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「偶然」で気になる3作品

偶然はコントロール不能。そんな偶然をことばで表現するとき、起承転結や原因→結果といった文章形式はよそよそしい。そこには「だから…」も「けれど…」もない。論理的な筋道もない。ただ、起きるときに、起きるところに、集中して起きる… 「偶然」がおもしろい3作品をリレー形式でつなげました。

まずは『マグノリア』という映画のイントロ部分。単なる偶然ではすまされない3つの話。

うす気味わるい偶然

① 1911年11月26日の新聞記事。エドモント・ウィリアム・ゴッドフリー卿の殺害犯として、3人の男が絞首刑に処せられた。卿は善良な家庭人で薬剤師。住所はロンドンのグリーンベリー・ヒル。3人の殺害犯の動機はただの物盗りだった。名前はジョセフ・グリーン、スタンリー・ベリー、ダニエル・ヒルという。3人の名前を合わせると、事件が起こった住所のグリーンベリー・ヒルとなる。
② 1983年6月、ネバダ州リノの新聞記事。山火事がおきて、地上と空中から消火活動が行われた。その後に、なんと、デルマー・ダリオンという名のダイバーが、高い木の上にひっかかった状態で見つかった。彼はウェットスーツを着て、酸素ボンベとマスクをしたまま、つまりダイビングの格好で絶命していた。
タンクの中に入っていた人間を散布したとは考えにくい。いくら消防ホースが太いからといって、ダイビングの格好をした人間がホースの中を通るはずもない。この謎のキーマンはボランティアの消防士、クレイグ・ハンセン。彼の操縦する水陸両用機が、消火活動に使う水を吸い上げるために湖水を滑水中、偶然にも水中にいたデルマー・ダリオンをひっかけてしまったらしい。
しかも、輪をかけて偶然なのは、2人は2日前に会っていた。デルマーはカジノ・ホテルでブラック・ジャックのカードを配るディーラーをしていた。ハンセンはそのカジノに酒気帯びで出かけ、カードゲームに興じる。ハンセンが2のカードを要求したのに、デルマーの配ったカードは8。酔ったハンセンはかっとなってデルマーに殴りかかる。警察沙汰にはならなかったが、警備員にこんこんと諭され、我に返ったハンセンがデルマーに謝罪、事なきを得た。その2日後に、この事故が起きる。ハンセンは、罪悪感と偶然の重みに耐えかね、自室のベッドでショットガンを口にくわえて自殺した。
③ 1958年3月23日、ロサンゼルスでの出来事。17歳のシドニー・バリンガーが9階建てのアパートの屋上から飛び降りた。青年の胸ポケットに入っていた遺書で、自殺の意志が確認される。しかし検死官の裁定は、自殺ではなく他殺。
シドニーが屋上に立った時、その3階下で激しい夫婦げんかがあった。この夫婦がショットガンで脅し合うのは日常茶飯。妻のフェイが夫のアーサーに向けたショットガンが暴発した時、なんと、屋上から飛び降りたシドニーが窓の外を通過した。
銃弾が腹部を貫通して、シドニーは即死。しかし、そのまま落ち続ける。さらに3階下の3階には、3日前から窓ふきのための安全ネットが張られていた。銃弾が当たっていなければ助かっていたはず。(この事件には、なぜか3とその倍数がからんでくる)
偶然はこれだけではない。この夫婦はシドニーの両親だった。連日行われる両親の激しい夫婦げんかに耐えられなくなり、息子は自殺を決行した。しかし、結果的には、その母親が息子殺しで起訴され、息子は自分自身の殺人の共犯者となった。

われわれがこれらの偶然を知ることになるまで、新聞記者や脚本家の間に「伝言ゲーム」があったことは推測できます。ですから、偶然は(客観的に)起きたのではなく、かたりべによって(主観的に)見出されたんだ、とも言えるでしょう。

まぁ、確かに、そうかもしれないけれど… それにしても偶然って恐ろしい。少なくとも言えそうなことといえば…

偶然は、人の生き死にに際して生じやすい。
偶然は、「人の行動(たまたまこうしてしまった)」や「人の関係(たまたまこうなってしまった)」ばかりでなく、ことばや数字に生じることもある。

それからもうひとつ。偶然が生じる、その背景として、天候の変化が細かく描写されます。『マグノリア』も、シーンごとに天候を示すデータが示されます。変化の予兆がそこに表れるのでしょうか?運気と天気のシンクロニシティ。

「一事曇り 降水確率82%」
「小雨 湿度99% 南東の風 19メートル」
「雨のち晴れ 夜に入って微風」

『マグノリア』をごらんになった方なら、思いがけないものが空から降ってくるシーンをご記憶のはず。そこで、次は村上春樹の『海辺のカフカ』。

偶然はいつでも出会いがしら

思いがけないものが空から降ってきた日、ナカタさんは旅に出ます。字が読めないから、切符が買えない。これまで中野区を出たことがないので、電車の乗り方すらわからない。それでも、偶然居合わせた人たちの親切をたよりに、ヒッチハイクで西へ向かいます。

ナカタさん自身、その行先や目的はわかりません。とにかく大きな橋を越えることになる。そこに行ってみれば、何かわかるのではないか… ひとつにたどり着いたらまたひとつ… という仕方で、徐々に問題の核心へ迫っていきます。

ヒッチハイクで偶然知り合ったホシノさんの運転で、市内をただグルグルまわります。目的地は見つからず、2人はあきらめて帰ろうとしますが、道を間違えて、気がつけば見覚えのない住宅地へ… 地図で現在地を確認するため、車を止めたところに門があり、看板がかかっています。

「甲村記念図書館…」と青年は読んだ。「こんな人気のない静かなところに図書館があるんだね。だいいち図書館にも見えねえや。ふつうのお屋敷みてえだ。」
「コウムラキネントショカン?」
「そのとおり。たぶん甲村って人を記念してつくられた図書館なんだろうぜ。甲村ってのがどういう人なのか俺にはさっぱりわからねえけどさ」
「ホシノさん」
「なんだい?」と星野さんは地図を調べながら答えた。
「あそこであります」
「あそこって、何が?」
「ナカタがこれまでずっと探しておりましたのは、あの場所であります」
星野さんは地図から顔をあげ、ナカタさんの目を見た。それから眉を寄せて図書館の門を見た。看板の文字をもう一度ゆっくりと読んだ。マールボロの箱を取り、一本を振り出して口にくわえ、プラスチックのライターで火をつけた。煙をゆっくりと吸い込んで、開いた窓から外に吐き出した。
「はい。間違いありません」
「たまたまというのは恐ろしいもんだね」と青年は言った。
「まことにそのとおりであります」とナカタさんも同意した。

このシーンを、私はよく反芻(はんすう)します。探しものにめぐり合うときって、本当にこんな感じです。探していたものが見つかる、というよりも、むしろ出会ったあとで、それを探していたことに気づく。原因と結果が逆立ちする感覚。

今の世の中には検索エンジンという便利なものがあります。キーワード検索で、必要な知識・情報が簡単に手に入ります。辞書や百科事典はもちろん、各種家電の取扱説明書など、手元にそろえておく必要すらなくなりました。

でも、逆に言えば、その仕方では知識・情報しか手に入りません。もう少し深いところで共感したり、人の心とつながりたいとき、検索エンジンはむしろアダとなります。意識して探せば探すほど、心がおいてきぼりになる。智に働けば角が立つ…

noteの記事も、ハッシュタグで検索できます。でも、私はこの仕方で心にヒットした経験がありません。こっちから見つけに行ってばかりでもダメだし、かと言って、向こうからやってくるのを待ってばかりでもダメだし…

目の前に偶然現れた「何だこりゃ」をクリックしてみたら、自分の心が求めていた記事だった。ヒットするときは、たいていそんな感じです。出合いがしらの衝突のあとで、自分の心に気づく…

…ナカタは、正直に申し上げまして、これまで何かをやりたいと思ったことはありません。まわりからやれと言われたことをそのまま一生懸命やってきただけです。でも今は違います。ナカタははっきりと普通のナカタに戻りたいと願うのです。自分の考えと自分の意味を持ったナカタになりたいのです。

それまで受動的な生き方をしてきたナカタさんは、34時間もコンコンと眠りつづけた後で決意表明します。そこで、近頃放送されたテレビ番組につながります。

内側で起きる偶然

ナカタさんとモモには共通点があります。

話し上手ではなく、聴き上手
自分次第ではなく、相手次第の生き方
長時間眠ったあとで、主体として立ち上がる

河合俊雄さんによれば、ナカタさんやモモの立ち上がりは、仏教の「自然(じねん)」という概念で説明できるそうです。

自然の「自」という漢字には、「みずから」と「おのずから」の二つの意味があります。「みずから」は主体的な意志。「おのずから」はものごとが勝手にそうなること。自然とは、その2つが合致するときのことです。

「みずから」ばかりだと空回りし、「おのずから」を待っていると何も起こらない。伊集院光さんは、かつての師匠、六代目三遊亭円楽さんからこう教えられたそうです。「果報は寝て待て」ではなく、「果報は練って待て」。よい知らせは、「みずから」と「おのずから」のコラボレーションによってもたらされる。

ユング心理学的に言えば、「みずから」は自分の意識=自我、「おのずから」は自分の心全体=自己に相当するのだそうです。意識と心の一致。自我と自己の一致。

早すぎたアクションがうまくいかないのは、そこにあるのが器量の狭い自我だけで、「おのずから」が伴っていないからです。… 厳しいいい方をすれば、早すぎたアクションとは、既成のやり方やシステムを参照しただけの浅はかな考えから生まれるものです。それがうまくいかないのであれば、一度すべてを無にしなければなりません。すべてがなくなったところから立ち上がることが重要なのです。大事なところでモモが眠ってしまうのは、その大切さを表すためだと思います。主体が立ち上がるということは、自我だけではなく、「星の時間」をつかんだ自己を含めて立ち上がることなのです。

恋愛に欠かせないのはフィーリング・タイミング・ハプニング… なんて言いますよね。それって偶然の3要素みたい… だったら、恋愛ばかりでなく、なんだってそう言えるのかもしれない。一回リセットしたあとで、勇気を奮って立ち上がったとき、何が起きるのか?そして、何を感じるのか?

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