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多元論か一元論か、それとも「一-多未分」

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安藤礼二氏の『熊楠 生命と霊性引き続き読んでいる。

熊楠 生命と霊性』は南方熊楠の思想と、彼と同世代の鈴木大拙の思想とを並行して眺めつつ「一元論」の思考の系譜の中で紐解いていく試みである。

ここでいう一元論というのは、私たちが日常素朴に互いに対立していると思っている二つの事柄をめぐって、その二項の対立関係を端的に所与のものとみなさず、未だ二項が区別されず、対立するようになる以前の未分・無分節ということを考え、特にその未分・無分節からの区別の発生を論じようという考え方である。

私たちは普段、さまざまな二項対立でものを考えたり喋ったりしている。

暑いと寒い
明るいと暗い
快適と深い
安心と不安
男と女
老人と若者
人間と動物
月と太陽
野菜と果物
生のものと火をとおしたもの
前と後ろ
上と下
右と左
生と死
あの世とこの世
天と地
生命と非生命
絶望と希望
物質と精神

意味するものと意味されるもの
一と多
○と非

こうした区別は、私たちが物心ついた時には、初めから私たちの外部に確かにしっかりと固まってあるものという姿で現れてくる。

しかし実はこういうものは全て「一」が「二」に分化しようとするところから他方と対立する一方として発生したのだと考える。

この分化が始まるところの「一」に注目するのが一元論である。

南方熊楠はこの二が分かれる以前の一を「曼荼羅」とか「如来蔵」とか「大日」とか「法身」といった大乗仏教の言葉を借りて示そうとした。

一であるけれども一でない

ところで曼荼羅や如来蔵や法身が「であるというときの「一である」とは少々込み入った「一」である

どう込み入っているかといえば、この「一」は「多」と対立する「一」ではない

曼荼羅や如来蔵や法身が「であるというときの「一である」とは、一が即ち多であり、多が即ち一であるような「一」である。

これについて「一」という言葉を使ってしまうと、どうしても多と対立する一という二項対立関係の一方の項のことだと解釈=意味分節される可能性が高いということで、「一」とか「一元」とは言わない方がいいのではないかという考えもある。

もちろん、一と呼んでも呼ばなくても、そもそも何かの語で読ぶ時点で、他の何かと二項対立する何かへと分節させてしまうのであるから「一」だけが特にマズイということもない。

「一」であれ何であれどう呼ぼうと、言葉で言った時点で、言葉という二項対立関係の重ね合わせで出来上がっている意味分節システムの中でバーチャルリアリティが発生しているということを忘れない方がいいということである。

そこに言語外の何かモノそれ自体を参照して、この言葉よりもあの言葉の方がぴったりしているとかしていないとか、言うことはできない。

言葉を選ぶ際に考慮すべきは、ある言葉が、安定的に固着している日常の意味分節システムの中で、他のどのような言葉たちと直接の二項対立関係にあり、その二項対立関係が二項対立関係どうしの重なり合いの網の目の中でどの場所を占めているかと言うことである。

「多」と対立する「一」ではなく、一と多の区別と対立関係がそこから発生してくる"一"。

この"一"は未分であり無分節であるが、この分かれていないと言うことは均質均一に静止していると言うことでもなく、さりとて何かが動いているわけでもない。

「多」でもなく「一」でもなく、「静」でもなく「動」でもない。

動きつつある静、静なる動、多へと分化しようと言う傾向に漲る一、未分の一へと向かいつつある多。

それは言葉にしようとすれば、どうしてもこのような言い方になる。

言葉にできるようなできないような。

ここに言葉の「無力さ」を感じるか、それともここでなお「無力ー有力」の二項対立「で」意味分節しようとしている意識を見出すかは、自分次第である。

続く

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