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記号過程、システム、意味

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人間と自然、人間と機械、人間とAI 対立するふたつのもの それらはなぜ対立するふたつのものになったのか? その答えを「記号過程」という用語を手がかりに考える
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2019年8月の記事一覧

生死、善悪、あらゆる対立を区切る「線」を引く -パウル・クレー『造形思考』より

神話的思考という切り口から人類に普遍的な「頭の働き方」の癖を捉えようとする試み。 そうした試みとして、ユングやレヴィ=ストロースに勝るとも劣らない独自性を発揮するのがパウル・クレーである。 パウル・クレーの『造形思考』日本語訳は、なんと文庫本で、クレーの描いた図像を大量に収録するというたいへんな代物である。 さて、読み始めるとのっけからこれである。 「二元論は二元論として扱われるのではなく、相互に補充しあう統一のなかで考えるべきである。確信はすでにできた。善と悪との同

食べられるものと食べられないもの ー3歳児の偏食を深層意味論で分析してみる

(このnoteは有料に設定していますが、全文無料でお読み頂けます) ※ 3歳半の長男が偏食である。 基本的に「白いもの」しか食べないのである。即ち、白米、パン(の白いところ)、うどん、そうめん、といった類である。 たとえば「うどん」。 麺に出汁の鰹節の小さな破片が張り付いていると、もうこれだけでもうNGである。席を立って逃げてしまう。 小さな破片というと、こども園の給食に鶏肉のソテーに胡麻がかかったものが出た時も「たべない」。困った先生が一緒になって胡麻を一粒一粒

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ものの様式として具現化される表象。その伝承の力強さ。様式の生産を同じパターンで反復することへの一人一人の生きた人の執念、あるいは執念として個人において現象する、言葉による「意味」。意味の憑依と様式の再生産。人類を理解する鍵はここに。『王権誕生』106ページ

『明治の表象空間』21ページ。表象概念の本質を特権的に体現する表象。表象の本質とは、何も表さず、しかしなにかを表していると繰り返し訴える事である。

支配者が居らずとも球技大会があればー読書メモ:スティーブン・ミズン著『渇きの考古学』

 令和元年の東京の夏。連日暑い日が続き、喉が渇く。  我々人類は毎日水を飲む。丸一日水を飲まないだけでも、私達の体調は大きなダメージを受ける。  日本の都市に暮らしていると、水道の蛇口をひねれば安全に飲める水が「湯水のごとく」流れ出す。この恵まれた環境は長い人類の歴史から見れば驚異的なものといえる。 生きるための水 人類は太古から水を飲み続けてきた。  特に、定住し農耕牧畜を行うようになると、自分が飲む以上の大量の水を、同じ土地で、継続的に確保する必要が生じた。狩猟採集

レヴィ=ストロース『月の裏側』 対称の関係。真逆の二つの事柄のあいだに対称の関係を見て取ること。こちらがあちらに見るとの同じものを、あちらはこちらに見る。中身は真逆でも、やっている事は同じ、ということに気づいてしまう試練。それを知的に乗り越えんとするのが詩的神話的知性か。

意識にとってのあからさまな明らかさは、曇り、視界を遮るものであるという反省。「対象が抽象的なのではなくて、それを見る目が抽象的なのである。抽象性とは人間意識の曇りである」井筒俊彦『神秘哲学』

言語、生命、境界−読書メモ:中沢新一『精霊の王』×井筒俊彦『神秘哲学』

 以前書いた、中沢新一氏の『精霊の王』の読書メモnoteを、nurico様の記事でご紹介頂いた(ありがとうございます)。  「侍従成道卿と言えば、比類のない蹴鞠の名人と讃えられ…」  この一節から始まる『精霊の王』は、数ある本の中でも私が特に気に行っている一冊である。今回、nurico様に取り上げて頂いたことをきっかけに、改めて手にとって見る。すると、もう何度読んだかわからないこの本から、また、はたと、新しい気づきを与えられた。  最近ちょうど井筒俊彦先生の『神秘

そして静と動の対立。それも動的に媒介された区別と置換の動きとしての対立。動く対立と、動かない対立。これも人類に可能な思考の、認知の極みのひとつ。

井筒先生『神秘哲学』。あらゆる存在者、と、絶対無との対立。それも区別されつつ媒介された対立。これぞホモ・サピエンスが認知可能なものの、極みではないのか。

井筒先生の『神秘哲学』。「ディオニュソス宗教の祭礼を通じて、感性的物質的世界の外の、「見えざる」真実性の世界の厳存を、親しく認知する」肝になるのは祭礼を通じて、のところ。祭礼的なるものの現在形が、メデイアネットワークでどう生息しているのか。