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人類とAIを区別する統合化・抽象化能力の有無とレンマ的知性 -郝景芳著『人之彼岸』 冒頭エッセイを読む

現代中国を代表する作家の一人である郝景芳氏の『人之彼岸』の日本語訳が早川書房から刊行されている。

この本には6つの短編と、2つのエッセイが収められている。今回はこの二つのエッセイ、「スーパー人工知能まであとどのくらい」と「人工知能の時代にいかに学ぶか」を読んでみる。

ここで問われるのはコンピュータのアルゴリズムである人工知能と私たち人間・ホモサピエンスの知能(あるいは知性と言った方がしっくりくるかもしれない)とのちがいである。

郝氏は人間の知性の特長として情報を統合する能力抽象化能力を挙げている。おもしろいことにその能力は中沢新一氏が『レンマ学』で論じている「アーラヤ織」の働きと通じるのである。

ちなみに『レンマ学』を精読する連続noteをこちらのマガジンにまとめています。

人工知能が得意なことと苦手なこと

郝氏は人工知能が得意とする作業として「金融・投資、契約書チェック、販売戦略策定、ニュース執筆」といった仕事や、画像から何らかの特長あるパターンを探索する仕事(例えば画像診断や、防犯カメラの映像から不審者を検出するなど)を挙げる。人口知能はこれらの仕事を人間よりも高速・大量に行うことができる。

これらの仕事には共通点がある。それは正解パターンがある程度決まっているということである。

人口知能が大量のデータ(ビッグデータ)から正解パターンを学習する仕組みがディープラーニング(深層学習)である。

「画像認識の正確さは普通の人を上回り、音声認識も合格レベルに達し、科学文献をデータとし、短時間のうちに数十万冊の最新文献を学習することがえきた。金融、電力、エネルギー、小売、法律などの分野でも、ディープラーニングはすべてビッグデータから最適化された行動手順を学習する。」(郝景芳『人之彼岸』p.18)

人工知能は大量のデータから、ある到達目標・獲得目標に達するための勝ちパターンを統計的に抽出し、その勝ちパターンを作り出す手順を実行することができる

素晴らしいじゃないかと思うのだが、ここから人工知能がうまく扱えない課題も見えてくる。それは統計的に頻出する勝ちパターンが、果たして「正しいことなのか」をメタレベルから自らに問いかけることである。

契約書であれニュース原稿であれ、身体の断層写真でも防犯カメラが捉えた街頭の映像でも、人工知能のアルゴリズムにとっては文字や画像や映像からエンコードされた後の(へとデコードされる前の)デジタルデータ、0と1の配列である。

人工知能は入力されたデータの列から正解とされる0と1の配列パターンを探したり、入力されたデータを材料にして正解とされる0と1の配列パターンに似たものを作り出したりする。そうして作られた0と1の配列が、文字列へとデコードされて、文書となり、人に供されるわけだが、そこに何が書いあるか、書かれていることの様々な人にとっての「意味」といったことを人工知能は気にしない。

人工知能が苦手とする事柄は、主に次の三つの要因が絡むものであるという。

1)総合的認知の能力
2)他人を理解する能力
3)自己表象の能力

総合認知とは、問題になっている事柄の背景文脈状況を理解する能力である。郝氏は「統合能力があるので、私たちは分野を跨いだ認知ができるのだ」と書く(p.26)。

郝氏は5羽並んだ鳥のうち1羽を猟銃で仕留めたら残りは何羽か?という例を挙げているが(答えは『人之彼岸』でご確認いただきたい)、人間は、他の人から「暑いですね」と言われたことに対して「はい、暑いですね」と応じるだけではなく、「窓を開けましょうか」と応じることができたりする。

人が言ったことと、窓の状態と、室内の空気の状態。この別々の事柄を総合して、この人は部屋が暑いと感じているのだと知り、部屋の気温を下げるには窓を開けるのが適切だと判断し、しかし無言で窓を開けに行くのではなく「開けましょうか」と問いかける。この問いかけることは重要である。もしかすると「いいえ、開けなくて結構です」とか「いや、暑いのはこの部屋のことではなく、此処に来るまでの道中のことですよ」と言われるかもしれないのだから。

もちろんアルゴリズムでも「暑いですね」に対して「窓開けましょうか」と応じるというコードを予め書いておけば「窓開けましょうか」と応じることはできる。しかし人間がコードを書いてしまっては人工知能が「学習」したことにはならない

何より、「暑いですね」という同じ言葉、同じ文字列であっても、時と場合によって、誰が誰に対してそれを言うかによって、その意味するところが変わるのが人間の言葉である。予めルールを記述したとしても、いついかなる時もそのルール通り窓を開けることが正解であるとは限らない。

抽象的世界モデルを構築するレンマ的知性

人工知能が背景や文脈を読み取ることができないのは「人工知能にはまだ「世界モデル」を構築する包括的な能力がかけている」からであると郝氏は論じる(p.23)。

「世界モデル」を構築する包括的な能力とは、様々な断片的な情報をまとめる・統合する能力であり、バラバラの情報を結びつけて関係構造を構築する能力である。

この異なったものを、異なったまま一つに結びつけて把握する知性と言うのは、中沢新一氏の『レンマ学』の用語でいえば「レンマ的知性」と言うことになる。

相即相入する事物の縁起のネットワークを、人のアーラヤ織は分節し、区別し、区切り出す。その区切り出されたものの代表的なものが「自分」であり、自分ではないものとしての「他者」である。しかしアーラヤ織は、この区別を実行しつつ、区別された両者が実は相即相入しあっていることを忘れない。分けながらも、同時に「同じ」と置く、等置するのである。

アーラヤ織は区別をするロゴス的知性と、等置をするレンマ的知性のハイブリッドシステムである。

他人を理解する、自己を表象する

他人を理解する能力、自己を表象する能力もまた、「自己」と「他者」の差異と「同じさ」のはざまで戯れる知性、他者を自己に置き換えてみる知性、自己を他者に置き換えてみる知性である。

他者理解とは「自分を他人に投影し、相手の立場になって考えること」である(p.30)。自分と他人は違うけれども同じ。自分だったらこういう場合にこのように感じるから、だからあの人もこういう風に感じているのだろう、と想像する。

自己を他者に置き換えてみると言うこと、異なるものを同じと置いてみることは、これもまた分別をする「ロゴス的知性」と等置する「レンマ的知性」の動きとがハイブリッドになった「アーラヤ織」のなせる技である。

レンマ的知性は異なるものを同じと置くことで、カテゴリーを形成し、カテゴリー間の関係を構造化する。そうして神話や数学のような抽象度の高い、メタレベルの意味作用を引き起こす。

現実世界と記号体系の関係

この「抽象的な理解度の不足」こそが、人工知能の問題点であると郝氏は書く(p.34)。

抽象的な理解度の不足が「現実の世界と抽象的な記号との関連性」を人工知能が理解できないようにしているのではないかと言うのである(p.35)。

人口知能は「記号と記号の関係」を扱うことは得意だが、記号の配列が現実の世界の何と(今ここ、この人たちの間で)どう置き換えられるのかを理解するのは苦手である。

記号の体系が現実の世界を「表す」ことができるのは、外界の現実と記号が一対一で対応しているからではなくて記号による分節体系と、現実の世界についての感覚印象と言う「異なる」事柄を、「異なるが、同じ。同じだが、異なる」という矛盾した関係に置くことができるアーラヤ織の活動があるからである。

記号と記号を置き換える処理は、人間においては、あくまでも意味作用として現象する。

意味作用、つまり異なるが故に同じとし、同じとされるが故に差異化すること。そうすることで分節体系をいくつも多重に重畳させ、また重畳させつつ重ね方をずらし、さらには分節の最小単位である二項対立関係の組み方さえ変容させてしまうのである

おそらくこのようなアーラヤ織の仕組みが動いているからこそ、人間は、ビッグデータを統計的に処理しなくても、刻々と変容する複雑な外界を一貫して統合的に意味づけ、認識し意識的に計画したり推論をしたりすることができるのである

記号と記号の配列パターンを処理する人口知能は「ロゴス的知性」だけで動いている。

それに対して人間の知性は、ロゴス的知性とレンマ的知性がハイブリッドになったアーラヤ織で動いている。

そしてこのアーラヤ織こそが、人類の知識に飛躍的なイノベーションを可能にしてきたのである。

「人類の歴史の中で統計に関する多くの経験が積み重ねられてきたが、知識の面で躍進をもたらし売るのは抽象的モデルだけなのだ。」(郝景芳『人之彼岸』p.37)

なぜそう言うことになるのかといえば、まず世界は、現実の世界は、そもそも人間と無関係には存在しないのである。

人間が外部の世界だと思っているものは、そもそもが人間のアーラヤ織の無意識の知性が分節して並べたものだ。

そして「抽象的モデル」はこの分節の仕方に、分節したものの並べ方に関わる。抽象的モデルの組み立てが変わると言うことは、分節の仕方が変わると言うことでもあり、分節されたものたちの並べ方が、つまり意味が、変わると言うことなのである

ここで付け加えておきたいことは、世界モデルの二重性である。

世界モデルには、日常の常識的な世界がこうであるべきだという日常世界のモデルがある。と同時に世界モデルには、超日常的な神秘的神話的モデルもある。

世界モデルの変容や交代は、時に「正しいこと」と「間違ったこと」の区別の仕方を変えることがある。昨日まで「正しい」とされたことが、ある時から「正しくない」ことに変わることがある。何らかの事柄が「どうあるべきか」を描き出すのが世界モデルであり、そして世界モデルは「複数」あり得るのである。

抽象的な世界モデルに応じて、私たちが現実だと思っている現実は制作され生産される。だからこそ分別の仕方と分別されたものをどう並べることを許し、どう並べることを許さないのかと言うことが大問題なのである。

まとめ

近代以降、私たち人類は、ロゴス的知性の未来予測能力、計画能力、世界建設能力にすっかり魅せられてしまって、ロゴス的知性に直交するレンマ的知性の「異なるが、同じ」にする力をすっかり等閑視するようになってしまった。

人類はよりロゴス的に、ロゴス的に仕事をしようと追求し、ロゴス的な知性を徹底的に鍛えようとしてきた。その果てに自分たちの頭脳よりもはるかに高速なロゴス的処理ができる人工知能を開発し、ロゴス的処理をアウトソースしようとし始めている。

ロゴス的知性の運用という点では、人間は人工知能に負けることになるだろう。

しかし、それで人間そのものが無用物になるのかといえば、そういうことはない。なぜなら人間のロゴス的知性は、あくまでもレンマ的知性の「影」だからである。

レンマ的知性は引き続き人間の精神性の核心で動き続けており、抽象的カテゴリーを生産し続け、抽象的カテゴリー間の抽象的な関係を新たに構築し続け、いくつもの世界モデルを、一人一人の個人と個人の隙間において生み出し続けている

しかしながら。

あくまでもこの数百年間、ロゴス的であることの物質的生産力により高い価値を見出してきた私たちは、このレンマ的な「同じさ」で全てを結びつけていく知性との付き合い方をすっかり忘れてしまっている私たちの社会は、神話を語るハレの時間をすっかり無くしてしまっている

私たちが人工知能の「他者」としての自分たちを、性能の低い人工知能(ロゴス的情報処理装置)として分節化し意味付けてしまうのか。

それとも主観性の世界に多様なモデルを形成し、そして記号の体系を創造する共同主観性の領域においてモデルを共有し、かつ共同で変容させ続けていく「華厳的」な運動を回転させ続けていくのか

全ては私たち人間地震による人間の概念、人間とはどういうことか(人間の知性とはどういうことか)を人間とはどういうものではないかということから区別する分節のやり方と、その分節が生産する対立関係に、他の何と何の対立関係を重ね合わせるのかという抽象的世界モデル次第なのである。

以上、ここまでは「スーパー人工知能まであとどのくらい」を読んでの話である。引き続き第二のエッセイ「人工知能の時代にいかに学ぶか」を読んでみよう。これがまたおもしろい。

続く

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