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学生時代の物事の見解

「道徳の授業には正解はありません、みんなだったらどんな気持ちになるかな?」
小・中学校の先生たちにそう教わりました。

私の故郷の愛媛県では道徳の教材として『心のノート』が使用されていましたが、
中には心あたたまるお話や、少し複雑で容易にはコメントしづらい題材が多く掲載されていました。


また、同じ先生たちは国語の授業ではこう言いました。
「筆者の気持ちを述べよ、またこの時の主人公の気持ちを答えなさい。」

道徳の授業ではあんなに挙がっていた手も、不思議と少なくなるもので。
先生は、どこか困った表情を浮かべ生徒たちを見るのです。

(先生たちもたくさんの準備をしてくださった上で、授業に臨んでくださっているのを、友人が先生になって初めて裏側を知り、頭が下がる思いでいっぱいです。)(友達のみんなー!ちゃんと頑張ってるところ、遠くにいるけど見てるし応援してるよ!)


話は戻って、なぜどちらも物語の中に主人公がいて、生活があって、
とあるエピソードが取り上げられている事は変わりないのに正解があるものと、
私たち読み手が主人公になりきって答えて全て感じ取れたものはそれが全て。

そう認められるもの・認められないもののどこか分かっているようで理解し難い壁に当時は、真剣に悩まされていました。


どうして?
考えすぎる性格が故に、いろんな角度でいろんな生活背景のある主人公が想像ついてしまって本題であるエピソードに対する正解から逸脱してしまうんですよね。想像膨らましすぎってやつです。

ただ、あの頃は進みすぎている想像に自分自身追いついていなかったので
テストは毎回自信満点の結果、配点の高い問題であるにも関わらず正答率は低かったですね。(クラスの正答率は高いのに。)


そんな真剣に悩み続けた学生生活の数年間でしたが、それもあっけなく終わりが来るもので。

あら不思議。
大人になったら物事の本質さえ捉えられていれば、感情は様々でいいことをまなびました。(あれは、”物事の本質”を捉えるトレーニングだったのか?)

これは日本の教育に対する大人になりたての人間の感想のごく一部にすぎなくって。海の向こうでは、どんな文章読解力トレーニングが行われているんでしょうか?


ある時の職場にきた留学生のお客さんがこう言ってました。
「日本の教育はレベルが高い、だから私は日本で教師になりたいと思う。」と。

どんなものや瞬間、出来事にもいろいろな見解があっていい。
まさにこの事かもしれませんね、世界ってこれだから飽きないですね。

2023/12/04 Wio Yamasaki

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