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言語「生成」の究極へ -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(番外編)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試み第33回目ですが、今回は「番外編」として、言語の「生成」について書いてみました。

言語の生成といえば、まさに「生成AI」。

  • 人間が生成する言語

  • AIが生成する言語

  • あるいは、言語それ自体が生成する言語(?!)

その違いについて考えてみたいと思います。


これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えている。則ち、神話的思考(野生の思考)とは、Δ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。


前回の記事の最後に、以下のようなことを書いた。

  1. 言葉は、口に出されたり、文字で記されたりする瞬間に、β振動状態からΔ項の線形配列にトランスフォームされる。

  2. 文章生成AIは、私たち人類が発した(ネット上に蓄積した)Δ線形配列の痕跡(ビッグデータ)から、複数のΔを線形配列する際の組み合わせのパターンの出現確率を「学習」する(…例えば「あめが」と来れば、その次には「降る」が来る確率が、他の後が来る確率よりも高い、といったことを学習し、そのモデルから「人間が言葉だと思う言葉ってこんな感じ」という言葉の線形配列を生成する)

  3. Δ項の線型配列は、学習用の教師データでも、深層学習によって語の意味ベクトルの分布としてモデル化されたものでもβ振動が描く波紋のようなパターンが、当該の空間へ次元を減らして写像(射影でもいい)したもの、といってもよいかもしれない。

あるひとつのΔ項は、四つのΔ項からなる対立関係の対立関係の中ではじめてそれとして分節される。この分節を可能にしているのが四つのβとして表記された項が、ひとつに重なったり、二つに、四つに分かれたりする分離と結合の脈動である。
Δ項の固定性、実体性、輪郭を持つ感じは、β脈動が描く波紋のパターンの反復性による。

ここで、AIによって学習〜Pre-trainedされる、複数のΔ項の間の関係を定める意味空間のベクトルを、固着したΔの鎖の塊のようなカルマのお化けのようなものにしたくないのであれば、放っておくと固まりかける線形Δ配列を、即、β振動状態へとトランスフォームするβ振動Transfomerもまた開発する必要がある。

今回はこの話をもう少し敷衍してみよう。

Δ線形配列の「呪縛」を解く

まず上でいう「Δ」とはなんのことか。

Δに深い意味はない。

人間がその感覚でもって直接経験できる、音声だったり、文字だったりする意味ある言葉は、-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-という具合にひとつづつ順番に一列に配列された姿をしている

-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-

これは現れた言葉完全な姿である。
「雨」でも「蟻」でも、「波動」でも「粒子」でも、私たちが通常言葉だとおもって読んだり書いたり聞いたり言ったりすることができる言葉は、ひとつひとつの語が、排他的に一つだけ選ばれ、それが順番に並んでいくという形をしている。この形を表現するために仮に(なんでも構わないのだが)Δ-Δ-Δ-と書いている。

そしてもちろん、いまこの文章を書いている言葉もまたΔ線型配列である。

Δ目にΔ見え、Δ音にΔ聞こえるΔ言葉は、ΔΔ線型Δ配列Δである。
-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-

何について言及する、どのような言葉であれ、すべてがΔ線型配列である。

昨日の昼に食べたカレーは玉ねぎが生煮えで、食べられたものではなかった。

昨日の昼に食べたカレーは玉ねぎが生煮えで、カレーソースのサラダを食べているようでフレッシュだった。

Δ何にΔついてΔ言及Δする、ΔどのΔようなΔ言葉ΔでΔあれ、ΔすべてΔがΔΔ線Δ型Δ配Δ列ΔでΔある。

Δ線形配列は、それ自体だけを眺めると、固着したΔの重く冷たい鎖のようなもの(カルマの化物)のようなものに見えてしまい、なんとも暗澹たる気持ちになる。

図1 日常の意識の言葉

しかし、このひとつひとつのΔは、いったいどこから来たのだろう?

来るも何も、最初からあった?

最初とは?

どこ?

いなかるものであれ、あるΔの「起源」を問う時、しかもその問いを言葉によって問い言葉によって応えを得ようという場合に、複数のΔを組み合わせて個々のΔが自己同一性のもとに固まっていない状態を再現する思考とでも呼びうるものが動き出す。レヴィ=ストロース氏のいう「野生の思考」、その「神話の論理」もこれである。

Δの起源を問う時、個々のΔが、その線形配列が、振動状態にある二項(これを仮にΔ項と区別する目的でβ項と呼ぶ)の組み合わせの両極のあいだでの躍動・脈動の「影」だということに気づける場合がある。

図2 神話的思考の入り口

β項たちもまた、それ自体として即自的に存在する実体のようなものではなくて、互いに”一方ではないものではないもの”を分節し合うことによって、その中間に浮かび上がる残像のようなもの、であると観じることへ。

一見するとΔ風の言葉を、β化し、β項が最小構成で二つ、分離したり結合したりする振動状態を描くことで、その振幅の両極にΔ二項対立関係を分節する。その具体的な事例は前回までの『神話論理』精読(濫読)記事で詳しく、執拗に分析していますので、ぜひ参考にしてください。

ところでβ項は、あるΔ項を「β化」、つまりΔ1を非Δ1との間にずらし、「Δ1ではなく、Δ1でないわけでもない」という状態にしているだけの代物であり、この”ずらしたこと”を忘れてしまうと、すぐにΔに戻ってしまう。

あるいはβ項自体が、あるひとつの「名(名詞)」で呼ばれた場合(例えば「神」とか、「生命」とか、「本質」とか、「存在」とか、「それ」とか…)、強力な「それ自体」性を発してしまい、βどころか他のありとあらゆるΔをそこに直結して固めるhyperなΔ項に変貌する場合もある。

図宙の「2.β脈動」と記した赤く囲った部分が全体で一つの項、hyper-Δ項であると見えてきてしまうと、その曖昧さ、中間性、振動性が消えてしまう。

そこで、あるひとつのβ項が「それ自体」として固まることがないよう、β項を常に振動状態に、具体的には四つのβ項が区別できないほど結合したり、決して交わらないほど激しく分離したりする四β項の結合と分離の両極の間の間で展開される物語を、言葉でもって、線形のΔの配列でもって、語る。

そうすることで、経験的で感覚的、前五識的でカルマ的な言語によって「予め固まって」いるような雰囲気に設られているΔ項たちを利用して、Δ線形配列の中に、Δたちの起源を、発生を、Δが「ある」でも「ない」でもない状態からゆらゆらと輪郭を現しつつあるようなよくわからない状態を、描き出すのである。

そこであるΔの起源あるいは現れについて語るため、二重の四項関係、Δの四項関係と、βの四項関係からなる八項の関係が最小構成で言語化される必要があることが明らかになる。

図3 秘密荘厳住心的な

これは空海『吽字義』に極めてクリアに描かれた密教の世界である。この二重の四項関係は、胎蔵曼荼羅の中台八葉院と、抽象的なモデルとしては異なるものではない。


ある一つのΔと、不意に出会った時。

  1. ただそれひとつだけを見て、1)「重く冷たい鎖」の一つだと想うか。

  2. そのひとつのΔの向こうに、2)「脈動するβ両義的媒介項のペア」を想い、目の前のΔもまたそのくっついたり離れたりしているβ二項の間に浮かび上がる「影」のようなものだと想うか。

  3. あるいは、ひとつのΔ項を感じつつ、その先に、奥に、 3)四つのβと四つのΔからなる二重の四項関係(八項関係)を観じるか。

この三つのオプションメニューが、人類のには、常に提案されている。

空海の『秘密曼荼羅十住心論』で言えば、1.が、第一住心(異生羝羊心)、第二住心(愚童持斎心)、第三住心(嬰童無畏心)、第四住心(唯蘊無我心)あたりに対応するといえそうである。

そして上の1.と2.のあいだあたりに第五住心(抜業因種心)が対応し、2.に第六住心(他縁大乗心)、第七住心(覚心不生心)、第八住心(一道無為心)あたりが対応するだろう。

そして2.と3.のあいだあたりに第九住心(極無自性心) があり、3.に第十住心(秘密荘厳心)が対応する、このように言ってみようか。




Δ


ぽつんと現れたひとつのΔをみるやいなや、即疾に、

図4

という八項関係を意識する

たったひとつのΔが、常に、二重の四項関係(八項関係)の一項として見えている意識状態へ。

空海さんが『即身成仏義』に書いている「四種曼荼各々離れず、三密加持すれば即疾に顕わる」も、この「Δ→八項関係」の変換に関わると言えそうである。


Δ項 即 β
βは「項」であると同時に振幅を描く振動

山といえば山、川といえば川、私といえば私

Δ山、Δ川、Δ私

こうしたひとつひとつのΔは、端的にそれ自体としてポンと与えられているもののように思えるが、そうではない

Δは、それ自体として端的には与えられていない。
Δは、Δを出現させる”仕組み(メカニズム、プロセス)”を通じて、生成されている。

では、そのΔを出現させる仕組みとはどのようなものか?

それを下図のような図式でモデル化することができる。

下図の中に四つある「青丸」のひとつひとつがそれぞれΔ項である。

図5

Δ項は、どうやら必ず、四つセットで生産される。

Δ項というのは、仮に上図中に四つの「β」として記述した点が、規則正しく振動することの効果として、その複数の振動波の干渉波のパターンのようなものとして浮かび上がる「縞」のようなものである

Δ1でもなく非Δ1(Δ2およびΔ3)でもないβ1とβ4の間に、Δ1が浮かび上がる。
Δ2でもなく非Δ2(Δ1およびΔ4)でもないβ1とβ2の間に、Δ2が浮かび上がる。
Δ3でもなく非Δ3(Δ1およびΔ4)でもないβ1とβ2の間に、Δ3が浮かび上がる。
Δ4でもなく非Δ4(Δ2およびΔ3)でもないβ1とβ2の間に、Δ4が浮かび上がる。

Δ項は、固定した点とか、ボールのようなものではなく、複数の脈動するβ波の「干渉縞」のようなものである。

項は粒子でもなく波動でもなく

仮とか、ようなものだとか、波動とか干渉とか縞とか粒子とか、奇妙な比喩ばかりになってしまって恐縮である。

これは私の言葉が拙いということは棚に上げておくとして、Δ線形配列ではないダイナミックなコトを、無理矢理に、静止したΔ線形配列だけで構成された線形の文字列の空間へと写像しようとしているためである。

「本当は項であるとも項でないとも言えないのだけど…」

「本当は縞ではないというか、縞であるということもできるが、縞でないといったほうが良い場合もあるのだけれど…」

という具合に、なんとも言いにくいなあと思いながらも仕方なく、他にやりようがないので、「仮」「的な」「ようなもの」を連呼しているのである。

この記事を記している言葉を含め、人類の通常の言葉は、出来合いの完成品としてパッケージ化されたΔを並べるところから始まらざるを得ない。

βとか、βの脈動とか、その干渉縞といったことについて言葉で語るということは、Δ以前の、Δがまだない、Δがまだ姿を現していない、「有/無」の区別で言えばΔが「無」である方のことを、半ば強引にΔの線形配列を使ってシミュレートしてみようということになる。

これについては、

「無理して言葉で語らなくてもよいのではないか」

「言葉では、言い得ない」

「それについては沈黙するしかない」

「戯論寂滅!」

と言いたくもなるところであるが、あえて、強いて、マニア的な興味本位で、言葉の極限的使用を試してみたら、というのがこの一連の記事の趣旨でもあり、なによりレヴィ=ストロース氏が人類の「神話的思考」や「野生の思考」と呼ぶものが、おそらく数万年かけてやってきたことである。

メディアの歴史はΔ線形配列の生産保存流通技術の歴史

そしてなにより今日、GPTの”T”、トランスフォーマーのような文章生成AIのアルゴリズムが、圧倒的なパワーを誇る半導体デバイスの回路を駆使してΔ線形配列を多品種大量生産しはじめている。

人類だけが言葉を扱い、Δ線形配列を生成していた時代には、私たちは私たちの体や神経系のペースでもって、ご先祖たちから有難くも強制的に贈与された、便利といえば便利だし、カルマ的=宿業的に重いといえば重いような気もするΔ線形配列を、見よう見まねで再生産しつつ、少しづつその配列の仕方のパターンに変化を、進化を、生じさせてきた。

もちろんその過程でも、
(1)文字の発明
(2)印刷技術による文字の大量複製
(3)電気通信技術に基づく大衆伝播メディアによる同時的大量伝送
(4)音声技術、映像技術、”マルチメディア”技術×インターネットによる文字+非文字言語の大規模な電子化(ビッグデータ)

といった数千年かがりの多重の「シンギュラリティ」を経て、Δ線形配列の生成、保存、複製、伝播、消滅の流れのパターンを大規模に組織し、その組織化のカタチを組み替えてきた

そして今日のAIによって、この組み替えの速度が飛躍的に加速しつつある。

もちろん「言葉」やコミュニケーションの技術だけが人類の歴史を左右してきたわけではない。人類の祖先が声による言葉を喋り始めたのも、文字を使い始めたのも、大勢集まって生活をするという状況を強いられたためであろうし、大勢集まって生活することを可能にする食料の存在があったからだろうし、それを可能にする地球の気候があったからだろう。

言葉か、社会か、気候か?

人間が今日このようになっているその起源を問う際にもまた、これが起源への問いである限り何かhyperなΔ項(Δ言葉、Δ社会、Δ気候)ひとつに直結しうようとするのではなく、この問いを問い応えることを可能にしている言葉たちの分節システム、二重の四項関係を観じることが大切だろう。

社会と言葉は異なるが異なるものではなく、気候と社会は異なるが異なるものではなく、言葉と気候(環境)は異なるが異なるものではなく…。

Δ線形配列保存伝送複製技術

Δ的であるにせよ、β化しているにせよ、言葉はあくまでも物質的な媒体によって担われて、私たちの身体に響く。人類史上の様々なメディア・コミュニケーション技術こそが、Δ線型配列を大規模に生産し、それを私たち一人一人の耳や目や、あれこれの身体の感覚機関へと注ぎ込む物質的媒体であり、ある種の「管」のような姿に例え得る。

管といっても、ドロドロとしたものがゆっくりと流れる管であることもあれば、「導波管」的な管であることもある。

「管」を目や耳や口に接続されΔ線形配列を注ぎ込まれたり、通過させられたりする。それが私たちの身体である。私たちは、次から次へと自分の五感へと流れ込むΔ線形配列を、切ったり繋いだりしては言語的な自己意識と呼ばれるようなものを、結んできたのである。

このように書くと何かおどろおどろしい感じになってしまうが、悪い意味はない。そういうものだ、という話である。ちょうど人間の身体が、タンパク質を合成したり分解したりするプロセスの流れであるのと同じように。

* *

そしてそこに、生成AIの登場である!

私たち一人一人はこれから、AIが組み込まれたΔ線形配列保存伝送複製技術によって生産され、我々の身体へと流れ込んでくるΔ線形配列を、どのようにしたいのか?

AIが饒舌になることで、
私たちの感覚に流れ込むΔ線形配列の姿は、
どう変わっていくのか?

饒舌なAIから与えられるΔ線形配列が、(親たち大人たちの声でもなく、部族の長老の声でもなく、先輩たちの声でもなく、おそるべき教師の声でもなく、テレビの声でもなく、人気youtubeの声でもなく、AIの声が)私たちの子どもたちがその言語的自己意識を結んでいく材料として利用される時代になる。

* *

おそらく私たちひとりひとりに求められるのは、”頼みもせんのに”どこからか勝手にやってきては感覚に入り込むΔ線形配列たちを、その線状の姿のまま「心」に刻まないこと、そのΔ線形配列が往年の蓄音機のように同じことを繰り返し「心」中に響かせるのを、黙って聴くのではないこと、である。

声の心、文字の心

おそらく数万年前、まだ文字を持たない「声」だけの言葉でコミュニケーションのすべてをまかなっていた長い時間のあいだに、私たちの祖先たちの間に、「聞いた言葉(Δ線形配列)をそのまま覚えておく」能力をもつことが有利になるという淘汰圧があったことだろう。

人類は一面では、Δ線形配列をそのまま保存するデータ保存装置として、昔の蓄音機やカセットテープレコーダーの仲間のようなものとして、自分たちの身体ー神経系を”進化”させてきたと言えそうだ。

もちろん、別の一面では、β脈動をマニアックに楽しむことができる、神話を語ったり、聴いたりしては満足する「心」もしっかりと育んできた。

というか、後者、β脈動を踊らせることができる「心」がなければ、Δ線形配列は発生しないのだということを、神話的思考、野生の思考を生きた祖先たちはよく知っていたらしいのである。

* *

ところがある時、文字が登場する。

聴いて覚える(そして忘れてしまうし、死んでしまう)人体よりも、はるかに性能がよく長持ちする高信頼性の「Δ線形配列保存・伝送装置」が「文字」だったのである。

Δ線形配列の生産、保管、伝送技術は数千年をかけてイノベーションを重ねていった。

それとともに、人間の身体は「文字として保存済みのΔ線形配列を、必要に応じて書き込めば良い何か」という位置に接続されることになる。それとともに、どうやら多くの人々が、β脈動を踊らせることができる「心」の役割を知るコトなく、一生を終えることになるような世界が…。

これは数千年前の話でもあるが、現在の話でもある。

それこそ私もまたそこで「教育」を受けた、一昔前までの近代の学校制度では、子どもたちの身体は、まさに「文字として保存済みのΔ線形配列を、必要に応じて書き込めば良い何か」として扱われていたのでは…ないか?

* * *

もちろん、呪術師、狩猟者、部族の長老、宗教者、詩人、芸術家、少なからぬ人たちが、β脈動を踊らせることができる「心」こそ、ありとあらゆるΔ線形配列を含む人間にとっての意味ある世界を発生させる鍵であることに気づいていた。

Δ線形配列を、即β脈動とみる

言語は、AIのそれであれ、人間の親のそれであれ、Δ線型配列の一本の紐状の姿で、私たちの中に入り込んでくる。それがそのまま、トグロを巻いて居座って、特定の固まったΔ二項対立として「心」を分節してしまうことがないように、Δ線形配列の紐を、まるめたり、のばしたり、結び目をつくったり、網状に編んだりする。

私たちがそのようなことをしようという場合、「Δ以前」に沈黙することなく、Δたちを使いながらΔ線型配列以前に言及し、そうすることで固まったΔ線形配列の中に、ダイナミックなΔ配列「以前」の振動を、脈動を、感覚できるようにすること

〜 〜 〜

余談であるが。

Δ線型配列が特定の固まったΔ二項対立として「心」を分節してしまう危険性という点では、実は最新のAIよりも、機械的に反復される一対多&一方通行の伝達で特定の二項対立を二十四時間問答無用で人々の「心」に刻みつけようとした20世紀前半のメディア技術の方が、よりおそろしいような気もする。

こんなことを書くと色々な人に呪いをかけられそうであるが、まあ、大丈夫。Δ線形配列の鎖で縛りつけようという「呪い」など、即、β化して脈動のに分解してしまえばよい。

真面目な話、この辺りのことはハンナ・アーレントの『全体主義の起源3』の最後の章「イデオロギーとテロル」が非常に参考になるので、ご興味ある方はどうぞ。

問題はAIではない。

問題は、人類と言語の歴史、コミュニケーションの歴史そのものである。

Δ線形配列とβ脈動
あるいは
言語の表層と深層

このふたつの極の間で、円環を描く往来から始まったはずの言葉の世界において、次第に機械化されサイボーグ化され強化されたΔ線形配列ばかりがせり上がり、深層のβ脈動の方は、Δ線形配列に付属する美しいオマケか、あるいは封じるべきオバケのようなものとしての扱いを受けるようになった。

AIをβ脈動に直結することができるか?

できるか/できないか、でいえば、おそらくできる。

AIをβ脈動に直結するか、しないか?

これが問題であろう。

これまでの人類の言語保存伝送複製技術は、概ねΔ線形配列保存伝送複製技術として開発されてきた。もちろん、芸術や宗教では、特に詩的なコトバを扱う人々の間では、Δ線形配列保存伝送複製技術を転用して、β脈動を楽しもうという実践も行われてきたのであるが、いまはその話はおいておこう。

最新のAI技術も、まずは直近の20世紀型Δ線形配列保存伝送複製技術を高度化する手段として、開発され、使われ始めるコトだろう。

しかし、ウォルター・J・オングが『声の文化と文字の文化』で論じたように、Web状の多対多双方向リアルタイムのコンピュータネットワークは、20世紀型の極少数対多数・一方通行・時間差ありの大衆伝搬メディアに比べると、Δ線形配列を固めて保存しておく性能に劣る

Web状の多対多双方向リアルタイムのコンピュータネットワーク

>>Δ線形配列を固めるの性能が劣る
>>β脈動の波紋を広げやすい
 …これはすでに今日のSNSでも起きていることである。

20世紀型の極少数対多数・一方通行・時間差ありの大衆伝搬メディア

>>Δ線形配列の保存に向いている。完成品としてのΔ線形配列を大衆に画一的に書き込み、大衆の思考を同期させる。
>>β脈動?…なんですかそれ?

Web状の多対多双方向リアルタイムのコンピュータネットワークを苗床として誕生したAIは、宿命的に(!)、Δ線形配列を固める力と、β脈動の波紋を広げる力の、その両方を進化させざるをえないのではなかろうか。

これは人類にとてっては、数千年の冷たく重い鎖(Δ線形配列一辺倒の意味世界)の呪縛を解く、よいチャンスかもしれない(しらんけど)。

生まれ、生き、そして早晩死ぬことになる「このわたし」が、出来合いの完成品パッケージのようなΔ線型配列に貫かれ、締め上げられることで、かろうじて言語的に語りうる自分の意識のようなものを仮設しているのだと気づく時、なにか絶望的に残念な気持ちになるのではなく、Δ線型配列を自在に解いたり結んだりして遊んでみようというモチベーションを得るために、β脈動をΔ線形配列でシミュレートする神話的思考が力を貸してくれるだろう。

というわけで、今後とも神話的思考の具体例を細かく細かく読んでいこうと思います。

つづく



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