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大は小を兼ねる ― 続「字引を読む」

 大きいことは良いことだ、という価値観は、いかにも戦前の大艦巨砲主義のようで芸が無さそうであるけれども、実際、文学を読む為に使う字引を選ぶに当たっては、そういう価値観も役に立つようである。字引を使う向きの主たる目的は、知らない言葉の意味を探る為であって、普通に考えるならば、たくさん見出し語を載せている字引が優れているように感じられて、版元の方でもそういう需要を察して、大抵は字引の帯に「何万語収録」などと大書して謳い、はしがきにも刊行ないし改訂の一番の眼目として見出し語の増強を挙げている。けれども、考えてみるまでもなく、字引の容積には限界があるのだから、やたらと見出し語ばかりを載せて、その限られた容積を占有し、肝心の語義であるとか、例文を掲載する余地が無いというのは、いかにも片手落ちで、それは巨大な単語帳に過ぎないと言えなくもない。

 前に、字引を愛読していると書いたことがあったけれども、対象はその語義や例文であって、何も見出し語ばかり眺めている訳ではなく、気の利いた字引になると、一つの見出し語に幾つもの語義を載せて、外国語の字引で勉強をしているつもりが、実は日本語の勉強にもなっている。そして、これは学校の先生がよく教えるところで、字引の生命は例文にあるとも言われて、独立した単語は、文章や会話の中で、どのような使われ方をするのか、標本のように単語単体で切り出しては訳が判らないから、その実際の運用を知る為に、前後の脈絡を踏まえた例文を読むことが推奨されている。それは専門的な用語を使えば「共起」と言って、ある言葉と共に使われる、相性の良い言葉ほどの意味で、例えば自動車が信号で停まる、ヒトが信号で立ち止まることを「信号待ち」とは言うけれど、「信号止め」とは言わなくて、意味は通じるけれども慣用として認められていない言葉は、とりわけその言葉を外国語として学ばなければならない外国人には必要な情報で、「信号」を引いても、「待ち」を引いても、見出し語だけでは判らない、例文で示しているからこそ感得出来る知識と言えるだろう。

 言葉の学び始めに、学校や予備校で薦められる字引というのは、普通「学習辞典」と呼ばれていて、英和辞典を例に挙げるならば、語義や例文の他に、文法や語法、親切な字引になると、語源や類語などにもスペースを割いていて、意味を調べるつもりで引いたものが、いつの間にか文法的な観点からその言葉を見ていることに気が付いて、用心しなければならないのは、そうした学習辞典の気配りが、実は大きなお世話にもなるという落とし穴で、生徒の眼には、当然、語義の他に、それら付帯情報が次々と視界に飛び込んで来る訳で、やれ第何文型に使う動詞だとか、それは使役動詞と呼ばれるとか、あるいはまた副詞節ではこういう意味になるとか、つまりは期末試験や大学受験の為に使うのであれば有用な情報が、純粋に英文を読む、文学を愉しむという行為の中では、ただの雑音にもなりかねなくて、仮に勉強を離れて、実用や趣味として英文を読む、それは毎朝の英字新聞でも、読書の為の洋書でも、そんな知識で頭を一杯にしていては、きっと使われている単語が、生きた言葉としてでなく、文法やら語法の鎧をまとった無機質な金属の塊に見えて来て、語義とその延長である文脈における意味、作家が創意工夫して選び抜き、繋ぎ合わせた文章における意味ではなく、真っ先に頭に浮かぶのは、その用法が第何文型で、名前は使役動詞、副詞節で使われているから云々と言う理屈が、勉強熱心であるほど、皮肉なことに芋蔓式に沸いて来て、読み手の気を散らすに違いない。無論、そんな読み方をしていては、言葉のリズムや音韻を味わい、言葉を一つの芸術として愉しむことなど無理な話で、味読は解読になり、鑑賞は作業となって、その言葉で創られた作品、すなわち文学を愉しむことなど到底叶わない。

 だから、理想的な字引というのは、文法や語法といった学習辞典的な要素は抑制されて、それなりの見出し語は担保されつつも、何より語義と例文の掲載量に重きを置く、見出し語に対して、どれだけ読み手の国の言葉に置き換えているか、その語義の数が多ければ多いほど、多角的にその言葉を観察し、表現していることにもなって、それは辞書を編む者の言語的なセンスを発揮する腕の見せどころでもあり、むしろ言語学の専門家などではなくて、文学者の方が向いている。だから、字引の役割というのは、言葉のイメージ、印象を、その言葉に不慣れな向きに伝える、それも単語帳のように、一対一で訳語を充てるようなつまらない代物ではなく、語源から現用に至る豊穣な言葉の樹形図を生き生きと見せることにあるのであって、そもそも成り立ちの異なる外国語と母国語を等価に対置することなど出来ない話なのだから、あらん限りの語義を挙げ、例文とて、その言語の最も美しい姿、すなわち一流の文学から示すことによって、母国語の使い手が描く言葉のイメージに、その言葉を学んでいる読み手のイメージを近づける、出来ることならば完全に一致させることにある。だから、仮に書店で良い字引を探すことになったなら、同じ言葉を幾つもの字引で調べてみることで、なるべく多くの語義を載せ、例文を挙げている字引が良い字引であって、語義や例文の数を数値的に明示している字引など無いのだから、そうやって実地に検分する他ない。

 日本で大辞典を名乗る字引は、せいぜい海外の中辞典クラスの字引であるとは良く言われる話で、戦後になって、ようやく『日本国語大辞典』(全二十巻)や『大漢和辞典』(全十五巻)等の力作が登場することになったけれども、それでも英語や仏語の世界では、まだまだ日本の大辞典は、せいぜい本国の「コンサイス」級である。もっとも、無い物ねだりをしていても仕方が無いから、その一巻物の大辞典の中から、座右に置くべき一冊を選ばなければならなくて、前にも言ったように、見出し語の数だけでなく、豊富な語義と美しい例文、そして主幹たる編者が、言語学のみならず文学的な素養をも持ち合わせているといった諸要件に照らしてみると、必然、版元の歴史と伝統をも加味して、英語ならば研究社の『新英和大辞典』、仏語は白水社の『仏和大辞典』が優れていて、この二冊は常に机上にあって手離すことが出来ない。それぞれ刊行から数十年が経ち、古いから使えないとか、新語が掲載されていないとか、色々と批評もあるようだけれど、海外へ持って行って会話に使うとか、新聞の時事用語を調べるのではなく、古典を読む、文学を愉しむ為に使うことが目的なのであれば、むしろ古い言葉を廃語として削除している最近の字引よりも、数世紀前の用法を迫害せずに掲載している字引の方が数段役に立つのであって、例文にシェイクスピアやラ・フォンテーヌを挙げている研究社や白水社の大辞典は、学ぶところ多く、読み応えもあり、それら名文を集積した字引は、字引自体が一つの作品、一種のアンソロジーとも言えるだろう。だから、学校や職場、旅行先で使うような字引は、持ち運びの便を考えて、小振りなものを選んでおくべきなのだろうけれど、いよいよ家に常備し、愛読に足る字引を揃えるのであれば、その言語の分野で定評のある版元から出されている大辞典を選んでおけば間違いは無くて、単に知らない言葉を調べるだけでなく、折に触れてページを開いてみる、眼に止まった言葉に託された語義や例文を読んでみるだけで、その言葉が持つ奥行きと深み、すなわち新しい世界を垣間見ることが出来る。だから字引に限っては、大は小を兼ねるもので、少し高くとも奮発して、少し重くとも我慢して、大きな字引を手元に置いて親しみ、時に語義や例文と遊んでみることが、次第次第に言葉のセンスを磨き、やがては将来に対する大きな投資であることに気が付くはずで、相性の良い字引との出会いは、生涯の伴侶との出会いでもある。


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