍醐味の一つでもあるし、気持ちを落ち着かせ、前向きに進むという意味でもとても重要でした。

この時、私的に朗報なことは、姪っ子のYちゃんがかなり気遣いが出来て、雰囲気を明るくしてくれていることでした。そして、自営業を営んでいるせいか、情報収集においてもこなれていて、積極的に動いてくれているように思えた。やはり、この英霊の依頼に関わる第二次世界大戦インパール作戦で起きたタイ王国側での歴史に興味が本当にある人間は違うんだなと思えました。もちろん、会社を経営しているのでそういう意味でも機転が利いているように見えました。

ドライバーのSさんの鬼気迫るドライビングで本当にカンチャナブリにチェンマイから車で10時間かけて到着することが出来ました。この活動のドライバーとして必要不可欠な信頼できるドライバーさんだなと改めて思いました。彼は、ツアーなどでカンチャナブリにも数得きれないほど来ていますし、道程を知り尽くしているので運転にも自信が漲っているように見えました。そして、やはり見えない世界の奇妙な旅において、彼は幽霊といった存在をあまり信じない性格なので、たまに茶化したりしていましたが、なんとなく、その性格がバランサー的な役割を担ってくれていて頼りになる存在でした。

カンチャナブリに到着して、妻がここがいいんじゃないかというホテルに来て、空室があるか確認すると、なんとか4部屋確保できそうでしたので、そこで宿泊を決めることにした。場所的にはクワイ川に沿うような形で建っており年季が入ったホテルのような感じでした。夕方、川沿いを下りながらクワイ橋方面を散策しました。すると川に浮かんだコテージのような場所からクワイ橋が正面に見えて、なんとも言えない気分になりました。妻が日本の兵隊の気配を感じているようでしたので、F氏も戦時中に吸われていたであろうたばこを吸い始めた。私的には、目的は泰緬鉄道で爆撃を目のあたりにしたMさんが今回の英霊の依頼のメインになっていたので、ここで気配は感じても、皆と合流する場所という認識にはほど遠く、何かを感じるのであれば、妻に任すしかないと思うに至りました。

カンチャナブリ クワイ橋

各自ホテルの部屋に戻り、夕食まで休憩することになった。F氏は今回の慰霊で使う日本のお米とガスコンロを持参していたので、ガスコンロに使うガスボンベを調達することが頭にありました。私もF氏がタイに来る前からお聞きしていたので、妻に伝えていたのですが、どうも二の次にされる傾向にあったので、少しイライラとし始めていた。せっかく、タイに重たい荷物になる日本食をここで命を落とした日本兵の為に持参し、日本食を味わっていただきたいというF氏の気持ちも理解出来たし、私も過去の経験から現地に残っていた日本の兵隊さんたちに香りや食べ物のエネルギーを頂いて魂の傷を癒してもらいたいと思っていました。

夕飯に出かける時間になり、ホテルから離れたクワイ川の横にあるレストランで夕食を取ることとなった。が、そこでもガスボンベの話になって、明日、スーパーで調達することになったのですが、明日の朝には間に合わず、私も含めてイライラとする場面があった。

F氏はホテルに戻ってフロントスタッフに聞いても、ホテル側にガスボンベの持ち合わせもなく、どうしても必要なんだとF氏は食い下がり始めたので、気持ちは十分理解出来ました。どうしてもクワイ橋の見える場所で日本食と味噌汁などを用意すれば、この地で亡くなった兵隊さんたちにも喜んで頂けるし、集まれば、今回、帰国に向けて合流できる日本兵も増えるので22日の朝に日本のお米を炊けないのは非常に腹立たしく思えた。

どうしても手に入らないガスボンベ。仕方ないので各々部屋に戻り、就寝となったが、私的には初っ端から、気を緩めて行動するのはいかがなものかと思い、夜の間は、一人明日の予定を考え、プランを作り、マップを作成して、ドライバーのSさん並びにF氏にメールさせて頂きました。

この旅は、おそらく、うまくいくであろうけれど、気の緩みは失敗を招く恐れがあるので、たとえちょっとした緩みでも私的には許せないものがあるので、再度、気を引き締めました。感動物語を目指す旅ではなく、現実的に日本に帰国を願う日本兵の幽霊たちと合流し、日本へ帰ることが最重要任務、いや、もうそれしかないと一点集中の思いでこの活動を遂行するのがこのチームに参加する私の使命でした。F氏もその考えに沿って、動いて下さり、当然のことながら、私と同様同じ信念を持って、ご賛同して頂いているものと認識していますので、F氏の感情の動きも信頼しておりました。

残念ながら、朝の白いごはんは日本のお米を炊くということは出来ないので、ホテルの朝食に出てくるかもしれないタイのお米ではあるが、白飯を拝借することに考えが至りました。細かい話かもしれませんが、戦時中は、日本兵の皆さんに限らず、このカンチャナブリでは多くのアジア人労働者、連合軍側の捕虜が泰緬鉄道の建設に従事して飢餓・栄養不足により病気で亡くなった経緯がありますので、そんな方々のご供養の意味も込めて食事を用意したいと思うのであった。

9:6月22日 カンチャナブリの朝

F氏と私は朝早く起きてホテルの朝食が取れる時間にレストランに伺いました。そして、そこで白飯とお湯を調達し、昨日の夕方に訪れたクワイ橋が見える場所にあるテーブルの上でお供えをし始めました。

味噌汁・白いごはん・日本酒・そして戦時中にあったタバコを用意させていただきました。

最終的には、ドライバーを除く全員が揃い、無事、日本兵の日本への帰還を祈願することとなった。

10:初日 カンチャナブリでの動き

日本兵との合流の約束の日は6月23日なので、今日(22日)は、まずは連合軍側の墓地へご挨拶と謝罪をすることが優先であると考えていました。戦時中に駆り出された各々の国の兵隊さんたちは、自分の国を守るために戦争に参加したに過ぎず、そんな方々が戦争によって、苦しい環境のまま、死んだり、過酷な鉄道建設による重労働で間接的に殺されたりするのは不幸でしかないし、その加害者側となった日本軍の行いを思うと、いろんな考え方があるにせよ、まずは頭を下げたいなと1番に向かうことを心に決めていました。当然、戦争なので、日本兵が他国に不当な扱いをされたこともあるのは知ってのことです。

昨晩、ドライバーのSさんにお願いした順序とは違いますが、まずは、1つ目の連合軍側の墓地を訪れました。墓地の中央にある慰霊塔の前で膝をついて、手を合わせました。 

チョンカイ軍事墓地にて

『先の戦争では、お互い苦しい環境に身をおかれ、皆さんが不幸になりました。まずは、この泰緬鉄道で加害者になった我々の行いを謝罪致します。すいませんでした。そして、皆さんの御霊がこの過去の出来事から解放され、癒されることを祈念申し上げます』

連合軍側の墓地は綺麗に管理されていました。それに比べると過去訪れた日本軍側の慰霊塔は、個人の寄付によるものが多く、維持がされていないものが多いのが現状です。これをどうとるかは、各々の判断に任せますが、私は、先の戦争が引き起こした不幸を顧みる場所として、とても大切な場所であると思っております。二度と戦争を起こしてはならないという思いを確認する場所として、国レベルで維持し続けていければ、軍事墓地の役割の一つとして有益なのではないかと思いました。

一つ目の連合国側の墓地を後にして、次は、泰緬鉄道で亡くなった人々を供養するお寺に立ち寄りました。そこに訪れる人々に、西洋人の方々の姿も見られました。展示されている写真があるのですが、泰緬鉄道に関わった資料めいた写真がほとんどでした。そして戦時中使われた物も展示されていて、展示室の奥では、この戦争の出来事をまとめたビデオも流されていました。私も並べられていた椅子に座り、少しばかり見させて頂きました。

その次に伺ったのも連合国軍の墓地で鉄道建設のベースキャンプの一つであった別の場所。こちらでも墓地の中央奥にある慰霊塔で手を合わせました。すると、誰かが声をかけてきました。我々のしていることをご存じのようで、暖かく見守ってくださっているようでした。過去ミャンマーにある連合国軍の墓地に伺った時も、好意的な声をかけて下さり、このように綺麗に墓地が管理され、慰霊されている場所から聞こえてくる声というのは、本当に成仏されているんだなと思いました。そして、戦時中、敵軍であった人々に対しても、国の違いとはかけ離れたところから声をかけて下さるので、人とは地球単位でどう認識すべきかという点において、改めて学ばせて頂きました。物質社会にいる時は、生まれた国によって区別され、戦争という悲劇が起こるけれど、元は一つの存在であるんだという感覚を持たせてもらいました。だから、私の心に届けてくれる言葉も国とは関係ない今成仏していない魂を救う活動に好意的な言葉しかかけてこないのだなと思いました。

連合軍墓地を後にした我々は、泰緬鉄道の列車に乗る為に、先を急ぎました。駅近くの慰霊碑にも立ち寄り、列車の到着を駅で待つことに。駅で乗車券は事前に買う必要が無く、乗車した後に購入しました。タイ人16バーツ外国人100バーツ どこまで乗っても値段は変わらないとのことでした。ここから目的のナムトック駅までは2時間半の道のり。ドライバーのSさんには車でナムトック駅(最終の駅)まで移動して頂いて、その間にガスコンロのボンベも調達して頂きました。

カンチャナブリ駅周辺
クワイ橋

合流約束の日の前日なので、この列車に乗ったからと言って、日本の兵隊たちと出会えるのかなと思っていたのですが、全くコンタクトもなく、闇雲に時間が過ぎていきました。最初は、列車の外の風景を窓から追っていましたが、途中からは、景色に飽きてしまい、前日の車の移動の疲れを取るがごとく、ゆっくりとしていました。

私が日本にいる時、日本の兵隊さんは明確に場所を指定してこなかった。しかし、彼が戦時中見た記憶がビジョンとして私の頭の中にある。コンタクトを取ってきた若い日本兵は列車に乗っていて、車窓から列車が向かう方向の右後方で爆撃を見た。あの時、外の風景ってどんな感じだったかな。確か、開けていたように見えたな・・・。そんなことに思いを巡らしながら、時間を過ごしていた。私がここに来たのは、彼らを日本へ帰国させる為。だから、緊張感とプレッシャーは常時、感じていて、いつも素直には楽しめない。1回目から今回の14回目までずっと合流するまではプレッシャーの中にいる。そして、合流が出来ると、基本的には早く日本に帰りたくなる。この英霊の依頼を受けるようになってからは、どの観光地も楽しめなくなった。なんというか、いつも緊張感の中にいるような。きっと死ぬまでこれは続くのだろうなとある意味、呪縛というか足枷のようにも思います。だけど、その反動で、日本の兵隊さんたちの日本への帰還が叶うなら、それはそれで本望だと思う。やはり、私の人生でなすべきことは、これなんだなと思います。

2時間半が過ぎ、12:30頃にナムトック駅、最終地点まで来た。ここからは、タイとミャンマーの国境へ向かって移動するだけになる。今日は、どこまで進むことになるのか。流れに身を任せ、状況に目を配りながら時を過ごすことになりました。

11:ヘルスファイヤーパス

ナムトック駅から30分ほど車でミャンマー方面に移動したところで食事を取り、そのあと、ヘルスファイヤーパスなる博物館に立ち寄りました。ここでは死の鉄道と呼ばれる線路を敷く為、岩場を掘削しながら、建設されていきました。が、この鉄道建設にあたり、周囲諸国のアジア人労働者そして、捕虜になった西洋人などが一日17時間働かせられ、多くの命を奪ったそうだ。博物館としては、まだ新しい建物でつい最近出来たかのような施設で、お金をかけて作られている割には、入場料が無料なところに驚きました。我々は30分ほど歩いたところにある供養・記念の為の石碑を訪れ、手を合わせてきました。この石碑はこの鉄道に関わった全ての労働者・捕虜の為に作られたもののようです。たった30分ほどの徒歩でも結構疲れたのに、岩を砕き線路を作る作業に携わった人たちは、いかほどの作業だったかと思うと、まさに地獄のような環境だったのは言うまでもないなと思いました。

ヘルスファイヤーパス

12:一部 日本の兵隊の合流


車はミャンマーとの国境方面へ向けて走り始めたが、どこという目的地も決めずに行けるところまでという曖昧な移動を続けていました。すると、サンカブリー付近という地名の場所付近で日本兵の気配を感じ始め、一気に私の身体に憑依し合流し始めたので、この周囲で亡くなって待っていたものだなと思いました。最終的に彼らに身体を明け渡すことになり、彼らの心の声を出させてあげました。私の身体は箱舟のような感じで、多くの亡くなった人たちが纏わりついてくる。特に、多くの日本兵隊さんたちは私についてきて、そのまま、日本の帰国を果たし、離れていくという感じです。霊視出来るわけでもないんだけど、気配の察知能力が高く、気配が形になり、そして、その映像が頭の中に入ってくる感じです。気配を掴めば、年齢層もおおよそわかるし、気配の中にその情報があり、少しばかり私にもわかることがあるようだ。もちろん、詳しく事細かくわかるわけでもなく、わからない時は手っ取り早く、私の身体を貸して本人から話をさせるのが一番なんだけど、そう簡単にはいかないようです。そして、あまり身体を明け渡し過ぎると、私の体力と精神力が失くなっていき、最後は、自分で立てないくらいに生命力を吸い取られた感じになるので、最近は、拒否をして、テレパシーと映像だけで彼らのコンタクトを受け、海外の戦死した場所に伺うようにしています。これが、私のようなそういった世界に馴染みのない霊能力とはかけ離れた凡人のやり方です。

切りが良い時間でしたので、この付近で宿を探すことにした。ドライバーさんはサンカブリーにある大きな湖の近くまで車を走らせ、景色の良い場所で車を止めてくれました。ちょうど大きな湖が見渡せる場所に宿があったので、そこに空き部屋があれば、そこに宿泊しようとフロントに聞くと、4部屋(我々夫婦、姪っ子と彼氏、ドライバー、F氏に分かれて)あったので、そこで宿泊し、この地域で亡くなった日本の兵隊の御霊と共に今宵はゆっくり出来ればいいなと思いました。 この兵隊さんは、6月23日に合流を約束した兵隊さんとは異なるので、まさにプラスアルファの人たちを連れて帰れるのでラッキーだったと思います。

この後、観光気分なのかどうかわかりませんが、湖を周遊するボートに乗り、湖に沈んだ町があった場所を訪れたりした。それほど、興味は無かったが、せっかくだからと私も参加した。ひょっとしたら、また他の日本兵にも会え、連れて帰ることが出来るかもしれないので。

各々の部屋に入り、少し休んでから景色の良いレストランが部屋とは対面側にあったので、そこで皆で揃っていただくことにしました。

大きな湖が目の前にあるので、魚が美味しいのではないかと選び、それ以外の現地の美味しい食材が使われた料理をオーダーしました。皆、今宵はお酒を飲みながら、ぐっと同じ船に乗った仲間のように心を交わす夜となった。

 そして夜の宴で決めた次のプランが以下となった。(6月23日の予定)


  1. 朝、托鉢に来るお坊様に先ほど合流した日本の兵隊さんの為に、お経を詠んでいただく。

  2. この地域にあるお寺に日本兵の日本への帰還許可と御礼に訪れる。こちらの土地神様に対してのご挨拶

  3. 国境近くにある3つのパゴダが並ぶ有名なお寺に訪れる。場所の特定がされていないので、この場所で合流出来るならと僅かな思いを寄せる。私的には、コンタクトを取ってきた日本の兵隊さんと合流出来るのではないかと何の脈絡もない予測で伺うことにした。

しかし、私の中では、どうもそのイメージでは無かった。いつからか忘れたが、6月23日合流日、もう一度、泰緬鉄道に乗らせてほしいと誰かしらに話をし始めている自分がいた。

13日:約束の合流日 6月23日

今日は約束した合流日。朝から気が引き締まる。しかし、約束の日であっても、場所までは特定出来ていない。正直、うまく行くか不安もある。毎回、誰に怒られるのでもなく、1回目から13回目までプレッシャーを感じている。失敗は自分の中で許されない。必ず、皆と合流して、日本に帰る。私の中では、この一点集中だけだ。たとえ少なくても、多くても私には関係ない。一人でも多くの命というか、縁があって繋がった日本の為に戦ってくれた、海外に送り出された兵隊さんの為に彼らの望みである日本への帰国成就に心血を注ぎたいと思っている。赤の他人と思われるかもしれないけど、やはり私にとっては、大事な家族なのだと表現するのが正しい。だから、いい加減なことは、出来ない。

合流日6月23日朝、F氏と早々に朝食を取り始める。F氏には日本の白米を炊いて頂いた。そして味噌汁、日本酒の準備も。一枚岩でいかないと。あらゆる手段を使ってでも、私は一人でも多くの日本兵の魂を集めて、日本に連れて帰りたいという気持ちで今日は望みます。

朝食を終えた後は、皆で托鉢をするお坊様に食べ物を献上し、お経を詠んで頂きます。私は、今日、無事にコンタクトを取ってきた日本兵と必ず会えますようにと、そして、合流して連れて帰れるようにと念じました。お坊様とお会いすることによって、朝から自身を清めて頂いたような感覚になりました。我々の旅のメンバーも皆、同じようにお坊様にお供えをし、手を合わせていました。

そして、そのあとは、宿泊地の近くの大きなお寺にて、土地神様に改めて、ご挨拶をさせて頂きました。これで私の心の準備は整いましたが、明確に場所は特定されていなかった。ミャンマーとの国境近くにあるというタイ側のスリーパゴダかな?と思いながら、車で国境までの最後の移動となりました。

11:00頃、国境にある有名なお寺に到着するが、やはり、強い存在感は感じられない。うーむ。困ったな・・・と途方に暮れる。気配の跡は感じる場所はあるが、そこには存在しない。仕方ないので、お寺の中にある祭られた木の周囲に作ってきたご飯と味噌汁、日本酒を並べ、たばこを吸い始めた。F氏は般若心経を詠み始め、兵隊の気配を待ったが、私には何も感じることが出来なかった。やはり、ここじゃないよねと思った瞬間、頭の中に泰緬鉄道が改めて出てきた。『しかし、あそこは行きに乗ったしな・・・』と思う私。否定しながらも、頭に浮かぶ泰緬鉄道。私はかなり頭が固くなっていた。『どうしたらいいんだろう』とにかく、ここでは合流は無かった。そう認めるしかなかった。そして、半ば、意気消沈しながら、帰途につくことになった。

車に戻り、ドライバーSさんと妻並びに姪っ子Yちゃんが他にも戦時中の日本兵所縁の場所を探してくれていた。水を買った売店で日本軍が埋蔵金を隠していたと言われる洞窟があると情報を仕入れ、そちらに足を運ぶことになった。しかし、現地についても、特に日本兵の気配は無いですし、小さな橋で使われている鉄骨は戦時中のものに似ていたので、それが少し関係があったかもしれないという眉唾な話で終わる程度だった。

車に戻り、時間的に今夜はカンチャナブリぐらいでもう一泊かそれ以上進めたら、チェンマイに向かって帰ろうかという流れになってきていた。私は、妻に『もう一度、泰緬鉄道に乗りたい。帰りの列車に乗っていいか?』と話していました。しかし、その時点で、起点(帰りの出発地点)となるナムトック駅までの所要時間と時刻表でみた最終の列車時間を照らし合わせてみると、妻にしても、ドライバーさんにしても無理だなと諦めた表情をしていました。F氏もそれは厳しいといった表情をしておられました。というのもgooglemapでもおおよその距離と時間は出るし、何よりもこの地域に何度も来ている経験豊かなドライバーさんも位置的に最終列車出発の時間3:30は厳しいという判断をしていました。私はそれを聞いて、やはりダメなのかなと思いつつも、これが、最後に私が出来ることだなとも思っていました。

  そもそも、私は、コンタクトを取ってきた日本兵は泰緬鉄道に乗っていた。彼は列車の車窓から列車右後方に爆撃を見て、日本に帰れない覚悟をした。祖国にいる両親ともう会えないことを確信していた。

このことがやはり、気になった。彼は列車に乗っていたんだ。そして、私が見ていた映像はブラックアウトして、途切れてしまった。何かあったのか、それとも単なる頭の中にある映像が途絶えただけなのか・・・。

 焦るが、身体が休み始めた。移動を続ける車中での睡眠と準備。

目が覚めると、ドライバーのSさんが前の車を何台も抜き去っていた。そして、反対車線に車を走らせ、対向車は外側の白線を走る光景が目の前に繰り広げられていた。『なんだ、Sさん、やばい・・・。当たるよ。そこまで攻めなくても・・・、日本だと完全な煽りだ・・・。』追い越す時は、車が前方の車に当たるんじゃないかと思うようなかわし方をしながら、どんどん前に進んでいました。体感速度は、ものすごく早く他の車を見れば、一目瞭然で速度オーバーになっていました。

妻もナムトック駅に電話をし、泰緬鉄道の列車を遅らせることが出来ないか電話をしていました。しかし、鉄道会社側は、時刻表通り、列車を発車させますと断られたそうだ。しかし、何かゾーンに入っているような運転をしていました。時間的にギリギリ間に合うかもしれないとドライバーさんは気持ちが切り替わっていたらしいけど、かなり危険な運転であったことには違いなかった。そして、いよいよ起点のナムトック駅に近づいてきた時は、車線からはみ出し、路肩側の白線を出て、車道の無いスペースに車の頭を忍び込ませ、最後の信号を左折した。私は、車から降りて、列車に飛び乗る準備をしていました。そして、F氏のスマホの充電器も私が片付けて、F氏に準備してもらえるように渡しました。

ナムトック駅到着15:27。発車3分前。列車では、私が日本で帰還依頼を受けたMさんが待っておられました。『早く乗らなきゃ!!!!』車から降りて、一目さんに列車に飛び乗った瞬間、『やったー、日本に帰れる!!!!!』と歓喜の声が列車に響いていました。

そう間に合ったのです。6月23日 合流日! 合流する為には、帰り方向の列車に乗らなければならなかったのです。列車に乗り、列車の窓から、妻並びに他のメンバーにも歓喜の御礼を日本兵が述べていました。その声が妻に届いていたのか、いまだに私は聞いていません。列車が動き出すと、再び、『日本に帰れる!!!!』と喜び涙していました。
気が付くと、その車両には乗客1名しか乗っておらず、私のイメージの中では、全ての座席に日本の兵隊がびっしり座っておられるイメージが頭の中に映し出された。『一人じゃなかったんだ。。。こんなにたくさんの‥。』F氏と喜びを分かち合いました。やはり、英霊の依頼活動に失敗は無かった。だけど、心臓に悪いっ!!!! ほっと胸を撫でおろし、今回の依頼主であった日本兵と完璧に合流出来ました。もう、感無量で、私の気持ちをどう表現したらいいのか。ほんとに最後は凄かったです。ノルカソルカというあの感覚。いつまでこの心臓に悪い体験をしなければならないのかわからないけど、今回もうまくいってよかった。F氏、妻、ドライバー、姪っ子Yちゃんとその彼氏のおかげで、最大の目的は達成されました。日本兵は『お母さんお父さん、日本へ帰れます!』とも叫んでいたのが印象的でした。

この後は、F氏と二人だけでカンチャナブリ駅に2時間半の列車旅を満喫しました。なんというか、この体験を共にしているF氏に、私は心強く気持ちを持たせて頂いている。感謝しなければならない。こんな経験をして、話が出来るのはやはり、奇妙な旅に御同行して頂いているF氏がいるからだと思います。ありがとうございます。そして、日本兵の方々も、列車に乗り込んだ我々に感謝しておられました。『皆さん、良かったですね。日本へ帰りましょう!』

ガッツポーズ 心臓に悪い。

帰途に向かう列車の中で、何故行きの列車で合流出来なかったのかを考察してみました。おそらく、行きの列車だと日本とは逆の方向へ向かうので合流するタイミングでは無かったということ。そして、だからこその6月23日に合流日に設定にさていたのかもしれない。もちろん、その日付が何を意味するかわからないし、誰がそう仕向けたのかわかりませんが、先読みされていたのかな、それとも我々は兵隊さんたち、もしくは、何者かの手の平の上で計画通り、動かされていたのかもしれないと感じさせられました。

さて、80年弱ぶりに彼らと一緒に日本に帰るか!と再び自然に笑みがこぼれました。本当によく耐えて、やっと彼らの望む日本への帰国の一歩が叶ったので、心底、我々も喜びました。

14:クワイ橋を超えてカンチャナブリ駅に到着

気が付けば、クワイ橋を再び、帰国に向けて列車が渡っていました。『もうすぐ列車から降りる。そうか。これで本当にこれで終わりなんだな。帰国へ向けて、クワイ橋を渡り、そしてカンチャナブリ駅に帰ってきた。あとはここからチェンマイに向けて移動して、飛行機で日本に帰る。そんな感じにストーリー(計画)が出来ていたんだな。』と思っていました。そして、その計画の中で我々は役目を果たしていたんだなと。

そして、F氏から提案がありました。『今朝炊いたごはんをクワイ川に流しましょう』我々は列車から降車し、白いごはんを炊いた飯盒を持って、クワイ橋を歩き始めました。今思うと、列車に乗るとき、なぜ飯盒のお米を持って列車に乗ったのだろうか。F氏の判断だったのだろうか。その瞬間の出来事までは覚えていませんが、日本にいる時に、確かごはんをたくさん食べたい旨を所望されたような気が致します。日本のコメを炊くためのガスボンベが6月22日に無かったのも彼らの望む帰途へ向けてのごはんを頂く6月23日に用意させる為だったのかもしれない。そう思うと、我々は少しバタバタしすぎたのかもしれない。やはり、見えない世界の配剤は、完璧に思えました。ごはんを川に流すと、たくさんの魚が群れて食べていました。これでまた命を繋いだような気がしました。我々は時間が経つにつれて、いつも後になって旅は完璧なものだったとわかるような気が致します。

飯盒をひっくり返し、白飯を流す。そこにたくさんの魚が群がっていました。

そして、もう一つ、我々F氏と私が列車に乗り込んだ車両の右側の塗装が大きくめくれて、錆のような車体が見えていました。列車の右方向に爆撃を見た映像を思い出しました。きっと、彼はビルマに行くときに爆撃を受けていたのかもしれない。車両の塗装の禿はまったく関係ないですが、写真に写る塗装の禿を見て、そう考えてしまいました。位置関係を想像するに車両の長さと爆撃があったであろう位置にマーキングとして教えてくれているのであれば、死を覚悟した彼の感情が位置関係の把握によってより深く理解出来たような気がしました。。あくまで偶然かもしれませんが。

15:クワイ橋の見えるクワイ川沿いのホテルで宿泊

妻に連絡すると、行きに寄ったセブンイレブンにいるから来てくださいと連絡が取れました。F氏と私以外は、車で一足先にカンチャナブリに到着し、その日の宿泊先を決めてくれていました。F氏曰く、『クワイ橋の見えるホテルを予約しているんではないですか?』と冗談めいた話をしながら、歩いていくと、妻に合流し、やはり、F氏の言ったとおりでクワイ橋を目の前に見えるホテルに宿泊を決めていました。我々は『私の妻らしいな』と笑みを浮かべながら、ホテルに到着しました。すでに車から荷物を下ろし、各自の部屋に運ばれていましたので、各々の部屋に向かい、シャワーを浴びさせてもらいゆっくりさせてもらいました。あとは、川沿いのレストランで夕飯を一緒に食べましょうということで、7時頃に皆揃って食事に向かいました。

ホテルのベランダ。右側にクワイ橋

その晩は、皆がホッとした表情で清々しい気持ちで食事を取り、楽しい時間を過ごさせて頂きました。この時点でチェンマイからスタートして3日目でした。明日6月24日(4日目)にチェンマイに安全運転で帰ることになる。予定通り合流という任務は完了し、5日間チャーターしていた車は一日短くなりましたが、合流出来たのなら、それで何も問題ありませんでした。

思ったより、短かったカンチャナブリでの活動日数2日間。予定はうまくいったと思い、ホテルに戻り楽にさせて頂きました。妻はベランダに出て、夜のライトアップされたクワイ橋を見ながら、ウイスキーを飲んでいました。私は最後の列車で疲れてしまい、ベッドの上でゴロンさせて頂きました。

16:6月24日 チェンマイに向けて帰る

朝起きて、もう一度、チョンカイ軍事墓地にて、今回の旅の報告をしなければならないと思い、帰途に移る前に立ち寄らせて頂きました。墓地の慰霊塔に向かって、日本のお酒をお供えさせて頂きました。戦時中出来なかった我々日本人とこの墓地で眠る方々との友好になればと思うばかりでした。『ありがとうございました。無事うまく出来ました』とご報告をさせて頂き、その場を立ち去りました。

車はカンチャナブリを後にして、チェンマイへ向けて走り出しました。帰りも10時間かけて帰りますが、安全運転で良いので、ゆっくりマイペースでという気持ちになっていました。
昼食は、ドライバーさんがお客さんを連れてくるレストランで、運転手は食事が無料という場所でした。日本でそんな話聞いたことないなと思いながらびっくりしました。タイと日本、いろいろ違いがあるなと思いながら、そんな違いを楽しんでいました。

すると、ドライバーさんが妻に『左に行くと、メーソットに1時間で行くよ』と話しかけました。その瞬間、なぜか私も日本の兵隊さんの気配をメーソット方面に感じました。妻も同じ感覚にとらわれたようで、F氏に相談し、1日早くカンチャナブリが終わったので行きましょうかという話になり、そちらに向かうことになりました。私的には、昨年から、気にしていたタイとミャンマーの国境の町でしたので、急にプランの変更に驚きつつも、日本兵の気配が気になり、意識を向けていました。

結局、道を変更して、メーソットについたのは、夕方5時前ぐらいでした。そして、その町にあるお寺に参拝させて頂きました。そのあと、国境検問所に立ち寄り、ミャンマー側に入国出来ないか確認しましたが、タイ人とミャンマー人だけが往来が出来、その他の外国人は国境を超えることが出来ないということを確認出来ました。

その日は、時間的にも体力的にも疲れていたので、まずは宿探しをして、ロビンソンデパート(大きなショッピングモール)の近くにあるホテルに宿泊を決め、タイすきレストランにて、夕飯を頂きました。そして、明日、6月25日の予定は、午前中に妻を含めた姪っ子と彼氏3人でミャンマー側へ越境し、F氏と私はメーソット タイ側で第二次世界大戦の足跡があれば回りたいと思っていました。その日は、MKの後、軽くショッピングをしてホテルに戻り、就寝となりました。

17:急に訪れた国境の町メーソット 6月25日

起床と共に妻ら3人は、メーソット国境検問所へ行き、越境手続きを申請して、ミャンマーに入って行きました。F氏と私はホテルでゆっくり朝食を取り、ドライバーSさんの帰りを待ちました。その間、F氏の部屋にいて、妻が帰ってくるまでの間、どこに行くか話し合いました。とりあえずは、現地でまだ行っていない有名なお寺を訪問したり、友好橋なる場所へ行こうとしましたが、うまく行くことが出来ず、最終的には行く当てもなく国境検問所の近くの日本語が話せるタイ人経営のラーメン店にも散策しながら行きましょうかということで車を降りました。ドライバーのSさんには駐車場でゆっくりして頂くことにして、我々が歩き始めたのですが、日本の兵隊さんの気配を感じたので、ぐるっと右に旋回して散歩する流れを、左に曲がって散策しましょうかと道を変えました。どこかははっきりわかりませんでしたが、彼らは喜んでいる。日本に帰ることが出来ると騒いでいる。にも関わらず、彼らの位置がうまく掴めなかった。有刺鉄線のようなものが敷かれた国境沿いの通路を歩いているが気配はたくさんあるのに、どうしても合流出来なかった。理由がわからない私は、同行しているF氏に申し訳なかったのですが、そのあたりも何度周回して時間を浪費していました。結局、合流出来ず、諦めざるを得なかった。

右側ミャンマー 左側タイ王国 

その後、日本語が話せる店主のラーメン屋さんに行き、らーめんを頂きながら、妻らを待ちました。食事を終え、店主とも話しましたが、やはり、タイ人以外はミャンマー側に入ることが出来ないそうで、ここでも一縷の望みも絶たれ途方にくれていました。すると、ミャンマー側に行っていた妻から連絡が入り、ラーメン屋で合流し、ドライバー他メンバー全員が昼食をそこで取ることにしました。

妻はミャンマー側で日本兵と合流したそうで、それはそれでよしとしながらも、どうしても先ほど合流出来なかった日本兵たちが気になって、メーソットを発つ前にもう一度、立ち寄りたい旨を話したが、全く話を聞く耳を持たれず、何かこれも糸があるのかなと思いながら、意識を閉じることにした。ひょっとしたら、次の布石が始まっているのかもしれないとも解釈をし始めた。メーソットに到着した夜、私は、この場所からメーホンソンという西北端にある町までの縦線、つまり、タイとミャンマーとの国境ラインが気になり始めていた。戦時中、敗戦が色濃くなってきた頃、多くの日本兵が目立たない山越えをして同盟国であったタイ王国へ逃げてきているはずでした。ですので、今回は、メーソットへの誘導とこのタイ王国を北上する国境沿いの北へ向けてのラインを意識させるものではなかったのかと思いました。言葉は悪いですが、私としては、ついでという言葉は不適切ですが、なんとか一人でも多くの日本兵の御霊を日本へお連れするお手伝いをしたかったのですが、今回の意味をよく考え、納得するように致しました。一つ一つ我々の進む道に起こる出来事には計画があるのだと学んできたことを活かすようにしました。

無事、メーソットからチェンマイに到着。F氏にはホテルでゆっくりして頂き、翌日、帰還兵が建てた慰霊塔へ行くことを決め、その日は各々の場所へ戻りました。ドライバーのSさんには、我々の安全の旅をサポートして頂きたいへん感謝致しました。我々の足となって、笑顔で動いて下さったので非常に助かりました。

18:菊兵団 帰還兵藤田氏が建てた慰霊塔に訪問

6月26日朝、起床して洗濯などカンチャナブリの旅の荷物の整理をしながら、10時くらいにF氏を迎えに行くことになった。すると、今日は、ドライバーSさんの息子さんが大学の授業が無い為、我々の慰霊塔巡りにドライバーとして付き添ってくれることになった。

F氏が滞在しているホテルに到着する前に市場に行き、慰霊塔に添えるお花を調達しました。そして、ホテル前でF氏と合流。そのまま、慰霊塔に向かいました。慰霊塔に着いたのは12時近くでした。そのまま、手分けして、慰霊塔の清掃とお供えものを準備し始めた。なぜかそこでいくつかの兵隊の気配を感じ、この慰霊塔の藤田さんの気配も感じました。彼から具体的な話は無かったが、我々がしている活動に好意を持ってくださっているように感じさせられました。この慰霊碑にあった遺骨は全て別の場所に移されたらしい。私は何気にチェンマイ慰霊祭の運営に携わっている友岡氏に、Facebookメッセンジャーで慰霊塔の清掃の様子の写真をいくつか送らせて頂きました。すると返信があり、夜、食事をご一緒することになりました。F氏がチェンマイ慰霊祭運営に慰霊祭に対する寄付を申し出ておられたので、出来れば、直接、F氏からお渡しして頂いた方がいいかなと思いましたので。

帰還兵 菊兵団藤田氏が建てた慰霊碑

慰霊清掃の後、生前お住まいになっていた帰還兵である藤田氏の家に訪れてみると、その隣で家を借りている男性とお会いすることが出来ました。そこで藤田さんのパスポートがあり、少しだけ見せて頂けたのでびっくり致しました。そして、今でもこの慰霊塔の清掃管理をされている日本人の連絡先をご紹介して頂き、電話をしてみると、御在宅で家にお招き頂いたのでお伺いすることにしました。そこで少しばかり話を聞かせていただき、その後、バーンガード慰霊碑にも立ち寄らせて頂き、水や花をお供えさせていただき、夜の食事に向けて、各々の滞在先で待機することになりました。

19:チェンマイ戦没者慰霊祭実行委員会の友岡氏と食事会

私が藤田氏が建てた慰霊碑の写真を送ったことから、会いませんかという話が持ち上がり、一度はキャンセルになったのですが、再度、調整がつきそうなのでお伺い出来るとのことで、我が家の近くのレストランで食事会をすることに致しました。友岡氏はご夫妻で来られ、慰霊祭のこと、今まで深く聞けなかったお互いのご紹介などをして、一層、親交が深まりました。その中で少し気になったことは、やはり、ピーマーケットと呼ばれるタイ王国国境に近い西北側の村にある心霊スポットの話でした。ピーマーケットとは、幽霊市場と呼ばれる場所で、村の人々はあまり近づきたがらない場所で第二次世界大戦中、敗走してきた多くの日本兵が谷に隠れ死んでいった場所だと噂を聞いていました。私も以前、近くまでは伺ったことがあるのですが、その谷には赴いたことがなく、なんとなく、その話が出てきたことで、やはり、メーソットから北に走る国境ラインに意識が向くようになっていく自分を感じました。すると、姪っ子のYちゃんが、カレン族(山岳民族)の友人が山を歩いていると、よく人の骨が転がっているのを見つけると連絡が来ました。場所はピーマーケットとは違いますが、敗走してきた兵隊がチェンマイに向かって逃げてくるルートとしては同じ線状にあるように思えた。とにかく、今はまだ帰国もしていないですし、正式に依頼があれば伺うが、あえて自分から行くことではないなと心に止める程度にしました。

友岡氏ご夫妻と、長い時間、お話させて頂いた後、一緒に写真撮影をして、次の再会を期待しながら、お開きとなりました。またF氏からは、チェンマイ戦没者慰霊実行委員会にお役立てくださいと、寄付金を直接お渡しになられていました。

F氏にとっては、タイ王国チェンマイの最後の夜となりました。

20:6月27日 チームの解散

朝、F氏をホテルでピックアップし、チェンマイ国際空港へお見送りとなった。長いようであっという間に過ぎたF氏の一週間でした。が、初日のムーンサーン寺(チェンマイで日本兵の野戦病院として使われていた)そしてカンチャナブリでの活動とチェンマイに帰ってきてからの慰霊塔への訪問と毎日、予定が埋まっていた感じの滞在でした。これにて、また、いつお会いするかわかりませんが、無事帰国し、身体を休めて元の生活に戻って頂ければ幸いです。

F氏と空港で別れた後、外食をして、チェンマイの自宅に戻り、妻の実家へ向かう準備をし始めました。が、気が抜けたのか、どっと疲れが出て、床に寝そべってしまいました。そして、そのまま、その日は妻の実家へは行かず、ドライバーSさんの息子に御礼がてら、3人で一緒に食事に行きました。彼は本当にいい子で助かりますし、頼れる男になったなと思いました。今年、大学4回生。次からはもう仕事につけば、あまり面倒はかけられないなという感じです。

21:6月28日 妻の実家へ 

朝早く、妻の実家へ車を走らせました。妻の田舎町に着くと、さっそく、実家へご挨拶に行きました。双子の兄のお兄さん・お母さんを見つけ、挨拶をするととても喜んでくれました。そして、『今日は、家に泊っていくんだろう?』と聞かれたので、『はい』と答えると、とても嬉しそうにしていました。まずは、先日亡くなったお父さんの遺影に手を合わせ、ご挨拶をさせてもらいました。そして、双子の兄の弟さんにもご挨拶を行くと、たいへん嬉しそうでした。

皆さんとご挨拶した後は、親類が営むカフェでお昼を頂きました。皆さん、誰もかれも久しぶりです。仕事があったとはいえ、私も義父のお葬式に参列出来なかったことが悔やまれました。申し訳ないことをしてしまったと思うばかりです。

ただ、私の元気な姿を見て、妻の家族が少しばかり明るくなったのは感じられたので、それが良かったなと感じました。

22: 日本兵からのタイ国民へのメッセージ

昼から知り合い宅に伺い、お話をしていると、妻のお母さんが妻を呼びに来た。なんでも、お坊さんが家に来るので急いて戻りなさいと。妻は寝耳に水で実家に戻ると、お坊様が車でやってきたので、義父の他界でこちらに来られたのだと思いました。

なんでも、このお坊様は、ラジオのパーソナリティーを務められていて、タイ国民の心の疲弊を癒し、元気になってもらえるよう精力的に、あちこちの村を訪問しておられました。そして、ラジオの番組で多くの人々の心をサポートし、生きる勇気を与えているという方でした。タイ人の人々も多くの問題を抱えている人々が存在し、煌びやかに見える活気あるタイ王国の風景の影で、そういった生活苦・家庭の問題を抱える人たちが多数いることにこのお坊様はスポットを当て、寄り添い、問題解決に心血を注いでいるという方でした。

そんなお坊様が妻の実家に来た経緯を後ほど聞いてみると、そのラジオ番組を聴いていた義母が、義父の病症の問題をラジオ番組で、パーソナリティーであるお坊様になんとか回復し、健康を取り戻せないかと相談していたようでした。しかし、献身的にあちこち回っているお坊様は義母の元へ義父が存命中、訪れることが出来ず、義父の他界の知らせを聞いたお坊様が、予定があったイベントの前に妻の実家を訪れたということでした。

さっそく、実家の部屋のお通しして、話が始まって、義父の他界したことについて、存命中に足を運べず申し訳なかったとお坊様が義母に話をしておられました。すると、妻が堰を切ったかのように話だし、タイで命を落とした日本兵の亡霊が我々の元に連絡を取って来て、カンチャナブリへ赴き、日本兵の御霊と共に日本へ帰国していますと私と妻の活動について説明し始めました。

たいそう感銘を受けたお坊様は、日本兵の御霊の為にと慰霊のお経を唱え始めました。すると、若干、年齢層が高い日本兵が反応し始めているのがわかりました。お坊さまが唱えるお経の声には、魂の安らぎを与える誠意・優しさを感じました。この時、『このお坊様は、ほんとに誠実に今されている活動について向かい合っているんだ。だから、こんな人の魂に届く声でお経を唱えられるんだ』と思いました。と同時に、日本兵が私に彼の気持ちを伝え始めました。

『タイの人々の優しさに感謝している。戦時中、たいへん迷惑を被ってしまい申し訳なかった。我々はこれで日本へ戻りますが、タイ国民の幸せを願っています。感謝します。(私どもの為に、お経を読んで下さり)かたじけない』と言ってきたので、それを妻に伝え、お坊様に伝えるようお願いをした。

お坊様は、『良いことをされておられますね』と我々に声を掛けて頂き、『私は、あなた方がしておられること信じることが出来ます』と言い残し、お坊様が使っておられる白い翡翠の数珠を私にかけて下さりました。『これを貴方に差し上げます』

そういって、次の訪問地へ移動されました。実は、他に行くアポイントメントがあったらしく、イベントに参加される予定でした。義父が他界してしまったことに対して、どうしても妻の母に顔を見て謝り、元気になってもらいたかったようでした。そんな流れで我々と出会いました。その夜、彼のラジオ番組で我々夫婦の英霊の依頼活動について取り上げて頂き、話されていました。今では、お坊様と妻は個人的にラインで繋がり、連絡を取り合っているそうです。

その夜は実家の隣に住んでいるカンチャナブリでお世話になっているドライバ-Sさんの家を訪問し、夕飯を頂きながら一緒にお酒を飲みかわしました。この後、妻の実家で宿泊し、これで私はまた日本へ戻ることになります。

23:6月29日 タイ王国での最終日

朝、目が覚め、荷造りをする為にチェンマイの自宅へ戻ることになった。妻の家族全員としっかり御挨拶をして、『また顔を出します』と笑顔を見せて、車に乗り込みました。チェンマイの自宅に戻り、スーツケースに荷物を入れ、夕方、チェンマイ国際空港まで妻のタイの友人に送って頂き、妻とお別れをしました。妻はもうしばらくタイに滞在する予定でしたので。

一人、飛行機に乗り込み5時間半かけて日本へ帰国しました。帰国した後は、帰国した日本兵たちの為に、白いごはん、味噌汁、卵焼きを作って食卓に並べ、頂いてもらえるように椅子をひいて用意しました。この後は、あの世へすぐに行けるように、信頼出来る霊能者(しゅうさん)と呼ばれる方にご相談し、送り届けて頂きました。『いつまでもダラダラとこの世に残っていても仕方ないしね。』

ということで、4年ぶりの英霊の依頼活動は完了致しました。御尽力して下さった皆様、見守ってくださったり、応援して下さった皆様に感謝申し上げます。皆様のおかげで、無事、今回も英霊からの帰還依頼を完遂出来ることが出来、良かったと思います。では、次回へ。

『皆さま、有難う御座います』 2023年7月16日 備忘録完了


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