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青銅器の呪術を「脱魔術化」した漢字という文字メディア

 前回のnoteで、旧石器時代から古墳時代までをひとかたまりに考える、というお話を紹介した。そして古墳時代の前と後を区切るもの、それは文字である、と。

 文字の導入によって、古墳時代の後半に、日本列島の何かが、大きく切り替わったのである。

 何が変わったのかというと、人びとをまとめる権威の源泉を保存しておく技術が変わったのである。それはつまり古墳から文字への交代である。

日本列島に入ってきた文字は漢字

 注意したいのは日本列島の場合、文字というのは端的に漢字だということ。漢字は、縄文時代以来の連綿と続く列島の日常生活の中から、自然発生的に生まれた書記体系ではない。漢字は、列島の住民にとっては外国のものである。

 漢字というのは、商(殷)の時代の後期にその原型が生まれたと考えられている。紀元前1300年ごろ、殷の22代目の王「武丁(ぶてい)」の時代である。武丁は混乱し分裂状態にあった殷の領域を再統一した王であるという。
 この武丁は敵対する勢力と戦いを繰り返す中で、戦の勝敗、吉凶を占ったらしい。亀の甲羅を焼いてそのヒビの入り具合いで吉凶を占うのである。

 問題は占った後である。

 占いは、当たり前のことだが、外れることもある。

 亀の甲羅に現れたパターンと、その後に生じた出来事のパターンとの関連性を見つけ出す「解釈」。それは偶然成功したかにみえることもあれば、失敗することもある。

 この武丁という人が興味深いのは、占いの後に、どうやら何を占ったのか、その占いの結果をどう解釈したのか記録しておきたいという強い思いを持っていたようである。そうして焼いた亀甲にできたヒビの横に、解釈とその当たり外れを記録しておいたのが、現在に至る漢字の原型である。亀の甲羅に刻まれたので「甲骨文字」である。

 推測するに、おそらくこの武丁という人は、占いの結果のパターンと、現実に生じたことのパターンを「記録」しておくことで、なんというか「勝てるパターン」を探そうとしたのではないか。勝てるパターン、あるいは逆に、負けるパターンがわかれば、後で同じような状況に陥ったときの意思決定の手がかりとして知識として活用することができる。ある意味で「合理的」である。

 伝統的な儀礼的パターンに固執しがちな王朝、古代王朝というシステムにあって、あるいは周囲の保守派の反対を押し切って、文字という異端で奇妙な新技術を突如導入したことには、おそらく極めて実用的な必要性、有用性があったのだろう、と勘ぐってみたくなる。

 占いが外れることも前提条件に組み込んだ上で、それでも占い、その結果と現実の結果を比較し、正解不正解を記録して、次の意思決定に活かす。

 まるで現代のPDCAのようなことを、占いでやろうとしたのだから、鬼気迫るものがある。

漢字が生まれてから日本で使われるようになるまで2000年?!

 ちなみにこの武丁の時代というのは、考古学の発掘の成果から紀元前1300年ごろだと推測されている。紀元前1300年といえば、日本列島は縄文時代の晩期である。

 弥生式とされる最初期の遺跡は紀元前1000年ごろに出現した。

 そして古墳時代の後半、漢字が使われ始めるのは、はるか後の紀元後4世紀後半か、5世紀ごろである。

 漢字が殷で誕生してから、日本列島でそのバーチャルな世界のイメージを書き換えるに至るまで、2000年弱の時間が経っているわけである。

 古墳時代のおわりになって、突然、「海の向こうではこの漢字というものを使って文書を書いてやり取りしているらしいから、われわれもこれを使わざるを得ないだろう」と、当時の支配層が考えるに至ったということである。漢字を使う外国の人に対して、日本列島の住民が、漢字で連絡をとる必要があったからこそ、これを使わざるを得なかったのであろう。いわゆるネットワーク効果である。

 ちなみに、最初期に漢字を扱った日本列島の人びとは、どうやらいわゆる渡来人だったと考えられる。もともと漢字を扱う文化圏から、やってきた人、呼び寄せられた人である。

 連綿と重ねた伝統を重んじることで自己を再生産する部族社会の中枢が、文字という初心者にとってはわけのわからない新技術をわざわざ導入する。そのきっかけは、外的な要因、外部からシステムの存立を脅かすなにかとんでもないトラブルに襲われたときくらいだろう。

 まるで明治維新後の「お雇い外国人」のようだ。

 古墳時代の最後の時期に、この列島の支配層の間で、突如として「漢字で書きたい!!」というか「漢字を書かざるを得ない」事件が生じたのである。

 それはなにか?

 いくつかの研究を参照すると、どうやら「朝鮮半島からの鉄資源の入手」がからんでいるらしい。この話は長くなりそうなので次回に。

移住第一世代は漢字を知っていた(かも)

 ちなみに、よく考えてみれば、紀元前1000年ごろから、続々と日本列島に渡来した弥生人の祖先たち。その「移住一世」の中には、ごく一部でも、その故郷で漢字というものを見知っていた人がいた可能性はある。

 紀元前1000年を過ぎた頃、殷が周に滅ぼされる。その数百年後に春秋戦国時代の混乱が始まり、時を経て秦の始皇帝による統一へと至る。その背景には気候変動による不作も繰り返されたらしい。

 周が先行する殷王朝を倒して成立したのが紀元前十一世紀後半頃。そして始皇帝の秦によって滅ぼされたのが前二四六年。八百年間ほどの期間がある。
 八百年という時間。当然ながら決して均一な王権に守られた均一な時空間が広がっていたわけではない。周は大きく、前半と後半、二つの時期に分けて考える必要がある。
 前半は、紀元前十一世紀後半頃の成立から前七七一年までで、この時期を「西周」と呼ぶ。その後、前二四六年に滅びるまでを「東周」と呼ぶ。この東周の時代というのは、イコールあの有名な「春秋戦国時代」である。そして春秋戦国時代を終わらせたのが、始皇帝の秦である。

 周の話については、こちらの本を参考にしている。

 殷から西周への王朝交代と東周時代の混乱期は、そのまま弥生文化が広がる時代と重なっている。

 文字を持たない民衆がどういう困難に直面し、何を考え、どういう道具や技術で生き延びるための手段を選んだのか。わずかに残された文物から、東アジアで、定住農耕民が耕作地を求めて移住していった様子をうかがい知ることができる。
 この数百年間に渡り繰り返された不作と社会の混乱、戦争のなかで、太平洋沿岸に暮らしていた稲作農耕民が、定住地を奪われ、追われ、家族とともに農耕の技術と知識と道具を携えて、移住できる土地を求め、少しづつ、何百年間もかけて、断続的にやってきた。これが弥生式文化の成立の筋書きらしい。

漢字は王の文字

 ここで驚くのは紀元後数百年を経った古墳時代の庶民のライフスタイル。なんと家は縄文時代以来の竪穴式住居であったという。

 縄文時代の末期以来、断続的に列島の外から移住してきた人びとは、縄文以来の人びとと混じり合って、共に暮らし始めた。西日本と東日本ではその混じり方にいろいろなグラデーションがあるらしい。

 いずれにしても、両者それぞれの食料獲得のノウハウを持ち寄って、水田もつくるし、どんぐりも集めるし、狩猟もするし、と、それぞれの祖先伝来の知識を駆使して、とにかく環境から食べるものを獲得しようとしたのである。

 そんななかで、移住一世が見知っていたかもしれない漢字は、弥生式と呼ばれる生活様式、食いつなぐためのサバイバル術を支える要素として残ることはなかったのであろう。

 日本列島に移住後、漢字を目にすることも、使うこともなくなったので、子どもたちに伝えることもなかったのだろう。 

 それもそのはず、そもそも中国にあっても、殷から西周の時代、漢字は一般の農民が気軽に読み書きするようなものではなかったのである。最初期の殷の漢字は、そもそもが、王が、神意をうかがうための手段だったのである。

青銅器に刻まれた契約の文字

 殷が滅びた後、漢字は周王朝にも受け継がれた。

 さて、周はもともと、殷王朝に服属する辺境であった。周のリーダーは、殷王朝から「周公」の称号を与えられていた。佐藤信弥氏は周を立てた人びとについて「定住性の農耕民と、移動生の非農耕民の二つのアイデンティティの板挟みになっていた」と論じる。
 周は非農耕民、つまり遊牧民の勢力ともつながりをもっていた。このネットワークが、後に殷に不満をもつ殷の諸侯たちを周のもとに集める時に役に立ったのである。そうして殷王朝を滅ぼした有名な牧野の戦いに至る。

 殷から周王朝に交代した後、漢字の使い方に変化が生じた。周では漢字を、盛んに青銅器の表面に刻んだ文字は物質的になにかの表面に道具を使って刻まないといけない。亀の甲羅に刃物で刻み込んでもいいし、竹や木の板に炭を染み込ませてもよいが、周では、特に青銅器の表面に残されたのである。

 同じ文字でも、どういう媒体に刻みつけるか、それによって文字が果たすコミュニケーションの効果が異なる。

 この漢字の銘文が刻まれた青銅器は決して日用品ではない。

 それは、周王に従った諸侯たちの業績に応じて、王から下賜されるものであった。青銅器の表面には諸侯たちが王のためにいかに働いたか、貢献したか、その働きを周王が認めたか、などが記されている。先祖たちの事績が刻まれた青銅器を所有し、儀礼に利用することこそが、諸侯が各地域でその権威を示し、また王との関係を示し、保つための媒体となる。

 日本が弥生時代だったころ、その移住一世たちが暮らしていた大陸の方でも、漢字とはこういう王と諸侯のあいだの関係を記録するものであった。

 そしておもしろいことに、春秋戦国時代の混乱の中で、周王以外の様々な勢力が我も我もと「王」を名乗り始めたとき、それらの諸王たちもまた、周王に習い漢字を記すようになったのである。漢字で盟約を書き留め、漢字で命じ、漢字で記録する。これは王の権能であり、それを自在に行えることこそが、支配者の姿を具現化することでもあった

 我こそが王である、と称するものは、当然のように文字を駆使して同盟を結んだり、盟約を交わしたりすることができなければならなかった。いわゆる諸子百家のテキストもまた、各地の王の下で文字筆記熱が空前のオーバーヒートを示す中で一挙に登場した。

文字は要らないけれど、青銅器は要る

 さて、日本列島との関係に話を戻す。おもしろいのは、周王朝において、文字が青銅器とセットになっているということ。

 日本列島でも、銅鐸、銅剣、銅戈といった青銅器は弥生文化の特長のひとつである。銅鐸などはパッと見ると、周王朝の儀礼で使われた礼器の鐘にそっくりである。

 列島の弥生時代を通じて、漢字の方はどこかへ落としてしまったが、青銅器の礼器の方はしっかりと使われ続けた。青銅器の礼器は豊作を願う儀礼で使われたと考えられている。直接に役に立つ(と皆が信じているもの)は、使われ続け、またローカルに発展しさえもするのである。

 また一説によれば、銅鐸は、農具の素材となる「鉄(褐鉄鉱)」を得るための呪術、儀礼に使われたのではないかという考えもあるようだ。

 鉄という観点は興味深い。農耕の道具をつくるために必要な鉄をどこからどうやって入手するか。後に古墳時代に至り、日本列島の支配層が文字へのニーズを急激に高めたことの背景にも、鉄資源の入手が絡んでいたという。この話はまた次の機会に。

 銅鐸のような青銅器が天や神とのコミュニケーションの手段だとすれば、古墳は人間同士のコミュニケーション手段である。古墳には「こんな巨大な構造物を作れるほどの人と道具を集められるのだから、敵に回したらコワイぞ」と思わせるインパクトがある。
 ここまで来ると、漢字の利用まで後一歩である。古墳の時代、漢字はすでに東アジアにおいて人間同士の、権力をもった人間同士のコミュニケーションの手段の定番になっていた。
 眼の前で力を見せつけて驚かせるだけでなく、遠方の、直接コトバを交わすことができない相手と、より繊細な駆け引き、交渉を進めるには、古墳では心もとない。漢字である。

 この漢字を使い始めてしまったことが、ある意味で日本列島を「脱魔術化」しはじめるきっかけになったのである。オソロシクまた厄介なのは天や神というよりも人間である、という考え。そしてオソロシイ神々も、文字で書かれた「経典」で調伏できるという考えへ。

つづく


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