★生きること、それにはご褒美が必要です。
生産性とか効率化とか、お勤めをしているとそういうことが会社から求められます。ときには怒鳴りつけられて、悲しくなったり泣いたりしてしまうことがあるでしょう。
いったい何のために働くのか、ましてや生きている意味も何のために生きているのかもわからないのに。あーあ、早く死にてえなあ。
そんなことばかり毎日ぐるぐると考えることになるかもしれません。
私もたくさん悩んできたので、導き出した1つの答えをシェアします。
個人的なことを言うと、私は自分の人生において、十分にご褒美をもらっている気がしないのでまだ死にたくありません。
人生の前半戦を父からの虐待、学歴差別、低賃金雇用・・・、諸諸の事情で虐げられてきたので、まだ損の方が大きいと考えています。損をしているので、これを補填すべく、もっといいことを味わってでないと死にたくないのです。
私の“人生”という名前の容れ物の中にある悲しみや苦しみの〈マイナス〉を、“ご褒美”という〈プラス〉に入れ替えたいのです。
以前、「人生なんて、死ぬまでの暇つぶし」と書きましたが、暇つぶしならなおのことご褒美をもらって死にたい。
ご褒美というのは、人によって価値観が違うので、明確なものはありません。私は私が欲しいご褒美をもらえるように生きています。
人間は「何のために生きているのか」、どんなに高名な哲学者が語っても、それは各各の命題に過ぎなくて、実は決まった答えなどないのだもの。
その事実を知ってからは、私はご褒美をもらうことに専念して暇つぶしをしています。つまり「何のために生きているのか」という命題への私の回答は、ご褒美をもらうことだと解釈しました。
では、私の欲しいご褒美とは何なのか。また、どうやってもらうのか。
ご褒美をもらうための努力はしゃかりきにやっているわけではありません。ただ、目の前のことをやっているだけです。
もちろん、そのような境地に至るまでにはしゃかりきだった時期もあります。
例えば、怒鳴られないでできる仕事に就けたことがご褒美。
このようにnoteを書いて、読んでくれた人から〈スキ〉をもらうこと。また、たまたまそれがどこかのよそ様の役に立っているかもしれない、それがご褒美。
あるいは、パートナーの冗談を聞いて笑ったり、一緒にごはんを作ったり。
そんなことを続けていけることがご褒美。
私はひたすらそんなことを続けていきたい。
その程度のことが私にはなかなか叶わなかったことだったので、ご褒美と言えるのです。私が欲しいご褒美は、ドラマチックなものではないかもしれません。
私は、すべての人間にはご褒美が必要だと考えています。
しかしながら、各各がどういうものをご褒美と捉えるかはわかりませんし、その感性は当人に委ねられていると思います。
ただ1つ言えるのは、もしかするとご褒美のもらえない人生は〈検討〉が必要かもしれません。
暇つぶしの人生、他人からはちっぽけ過ぎると感じられようとも、自分が欲しいと思えるご褒美、すなわち〈幸せ〉を手に入れるために、今日も私は生きています。
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