社会的「環境コード」の強要(2)

社会的ルールに拘りをもつ理由

なぜ我々は、気付くと社会的ルールに従ってしまうのだろう。自分で考え、判断する、ということを放棄して、世間様から良いと見做される行動をとってしまう。

その大きな理由は、自らを守るため、孤立しないためではないだろうか。
社会的に「正しいこと」をすることによって、周囲からの承認、評価が得られる。それによって人に好かれることができ、孤立することなく、集団にいられる。ある種の生存戦略なのかもしれない。

こういう人は、「すべき」「あるべき」から抜け出したいと思っていながら、そこにつかりきっている。
なぜならそこにいる方が安全であるからだ。その安心感から抜けるのは、孤立をみずから創り出していくほかないのではないだろうか。そのような自己破壊が必要であろう。

他人から、社会からの評価とは、不安定である。それゆえ不安定になり、進退を繰り返さざるを得ない。これは非常にびくびくした生き方になる。いわゆる抑圧した生き方だ。対して、自分の軸をもち、自信(他人によらない)がある場合は、一貫性があり安定する。すなわち、解放と自由がある、ここが大きな違いである。

このような社会的規範を他人に強要・適用するのはいかがだろうか。寛容度に差があるのは、教条主義的傾向の差であろう。マナーや倫理観といった社会に敷かれたルールを守ろうとする人こそ、自分への教条主義的傾向が強い。それがゆえに他人へもそのルールを適用する。そういうルールに興味のない人は、自由に生きているし、他人に干渉することもないだろう。社会との壁がないからだ。たしかに線はあるかもしれないが、彼らはそこに意図的な壁を築かない。自と他を明確に区別せず、たゆたうように世界を見ている。いや正確には見ていない。

規範意識が強い人は、社会を異質化、外部化しているのである。自分と社会とに明確な線引きをするために、「社会的ルール」を設け、それを通した行動をとることで、「自」と「他」には大きな壁が作れる。彼らは他を拒否し、意識したくないのである。これが彼らの不寛容さと関連あるように思われる。彼らは不親切ということはなく、むしろ弱者には優しい。なぜなら「弱者は社会が守るべきだ」という教条を持っているからだ。これは社会的に正しい。しかし、迷惑をかけるものは社会的に正しくない。だから、そういったルールを破る人には厳しい。彼らがこの傾向から抜け出すには、彼ら自身の枠を壊していくしかない。それは教条主義という枠である。「すべき」という枠を疑い、別の枠をのぞいてみる。別の枠から物事をみる、大局的な見方をするのだ。他者を変えるとはもってのほかで、他者を味方として同質化するのも違う。自らの枠を破壊することで、他者へ歩み寄っていく、他者を歓迎する、そういった姿勢が不可欠であろう。

で、こういう人は誰なのかというと
まぎれもない筆者自身だ。
人間は意識して自分がどうあるべきか、何をすべきかを主体的に思考し続けない限り、社会規範に引き摺り込まれてしまう。
今一度、その重要性を忘れぬようにしたい。

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