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星空への憧憬

星空を探していた。
降り注ぐような、星空を。
手を伸ばせば触れられそうな、星空を。


 石垣島に行った。北海道にも行った。オーストラリアにも行ったし、ニュージーランドにも行った。ベトナムの地方都市にも、“日本一の星空”と謳われる那智村にも行った。

 けれど、一度も思い描いていた星空に出会えたことがない。どこの星空も、あまり覚えていないのだ。

 いや、本当は覚えていないのとは少し違う。どの星空も、ずっと記憶の中の星空には敵わなかった。12の秋、広島で見上げたあの星空には。

・・・

 小学6年生の11月、修学旅行は広島で平和学習だった。

 1泊2日の旅程は、1日目に平和記念公園を周り、瀬戸内海に浮かぶ離島(おそらく小豆島だったと思う)へ移動、翌日は朝から自然の中で平和を体感する構成だった。過去の惨劇と今の自然豊かな時間と環境、その両方を通して平和を考える。とはいえ、メインは1日目の平和記念公園で、2日目はお楽しみコンテンツという側面が強かった。

 原爆に関する学習には先生方もかなり力を入れ、事前学習にしっかり時間をとった。社会科の授業に加え、班ごとの調べ学習。さらに授業3回分を使って「10フィート運動」で作られたドキュメンタリー映画『にんげんをかえせ』を視聴した。映画をみた日の夜は、決まって眠れなくなった。当然、修学旅行当日は広島平和記念資料館へ行くわけだが、映画だけでもういっぱいいっぱいで、資料館なんて見て回れるのか、耐えられるのだろうかと怖かった。

 それでもやはり同級生と行く修学旅行は楽しみだった。夜は誰とベッドを隣にしようか。お菓子は何を持っていこうか。どんな服を持っていこうか。日が近づくにつれ、みんなワイワイと盛り上がった。

・・・

 修学旅行当日。新大阪駅から新幹線に乗ってお菓子を食べながら話していると、あっという間に広島駅に着いた。そこからクラスごとにバスに乗り込み、平和記念公園へ向かう。

 原爆ドームが見えてきたとき、「本当に、あるんだなぁ」という驚きと、「きれいだなぁ」と思った記憶がある。きっと、資料や映画で瓦礫の中の原爆ドームを見てきたから、緑豊かな平和公園で川のほとりに建つ姿は、そのイメージと違って美しく見えたのだろう。

 それでも、平和記念資料館に入る前は、緊張した。

・・・

 資料館では、それまであんなにワイワイと話していたのが嘘のように、誰一人しゃべらなかった。静かにするべき場所だから、ではない。展示の数々に、とうてい言葉を発せられないのだ。見たくない。怖い。だけど、見ないといけないという気持ちもある。目を逸らせない。静かに、ゆっくりと、展示の一つひとつを見て回った。

 特に記憶に残っている展示がいくつかある。熱で原型を留めずひしゃげた飯盒なのか水筒なのか。放射能で一瞬にして消えた人の影が焼きついた階段。被曝による白血病で亡くなった佐々木貞子さんが、病床で折り続けたという小さな小さな折り鶴。そして、2019年のリニューアルに際し撤去された、被曝再現人形だ。

 正確に言うと、被曝再現人形が実際どんなものだったかは、20年以上経った今はほとんど覚えていない。それよりも写真の数々や影の焼きついた階段など、実物の展示のほうが残っている。

 けれど感情の記憶としては、被曝再現人形が一番強烈だった。12歳当時、肌が焼けただれ煤だらけになり苦しみながら歩く人の列を模した人形は、瞼の裏に焼きついて、その後一日中、目を瞑れば前をあの人の列が歩いている様子が見えてきた。それくらいに、強烈だった。

・・・

 その日の夜は離島の宿泊施設で夕食をとり、少し休んだら、天体観測の時間が予定されていた。観測スポットまで街灯のない道を行くので、懐中電灯を片手にクラスごとに集まった。

 星が大好きだった私は、この時間をものすごく楽しみにしていた。

 しかし、その日は見に行く気が起きなかった。暗闇が、資料館を思い起こさせて怖かったのだ。展示の数々が焼きついて、現代にのうのうと生きていることに罪悪感を抱き、暗闇に飲まれたらこれまでの日々のほうが夢で戦中になってしまうのではないかとすら感じていた。

 顔を上げてしまうと、暗がりの向こうであの人形が歩いているのが見えてくる。その残像を振り払おうと、ひたすら前の子の背中と足元だけを見ていた。「暗いのが怖い、展示を思い出しそうで嫌だ」と言う私に、同級生は笑って「大丈夫、大丈夫。考えすぎ」と言ってきたけれど、理屈ではわかっていても、そう簡単に割り切れるものではなかった。

 どれくらい歩いただろうか。宿泊施設から離れて光がほとんどない広場に到着し、先生の指示に従って整列した。施設の担当者さんが「では、ここで上を見てみましょう」と言う。そこで初めて、ずっと足元を見つめてきた視線を、空に上げた。


 ことばを、失った。


 そこには、無限の空間が広がっていた。チラチラと星が瞬いている。うっすらと天の川も見えた。手を伸ばせば、星が掴めそうな気がする。

 一つや二つくらい星座を見つけられるだろうと思っていたのに、むしろ星が多すぎてわからない。

  でもそんなことどうでもいいほどに、うれしかった。生きていてよかったと思った。赦された気がした。

  夜空は明るいのだということを、はじめて知った。

 その後、どうやって宿に帰ったのかは覚えていない。とにかく、ずっと星を見ていたかった。

・・・

 それからずっと、あの日見た星空をもう一度見たいと追いかけてきた。

 地方に行けば、街明かりの少ないところに行けば、あるいは最新のプラネタリウムならば……。いつしか、夜に外へ出れば特に理由もなく空を見上げてみるのが癖になった。

 けれど、一度もあの星空には再会できなかった。もう一生、見られないのかな。もう少ししっかり、記憶に残しておけばよかったな。28歳くらいには、そう考えるようになっていた。

・・・

「夜のみなとみらいに、行こう」

 特に理由はなく、そういう話になった。コロナでいろいろなことが制限される世の中になって、早2年。遠出もあまりしていないし、夜景も星空も見ていない。少し塞ぎ込んでいた私は、気分が変わればと思った。

 赤煉瓦やコスモワールド、大さん橋、山下公園、中華街、少し離れた工場地帯。横浜の夜は美しい。人出は多くはなかったけれど、ところどころで写真を撮りに来ている人たちを見かけた。私も幾枚か写真を撮ってみた。夜景は難しい。スマートフォンのほうがきれいに撮れる。まだまだカメラは勉強が必要だなぁ、と思った。カメラを握ること自体が少し久しぶりだったので、そう感じられたことがちょっとうれしかった。

 そのまま「港の見える丘公園」まで移動した。さっきまで通ってきた街が一望できる。赤に白い光、オレンジの光。ぽわんと輝いて、きれいだなあとため息をついた。6畳・日差しの入らないワンルームから抜け出し、夜の横浜を見にきてよかったと思った。

 特に理由はなかった。ただなんとなく、ふと、空を見上げた。

「あっ……」

 そこには、深い紫の空と、チラチラと瞬く星が半球のドームのように広がっていた。オリオン座が堂々と、頭上に覆いかぶさっている。恋焦がれた、広い夜空が、星空が……。息を呑んだ。

 期待していたわけではない。横浜なのだから空はそれほど広くないだろうし、夜景の明かりで星もほとんど見えないだろうと思っていた。

 それが、それが。ひらけた夜空から、小さな星たちがチロチロと、その存在を証明するように光を送ってくる。最初は2等星くらいまでしか見えなかったのが、徐々に目が慣れてきて3等星くらいまで見えるようになってきた。

 それまでのどこか塞ぎ込んでいた心の膜が、するりと剥け落ちる。胸中に温かい空気が込み上げてきて、うれしいのに、なぜか泣きそうになった。けれど、ふへへと笑いながら、涙をぐっと堪える。ここで泣いてしまったら、せっかくの星空が滲んでしまうではないか。

 写真を撮ろうとは思わなかった。スマホで撮ろうとも思わなかった。ただただその光の残像を目にしていたかった。

・・・

 ずっとずっと探していた星空。地方や海外でも見上げてきたのに、こんな街中に、こんな近くに見つけられたなんて。なんだか青い鳥みたいだと、笑えてくる。

 星の数だけで言えば、到底12歳で見上げた広島の離島の星空には敵わない。同じ星空のわけがない。けれど、この日見上げた夜空は、私にとって同じくらいに大切な空の記憶になったのだ。

 そうして、気がついた。私がずっと探してきたのは、追い求めてきたのは、星空そのものではなかったのだと。 

 修学旅行で見上げた空が輝いて見えたのは、きっと星空のおかげだけではない。一日の平和学習を通していろいろ感じ考えていた、そこに届いた光と景色だから、心が揺れて記憶に刻み込まれたのだ。

 その「心の揺れ」を、ずっと求めて探していた。

  きっと私が空を見上げたとき覗いていたのは、目の前の星空ではなく、過去の自分の記憶と心なのだ。だから、記憶に残る星空に出会えずにいたのだ。

 そうじゃない。今の自分に、今目の前に広がる星空に向き合わなければ。そうしたらきっと、今日一日限りの特別な、心に触れる星空に出会えるのだ。その星空はあの日とは違うけれど、同じくらい大切な記憶に輝く。

 “同じ”を追ったら、くすんでしまう。どの星空も“一度きり”で特別なのだ。

 瞳の奥で、再び星が輝きだした。


星空を探していた。
降り注ぐような、星空を。
手を伸ばせば触れられそうな、星空を。

だけど、満天の星があるのは
空じゃなかった。

そっと目を閉じて。自分を探して。
探していた星空は、私の中に浮かんでいる。

また、星空を観に行こう。

12歳のあの星空とは違う
一つだけの星空を。

今の私だから、今の心だから
今、隣にいる人と一緒だから観られる
一度きりの星空を。

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