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hyper-Δ項プレヤデス -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(21)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試み第21回目です。

これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。


前回の記事では、ワニの背に乗って水界を渡ろうとする主人公が、言葉のトラブルでワニに追われるはめになり、追いつかれてはやり過ごしまた追いつかれてはやり過ごす、追う者と追われる者が分離と結合を繰り返す、という因幡の白兎風の神話を取り上げたました。

(前回の記事はこちら↓)

二が一になり一が二になる動き。この二極が分離と結合のあいだで脈動することから、私たち人類がその日常において経験的に出会うことになるあれこれの事物がはじまる=起源する。そう考えるのが神話の思考です。


神話の思考の図式

これを図に表したものが下記図1である。
”私たち人類がその日常において経験的に出会うことになるあれこれの事物”は下図でいえばΔ項である。

図1

また”二極が分離と結合のあいだで脈動すること”を表すのが下図でいえばβ項たちの結合と分離の間で振幅を描く動きである。

レヴィ=ストロース氏がその姿を捉えようとしている”神話の論理”とは、図1でいえばΔ項の組み合わせによってβ項を定義する技術といえるのではないか、というのが本記事のシリーズで考えていることである。

◇ ◇

Δ項は必ず最小構成で四つがセットになる。
またβ項目も必ず最小構成で四つがセットになる。

しかし、私たちの経験する日常的な感覚の世界には、そういつもいつも、ものごとがわかりやすい「四つ」セットで登場するとは限ら無い。パッと見ると一つ足りなかったりすることがある。

しかし神話は、八項関係である。項は八つ必要になる。いや、必要というか、何らかの項が収まることのできる場が八つ同時に一挙に分節したところで神話の論理が動き出す。

感覚的にパッと見て、八項関係の八つの極に充当できそうな項に不足がある場合、神話はどうするのだろうか?

今回はこのようなお話である。


プレヤデス、二つの季節のペア

AIが描いた「プレヤデス」

経験的に身体でもって感覚できる対立。
そのなかでも地球的スケールで壮大なものが冬と夏の二つの季節の対立、さらには宇宙的スケールで天体の見え方の規則的な変化に起因する対立である。『神話論理1 生のものと火を通したもの』341ページに掲載されている、神話M131aをみてみよう。

かつて人々には大きな木をつたって空にのぼる習慣があった。
空には、蜂蜜と、魚が、ふんだんにあった。
(→未分離)

* *

ある日、人々が空から地上へ降りてくると(→分離)、

木の根元で、ひとりの老婆にであった(→結合)。
老婆は人々が空から持って降りてきた蜂蜜と魚を
少し分けてくれるよう頼んだ(→結合)

しかし、人々は断った
。(→分離)
怒った老婆は木に火をつけて燃やしてしまった。(→分離)

まだ空に残っていた人々は星に変身し、プレヤデス星団になった

M131a クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.341

のっけから「かつて人々には大きな木をつたって空にのぼる習慣があった」とは、なんのこっちゃと思われるかもしれないが、これは要するにΔ項を使ってβ項について記述しようとしている

通常私たちが日常的に経験できる「人々」は、たいがい地上に住んでいる。
人間の通常の住処「地上」に対立するのが「空」である。

Δ1空 / Δ2地上
||
Δ3( ) / Δ4人間

地上と空の対立と、人間と超(非)-人間の対立が上のようにセットになって、通常の意味分節「人間とは地上に生きるものである(人間は空を飛ぶものではない)」がなされる。

これに対して神話では「かつて」つまり、現在”ではない”むかしむかしの時間において、人々は地上と空の間を自由自在に行き来していたとする。こうすることで何が起きるかといえば、上の二項対立関係の対立関係が崩れるのである。

Δ1空      /     Δ2地上
<<βx人間>>

人間が、地上のものでもあり天空のものでもある、という具合に二つの領域、二つの世界に属することになる。こうすることで人間が「地上のものでもあり、非-地上のものでもある」という矛盾した存在になる。Δ項からなる関係における矛盾としてβ項の姿を浮かび上がらせる。これが神話の論理の肝ということになる。

β項が振幅を描いて動く

このβ項が、振幅を描きながら動き回る。特に、二つのβ項目が追いついたり引き離したりの追いかけっこをするような動きを見せる。この振れ幅を描く動きの両極にΔ項たちが発生する

これが神話の結末へと向かう筋書きである。

M131aを詳しくみてみよう。

まず、天にいた人々のうちの一部=部分=切り分けられた部分が、地上に降りてくる。つまり空に残っている仲間たちから「分離」する。
空にいる人々と、地上に降りた人々との間の分離が生じる。

この分離の後に、ふたつの結合が生じる。
まず、空から降りてきた人と老婆の遭遇。これが第一の結合である。
そして老婆が食べ物を分けてくれるよう依頼する言葉によるコミュニケーションがある。これが第二の結合。

しかし、この二つの結合はすぐに分離する。
食べ物を分ける依頼は断られる。
そして老婆は怒り、あろうことか神話の冒頭に登場した天地を結合していた「木」を燃やして無くしてしまう

こうして天地が分離される。

この筋書きは神話の王道であるといえよう。

ここで注目したいのは「プレヤデス」である。

AIが描いた「プレヤデス」

唐突に登場するプレヤデス。これはなにか?

Δ1空 / Δ2地上
||
Δ3( ) / Δ4人間

この場合のプレヤデスは、上の四項関係におけるΔ3、( )と表記した空っぽの場所に充当される項である。天地が分離し、「地上の人間」の起源が説明された、というところまではよい。

問題は天空に残った人々である

ここで「天空には相変わらず人間がいますよ。地上に取り残されたのは一部なので」とやってしまったのでは、人間はひきつづきβ項のままでもあり続けることになる。

しかし、下記の四項関係の分離が完了する時、β項は完全にその姿を消さなければならない。

Δ1空 / Δ2地上
||
Δ3( ) / Δ4人間

Δの四項関係のなかに、β項が占めることのできる位置はないのである。

そこで天空に残った人々は、何らかのΔ項に変身させられることになる。

経験的に天空にあることを感覚できるもので地上の人々のように集団をつくって移動している何か…。それがプレヤデス星団なのである。

ちなみに、ここでΔ3()に充当されるものは、必ずしもプレヤデスである必要はない

プレヤデスだけがこの四項関係のこの角におさまる資格や特性を備えているわけではない。”地上の人々と異なりながらも似ているもので空にあることを容易に感覚できるもの”であれば、プレヤデスである必要はなく、なんでもいい。例えば他の「星」でも「」でもよいのである。

M132を見てみよう。

7人の少年が木陰で遊び踊っていた。
(→未分離)
* *

空腹になり、ひとりがパンを取りに行ったが、老婆に追い返される
子供たちはまた踊り始めたが、やはり空腹で、別の子が食べ物をもらいに行ったが、また老婆に追い返される
(→ 結合〜分離)

子供たちは太鼓を作り、踊り始め空高く踊りながら舞い上がり、高く昇っていった。(→分離)

老婆は手元の食べ物をもってかけつけた。(→分離〜結合)
彼女は食べ物を与えるつもりだったのだが、子供たちは耳を貸さなかった。
(→分離)

子供たちは星になった
(→β項を切断し、Δ項に圧縮)

M132 クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』

まず、7人の少年が木の下で遊んでいる。
少年というのは「大人/子供」の対立に対する両義的な項(β項)である。この両義的β項である少年たちが、木陰をつくりだすほどの大きさの木という、暗に天地の媒介を象徴するもの(β項)と結合している。

これが神話の始まりの風景である。

この媒介された結合状態から、分離が始まる。食べ物をもらいに行くが断られるのである。
食べ物を分け与える・共有するというのは「結合」の代表例のようなイベントであるが、これが断られる。つまり結合に失敗する。しかもこの失敗が二度繰り返される。Δ四項関係の発生には、分離は最小でも2回、できれば3回、描かれる必要がある。

  • 1回目の分離: Δ1/Δ2

  • 2回目の分離: Δ3/Δ4

  • 3回目の分離: (Δ1/Δ2) / (Δ3/Δ3)

分離の結果、少年たちは地上を永遠に離れ、空に昇り、そして「星」になった。

この場合の「星」も、さきほどのプレヤデスと同様に、経験的に天空にあることを感覚できるもので地上の人々のように集団をつくって移動している何か、であり、”地上の人々と異なりながらも似ているもので空にあることを容易に感覚できるもの”である。

対立していれば、二項はどちらがどちらでもよい

さて、ここで注目したいのは、先ほどのM131aと比べM132では「老婆」の役割が逆になっていることである!

M131aの老婆は、食べ物をねだる側であった。
対して、M132の老婆は、食べ物を要求され、その要求を断る側である。
同じ(ではないのだが、仮に)「老婆」という項が、ある神話では「依頼を断られる側」に配置され、よく似た別の神話では「依頼を断る側」に配置される。

「老婆」という項それ自体に、”与える者性”とか、逆に”吝嗇性”とか、何らかの本性が本質的に他とは無関係に老婆自体の自性において備わっているわけではない

老婆 / 老婆と対峙する者(言葉でコミュニケーションする相手方)
×
依頼して断られる者 / 依頼を断る者
それとも
依頼を断る者 / 依頼して断られる者

二つの二項対立関係が重なるのであるが、その重なる向きはどちらでもよいのである。

なぜなら二項対立関係にある二項は、それぞれそれ自体の本質によって存在して後から集まって対立関係を組んだものではなく、あくまでも互いに「他方-ではないもの」として両義的媒介項の動く振幅の両極に、その影の輪郭を浮かび上がらせるものであるから。

* * *

神話の論理では、八項の関係が一挙に分節する。

図1ふたたび

項は関係に先行するものではない。関係に先行してそれ自体として決定的に固まったいかなる項も存在しない。そうであるからして、どれか一つの項が他の項に先行して、後に続く項たちを定義する、といったことはなく、一挙に八項がたがいにたがいではないものとして区別しあい対立し合い、それぞれの輪郭をあらわす。

そこでは個々の項が”それ自体として”何であるか、といったことはあまり重要ではなく(もちろん経験的に、他と区別されやすいということは外せない)、二項が対立し、その対立がさらに別の二項対立と、対立している、ということが重要である。この際、二項対立が”どちら向き”で対立関係に入るかは”どちらでも”よい。

魚の俎上とプレヤデス

プレヤデスが分節されてくる別の神話を見てみよう。M134である。

ある男が兄の妻をものにしたがっていた。(→過度の結合)
そして兄を殺しその腕を切り落とし(→分離)、その妻に見せた。

彼女は夫を殺した男と、そうとは知らず再婚した。(→過度の結合)
が、夫の幽霊の訴えですぐに真実を知る。
彼女は夫を殺した男を拒絶した。(→分離)

男は兄嫁とその子供を洞窟に閉じ込めて殺した。(→分離)

その晩、男のもとに幽霊になった兄があらわれて、おまえの罪を恨んではいないといい、妻と息子は動物に変身し、もう安全であると言った。そして兄の幽霊は、自分のために墓を作り、残した身体のうち、内臓をばらまいて、体だけを墓に葬ってくれるなら、ありあまる魚を約束すると言った。

男が兄の幽霊の言う通りにすると、兄の内臓が空にのぼり、プレヤデス星団になった。

こうして毎年、プレヤデス星団の見えるころには、川に大量の魚がやってくるようになった。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.344

なんとも不思議な神話らしい神話だと思う。
兄嫁を奪ったり、兄の腕を切り落としたり、洞窟に閉じ込めたり、それを許されたかと思うと、今度は「内臓をばら撒く」よう頼まれ、言う通りにすると褒美の魚がもらえる。人生の指針には全くなりそうもない神話であるが、それもそのはず、ここに登場しているのは表の人生をびっしりと埋め尽くすΔ項たちではなく、β項たちなのである。

字面=Δ項を追っても何のことだか意味不明という印象を受けるが、八項関係の図を片手にβ項を集めながら眺めると、実によくできて神話だとわかる。

まず兄嫁と結合しようとする弟。
兄弟のΔ区別、夫婦のΔ区別をショートさせてしまう所業であるが、これによって経験的には区別されるべきΔ両極がひとつに重なった両義的媒介項(上の図ではβ項)が二つ出来上がる。「兄嫁と結ばれた弟」β1と、「夫の弟と結ばれた女性」β2である。

β項同士の強烈な結合は、すぐに激しい分離を引き起こす。β2はβ1との結合を拒絶し、分離し、岩穴に閉じ込められ、分離を決定づけられる。

β項の二項対立関係にある両極は結合すれば分離に向かい、分離すれば結合に向かう。結合から分離へ分離から結合へ、そしてまた分離へと、激しく振れ幅を描きながら脈動する。

死んだのに姿を現して饒舌に喋る兄の幽霊もまた生/死の区別を超えたβ項である(β3)。β3幽霊兄の登場により、β1とβ2の間の分離が決定的になる。

幽霊兄β3は、弟と結ばれた自分の妻β2動物に変身し、安全なところに逃げたことを告げる。どこかで平和にくらす動物。それはΔ項であり、β項ではない。β2はここに消滅することになる。

さらに幽霊兄β3は弟に対し「おまえの罪を恨んでいない。残された自分の体から内臓を取り出して、ばら撒いて、残った部分だだけを墓に埋葬してくれ」と頼む。ここで、未だ埋葬されていない殺され腕を切り落とされた兄の骸もまた人界と死者の世界との中間に宙ぶらりんになったβ項であるといえそうである(β4)。このβ4をあらためて「内臓」と「非-内臓」に分離する神話の冒頭では、分節に対する無分節に相当する登場したばかりの兄は、腕を切り落とされることによって二つのβ項に分離したが(幽霊としての存在β3と、残された骸β4)、今度は「ばら撒かれた内臓」と「埋葬された体」という二つのΔ項へと分離する。

β4(残された体)
↓     ↓
墓に葬られた体(Δ1)/ ばら撒かれた内臓(Δ2)

この後者、Δ2が、プレヤデスに変身する

このΔ1とΔ2の対立に、魚が川を遡る季節Δ3と、そうでない季節Δ4との対立が重なる。ここにΔの四項関係が分節する。

墓に葬られた体Δ1 / プレヤデスΔ2
||
非-魚が川を遡る季節Δ4 / 魚が川を遡る季節Δ3

この二つの対立は唐突に結合するようにも見えるが、”プレヤデス星団の見えるころに、川に大量の魚がやってくる”という経験的事実によって、プレヤデス星団と魚の俎上は結合する。

これに関連して、レヴィ=ストロース氏は次のように書く。

「世界中にオリオン座とプレヤデス星団の相関と対立の関係があると、わたしは信じている。[…]オリオン座とプレヤデス星団をひとまとめにすると、通時的に、現前と不在という語で定義できる。そして両者が同時に見えている期間には、互いに対立しー今度は共時的にーしっかりと分節された体系と分節されていない集合、あるいはこう言ってよければ、領野の明確な区割りと領野にある雑然としたかたちとになる。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』 pp.321-322

通時的には、現前 / 不在 の対立に。
共時的には、分節されていること / 分節されていないこと の対立に。
プレヤデス / 非-プレヤデスの対立が重なり合う。

分節されていることと分節されていないこと、現前と不在とは、経験的な二項対立関係の中でも極めて抽象度が高い、そこに他のありとあらゆる諸項の二項対立関係をそこにどちら向きにでも重ねることができる二項対立である。

レヴィ=ストロース氏は続ける。

オリオン座とプレヤデス星団の対は、季節の交代に経験的に結びついており、さまざまな地方とさまざまな社会が、季節の交代をさまざまに概念化する。夏と冬、乾季と雨季、安定した天候と不安定な天候、仕事と暇、豊穣と食糧難、肉食と菜食など。対立の形式のみが不変である。しかし[…]形式に与える内容は集団によって異なり、半球から半球へと移ると異なる。半球が異なる場合には、対立の内容が同じであっても、オリオン座とプレヤデス星団に共通する機能が当然逆転する。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』 p.322

プレヤデス星団 / 非(反)-プレヤデスとしてのオリオン座

この対立に、次のような対立が重なる。

夏 / 冬
乾季 / 雨季
安定した天候 / 不安定な天候
仕事 / 暇
豊穣 / 食糧難
肉食 / 菜食

この対立の向きは、どちらでもよい。
つまり第二の二項対立のどちら側の極がプレヤデス側に結合するか、どちらでもかまわない。「対立の形式のみが不変」で「形式に与える内容が集団によって異なる」「対立の内容が同じであっても…逆転する」というのはこのことである。

「神話の真理はただひとつの特権的な内容にあるのではない」

ここで神話の論理を理解する上で重要な話が出てくる。
神話の真理はただひとつの特権的な内容にあるのではない」という一節である。

「神話に天文学的な意味を認めたからといって[…]天文学的コンテクストは絶対的準拠にはならない。天文学に関連づけて、それで神話を解釈できたというつもりはない。神話の真理はただひとつの特権的な内容にあるのではない内容を欠いた論理的関係にある。より正確に言うと、操作的価値は、内容を欠いた論理的関係のもつ不変の特性に尽きる同じような関係が、多数の異なる内容にあるさまざまな要素のあいだに成立しているからである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』 p.339

神話の真理は、「特権的な内容」、つまり特定の項や、特定の二項対立関係にあるのではなく、「内容を欠いた論理的関係にある」という。

内容を欠いた論理的関係の「不変の特性」こそが神話の核心であり、「同じような関係(つまり不変の特性)」が「多数の異なる内容」の諸要素間に成立する。

この間、わたしが『神話論理』を読むための補助線として使っている八項関係の図もまた、この「内容を欠いた論理的関係」を捉えようとしたものである。

「(プレヤデスが登場する神話の)語彙は、一年の通時的な周期性と、星空の共時的構成とからなる、空間的時間的集合から抽出した、対立する項の対で形づくられている」とレヴィ=ストロース氏は書く。

対立する項の、その「対」としての四項関係の分節を言語化するために、周期的対立と、共時的構成における区別が選ばれる。

ここでレヴィ=ストロース氏は次のようにも書く。

「神話の統辞法は地理的および技術的下部構造の制約を受けている。形式というただ一つの観点から神話を検討するだけならば、理論的には可能な操作であっても、そのいくつかは決定的に排除されるのであり、その抜けた穴が[…]構造の中で構造の輪郭を陰画のようにして描かれている。さまざまな操作からなる現実の体系を再現するためには、その構造を別の構造に統合するほかないのである。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』 p.346

地理的、技術的下部構造というのは、つまり日常の経験、感覚可能な経験的事実の可能なあり方である。例えば、夏と冬の対立と、雨と雪の対立、この二つの対立をどちらむきで重ねても良いということにはなりにくい(つまりΔ四項の分節において”夏に雪が降る”ということは言いにくい。逆に、夏に雪が降らないからこそ、「真夏の雪」のようなことが言えるとすれば、それこそ両義的媒介項になる。)

これは対立を重ねる向きの例であるが、さらにややこしいのは経験的に存在を知覚できるある項について、その”ぴったりの対立項が経験的に見つかりにくい”場合である。

からっぽの極に経験的な何を充当するか?

こうなると神話の二重の四項関係には、経験的な事柄で充当されない、からっぽの極が分節されてしまう。「抜けた穴」だけが残ることになる。

一方が「抜けた穴」にならざるを得ない二項対立関係とは、「分節している/分節していない」「存在する/しない」のような、極めて抽象度の高い対立関係が対になる。そして、プレヤデスと非-プレヤデスの対立は、この「分節している/していない」の対立関係の置き換え先なのである。

意味するものの体系(引用者注:八項関係と読み替えてみよう)は、あたかも意味されている事柄(引用者注:経験的事実)が外からこうむる個々の毀損に抵抗しているかのようである。客観的条件が、意味されるものの事柄のいくつかを排除しても、それに対応する意味するものがそれとともに棄てられるのではない。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』 p.346

意味するものの体系=八項関係は、その八つの”意味するもの(=八項関係のいずれかの一項として分節されている項)”ひとつひとつが対応することのできる”意味されるもの=客観的=経験的=地理的、技術的な事柄”の全てを周囲の環境から調達し満足できない場合、その埋まらない穴=抜けた穴を、なにかで埋めざるを得なくなる

からっぽの極に充当されるプレヤデス

その何かは八項関係の構造に要求されながらも、そこにピッタリと収まる項を拾ってくることができない「不在の項」である(p.346)。この不在の項の代わりになるもののひとつが「プレヤデス星団」であるとレヴィ=ストロース氏は書く。

「中央ブラジルのボロロでは、積極的には意味され(シニフィエ)なくなったもの(プレヤデス星団)が意味するもの(シニフィアン)の体験の中に虚の場を維持している。」

p.347

ここは重要なところである。

意味するとは、二項の関係にみえるが、じつは二項だけの関係ではない。
意味するとは、素朴に考えると「意味するもの(シニフィアン、あるいはいわゆる記号)」と、「意味されるもの(シニフィエ、記号ラベルを貼り付けられる経験的な対象事項)」がそれぞれそれ自体としての自性においてあらかじめ存在し、その所与の両者が何かのはずみでセットになり、意味するものとされるものという関係に入りました…ということのように思われているが、じつはそれだけではない。

意味するとは、八項関係が分節することである
八項が同時に、瞬時に、一挙に、共時的に、分節する。
この八項のひとつひとつが、上でレヴィ=ストロース氏がいう「意味するもの=シニフィアン」である。

そしてこの八つの項=「シニフィアン」たちの対立関係に、経験的な感覚的なあるいは心的イメージにおける諸々の差異が、区別が、対立が(上の引用でいうシニフィエが)重なり合う

こうして私たちにとって「意味ある」経験的世界が出現する。
私たちにとって「意味ある」経験的世界は、感覚から言語的意識まで、そして記憶からイメージに至るまでを一挙に貫いで分節し、分けつつ結びつけネットワーク化されたものとして出現する。

ところがこの時もし、”シニフィアン=意味するもの”の八項のセットに対応する八者=二重の二項対立関係を経験的世界の中で互いに区別されるあれこれの事柄のあいだに見つけることができない場合、わたしたちの「意味する」シニフィアンの八項関係は「不在の項」を抱えたまま、そこをを埋めることができる現実の何かと対立する何かを見つけられないまま、その穴を「虚の場」としてひらいたまま脈動し続けることになる。

* *

ここに呼び込まれる「項」が「漂う内臓」「プレヤデス星団」「虹」といったことである。これら「プレヤデス」とその仲間、非-非-プレヤデスとしてのプレヤデスとそれに似たようなものたちがひっぱりこまれる。それは現前に対する不在の象徴(あるいは不在に対する現前の象徴)に、分節に対する無分節の象徴(あるいは無分節に対する分節の象徴)に、なる。

* *

つづく
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