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手放せない理由

はじめに

 もともと、私が物書きをするようになったのは(お金かけなくてもできる趣味ないかなー)と思ったところがスタートだった。作文は好きだったし、口に出してはとても言えない空想や妄想はいつも考えていた。それに、具体的な作品名こそ忘れたけど、たまたまブックオフで買ってきたその本を読み終わって、私はふと考えたのだ。

 これで本になるなら、自分にもなんか書けるかも。

 いま考えてみれば相当失礼な話だけど、あれを読まなかったら、今頃は休みの日の空白をどうやって埋めていたのかわからない。
 感謝、感謝。

 なお、私はゲームをやらない、漫画は読まない、運動しない、お金ない……と「ないないづくし」の人間だ。ゲームをやるならせいぜいシミュレーションゲームくらいだろうか。休みの日まであれこれ脳味噌使いたくないし、RPGはレベル上げがかったるくて、いつも中盤にさしかかるあたりで飽きる。

 実は、オンラインゲームを一緒にやろう……と実生活の知人に誘われたこともあるが、私はそもそもゲームなんて自分のしたいときにしたいだけやるものだと思っている。「毎日何時になったらここへ来い」なんていう拘束は仕事だけでいい。
 いや、よくない。会社に勤めなくてもごはんが食べられる人生を送りたいとはいつも思っている。つまり「拘束されることは、仕事はOKなの?」という問いには全力で「ノー」を突き付けたい。


閑話休題。

 実際に小説投稿サイトに作品をぽいぽい投げるようになって、早いもので数年が経つ。最初の頃こそ、作品中で登場人物に「大好き」と喋らせるだけでもこっ恥ずかしくて、いやー……と頭に手をやった拍子に傍らのコップを倒し、本当になにやってんだ私……と思ったこともあった。今では普通になんでも喋らせるし、やらせられるようになったのだから、多少は成長したのかもしれない。

 その中で、他の作家さんともTwitter等で繋がったりして、それで作品とかも読んじゃったりして(あっだめだこれ。自分ぜんぜんだめだ)と思うことも多かった。
 もともと自己肯定感が限りなく低いので、自分の作品に拍手が全然来ないとか、自信のあった作品がコンテストで箸にも棒にもかからないとかが積み重なって、趣味であるはずの創作のせいで余計に心が蝕まれる……という状況に陥ったこともあった。


 けれど、私は最近、はたと気づいたことがある。

 待ってちゃだめだ。
 自分から行かないとだめなんだ、と。


動け、自分。

 私はヘッポコ物書き「西野夏葉」としてもそうだし、実際の人格もそうなのだけど、自分から行動を起こすのが苦手だ。
 これまでも、たまたま私の作品を読んでくれたことがきっかけで仲良くなった人の作品くらいしか読まなかったし、実生活でも「やりなさい」だけだと動き出せない。
 そして「早くやれ」でも動けない。
 最終的に「やれや!!ぶっ殺すぞ!!!!」くらいでようやく身体をのばしながら(うーぃ。始めるかぁぃ)とかやっているレベルだ。

 何より重要なポイントとして、物書きとしても、ひとりの人間としても、私のポテンシャルは決して高くないということ。


 ちょっと考えたら、すぐに答えはわかった。

 そんなやつの作品が、黙ってるだけで読まれるわけないじゃん。

 自分から動かないとさ。


自分からもっと絡んでいけ。ミートソースのように。

 小説投稿サイトって、私からしてみれば要は個人商店の寄合みたいな感じだし、ライバルではありつつ、同じ痛みや苦しみを分かち合える人たちがそばにいるってことで、それはとてもいいことだなあと思う。

 私は実生活中において、趣味で小説を書いていることは伏せている。実際に私の身に降りかかったことも(嘘を粉雪のようにふりかけて)作品にしているからだ。

 でも、仮にリアルの知人たちに「書いてるとここがしんどくてさあ」なんて話をしたところで、私の抱えている悩みや苦しみなんて1ミリも伝わらないだろう。彼や彼女らも実はこっそり書いてました……とかなら別だけど。
 むしろ「そんなに辛いならもっと違うこと趣味にしたらいいじゃん」なんて言われようものなら、彼氏の浮気現場に現れた本カノみたいに横っ面を張りかねない。

 ここまで書いたところで(マジでやりそうだな)と思ってしまって、私にとって「小説を書くこと」という行為が、単純な趣味を超えて、いつのまにかそういう大切なコトになっていたのだなあ……なんて、いま急に実感した。

 そうした「物書きならではの喜怒哀楽」を共有できたり、互いの作品を読み合ったり褒め合ったりして、互いの自己肯定感をカンストさせられるのが、他の作者さんとのコミュニケーションなのだと思う。
 私は、エブリスタ一本で書いていた頃はほとんど他の作者さんとのコミュニケーションってしてこなかったけれど、monogataryでも書くようになってから、たくさんの作者さんと出会うことができた。
 そうして多くの人に私の作品を読んでもらえるようになって、かつ私も自然と他の作者さんの作品を読むようになって、少しずつ自分自身のレベルアップにもつながっているような気がする。結果が出るのはまだ先になりそうだけど。


 なにより、他の作者さんの作品を読むたび、昔はすぐ(マヂ無理。。。ぁたしにこんな文章書けなぃょ。。。筆折ろ。。。。。)と思っていた。

 しかし最近は「この人の文章すごい好き。どう生きてきたらこんなこと書けるの? いつも不死鳥のモモ肉とか食ってんのかな」と、違った見方ができるようになった。
 その結果「いやいや!私も負けてらんないっしょ!!」と一念発起するきっかけになっている。これは、同じ創作というフィールドで戦っている他の作者さんと出会うことができたからこその効果だ。
 ありがとう。いい薬です。


もっと積極的に他の作品を読め。コトバや表現の引き出しを増やせ。

 プロの小説家の方の本を読んだり、投稿サイトの作品を読んだりしても、たとえば「言った」とか「見上げた」とかいうひとつの動作を表すのに(こんな表現のしかたがあるんだ)と驚くことが多い。

 そういうのって、単純に自分の頭の中でポンと思い浮かぶ能力っていうのは本当に「才能」の部類であって、それが自分にないのなら、まだ自分の知らなかった言葉や表現にたくさん触れて、自分の引き出しを増やしていくしかないと思う。

 もともと、本を読むのは好きだ。だから私の家の本棚には、買ったけどまだ読んでいない本も結構眠っている。最近は書くのばかりに意識が向いて、なかなか新しいことに触れることが少なくなっていた。
 幸か不幸か、今はこういう時勢になっているし、たまの休みをずっと家で過ごすことへの罪悪感もそれほどない。書くのに煮詰まったら、買ったきり未だシュリンクに包まれたままの本を手に取ろうと思う。

 最終的には「千と千尋の神隠し」に出てくる釜爺みたいに、なにか違うことをしながら、爪先で部屋の壁じゅうにつくられた引き出しを開いて、言葉を散りばめる……みたいになるのが目標です。
 えーんがちょ!

 ……失礼しました。


さいごに

 以前、趣味であるはずの創作活動が重荷になってしまった……みたいなことを最初の方で書いた。

 最近は考え方が変わってきたのでだいぶラクにはなったけれど、時々衝動的に全部ぶっ壊してしまいたくなることは、今もある。コンテストへの入賞を逃した時とか、自分よりもずっと拍手やスターをもらっている人が「読まれない」と嘆いている場面に遭遇した時とか。これだけ反応が返ってきてんのに「読まれない」なんて言うのなら私なんてクソじゃん、と思ってしまう。

 それでも捨てられずに、なんだかんだ言って今も大切に胸に抱えているのが、私にとっての創作活動だ。

 好きなことも得意なことも何もないと思っていた私が、時間を忘れて真剣に取り組めることを、やっと見つけることができたのだ。
 これを手放すと、もう死ぬまで何も見つけられないかもしれない。


 そう考えると、もう簡単に捨てられるようなものではなくなったから。

 最後の最後になって、たとえ誰にも見向きもされなくなったとしても、自分だけは自分の作品をずっと「好きだ」と言い続けたいと思った。

 
 なんか重苦しくなっちゃってすみません。
 6連休がもうすぐ終わると思ったらしんどくてね <台無し




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