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「知らんけど」で想定から逸脱するー読書メモ:郡司ペギオ幸夫著 『天然知能』

 郡司ペギオ幸夫氏の『天然知能』を拝読。ある所で「人工知能と人間の関係」という類の話をする機会があり、なにかヒントをもらえるのではと手にとった。

郡司氏は人工知能、自然知能、天然知能という3つの知能を比較しながら、生命現象(即ち進化)を天然知能による自他の境界の組み換えの営みとして捉える。

知能とは、ある生命の内部と外部を区別したところではじまる、外部から内部への射影(あるいは内部から外部への射影)の関係である。

「誰にとっても共通の唯一の客観的世界」という内的構築物

ある生命の内部と外部。

自然科学的な発想を(も)する癖がついてしまっている私からすると、どうも「外部」という言葉から「誰にとっても共通の唯一の客観的世界」なるものを連想してしまう。

「誰にとっても共通の唯一の客観的世界」というのは、意識(内部)と世界(外部)をしっかり区別した上で、その両者の間にかっちりとした固定的やり取りの関係を想定したところで、はじめて(内部に)成立するイメージである。

この理想を実現する鍵は適切な観測技術と正しい観測方法である。外部を内部に取り込み、内部を外部に出力する処理を、いつどこで誰が行っても同じパターンを描くように統制しておくこと。

そういう統制が限定的であれ効いている(と関係者各位に信じられている)ところで、方法さえ間違えなければ客観的に記述可能なはずの唯一の世界なるものが意識の外部に存在することになる。

ところがそうした外部は、実はそれを決まった方法で記述する意識の「内部」に予め設定されているものと同じである。

私の意識の外部に転がっているあれやこれやの物は、間違いなくに手で触れたり、転がしたりすることができるし、あるいは不用意にふれると向こうの方から私の身体に害を与えてくる(やけどをさせたり、感電させたり)。

それはどう転んでも、絶対に「私の(身体の)中のもの」ではない。

ここでは「外部」は「内部」とは無関係に、それ自体として存在している別々の物のである。

しかしこれでさえ、あくまでも、何らかの全体的な運動プロセスをいくつかのアクターの関係として記述しようとする一つの認識のやり方なのである。

この場合、認識という言い方は不適切かもしれない。

ここで進行しているのは全体的な運動のプロセスの部分で反復される微小な運動の反復であり、その反復によって周囲とは異なるパターンが浮かび上がることである。ここにあるパターンとその外部との区別が始まる

区別すること、それを反復すること。その動きは無数に生じる。そうしていくつもの区別が重なり合い、お互いに影響しあい、連動して動くようになる。

人口知能や自然知能は「これは、あれだ!」という具合に、外部を知覚し、認識するこの「これ」と「あれ」の対応関係は、区別と置き換えという全体運動の基本的なロジックの上に成り立っている

勝手に書き直してよい辞書

内部のこれを、外部のあれと「同じだ」ということにする操作。

これは私達が辞書を使ってやろうとしていることである。

AはB、BはC、と、対応関係をイコールでぴったりがっちり結んでいくこと。

郡司氏が論じるように人工知能がやっていることも基本はこれである。問題と答えの対応関係が一つにかっちり固まる「はず」だと仮定したうえで、ある問題についての正しい答えとなるはずのパターンを大量のデータから超高速で探し出す。

ここで人工知能との違いから、郡司氏の論じる「天然知能」が姿を表わす。このかっちりと固定しているべきとされる対応関係を破壊しあるいは緩め、これとあれのあいだ、AとBのあいだに、余白を、ギャップを開いたままにする。そこには実に様々な、新しく対応関係を結ぼうとする候補者たちが流れ込んでくる。

とりあえずこれはアレということにしておきましょうか、知らんけど

という具合である。

辞書というものをどういうものとして扱うか、ふたつの道がある。

ひとつには、辞書に描いてあるとおりの記号と記号の置き換えパターンこそが「正しい」ものであり、それを逸脱するパターンはすべて「エラー」であり、極限まで排除すべきである、と考える道。

もうひとつは、辞書はその時々の都合に応じて、「仮にこれはあれということにしておこう、知らんけどな」という具合に書き換えていってよいと考える道。

通常、近代の印刷技術の時代以降の私達は、辞書を前者のようなものだと信じている。

天然知能について、郡司氏はつぎのように続ける。

天然知能であるわたしは、世界を自分ででっち上げ、その中で対応関係を自作自演するかのようです。しかし、外部が関与することで実現される文脈の際限のなさによって、自作自演は不可能とされるのです。[…]世界は、わたしが作り出す仮想世界=現実世界でありながら、わたしによって見渡せる世界たり得ない。[…]わたしは神のような超越者、世界を外部から俯瞰する者ではないのです。(p.78-79)

内部は外部に開かれている。内部と外部は接続している。
内部は「外部に鋭敏」でなければならない(p.89)。

謎の外部に鋭敏であること

内部と外部の関係をめぐって話が進む中で、特に私が「目からうろこ」だったのは神経細胞についての話である。

神経細胞の働きについての説明でよく聞くのは「他の細胞からの信号を受け取り、簡単な計算をして信号を発信する」という話である。

郡司氏によれば、これはあくまでも近似であり、理想化である。郡司氏は実際に「現実の神経細胞」で起こっていることはもっと複雑であるという。まず神経細胞が働く条件となる「環境」自体が変化している、揺らいでいる

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