新しい時代に生まれた人的資源を消費する単純労働は、新時代の波に飲まれる

昨今はAIや自動化を意識する時代となってきた。

しかしながら自動化により仕事が無くなる可能性は常にあったはず。

例えば昭和には普通にあった仕事が、コンピューターの開発などの自動化で無くなった仕事があると思う。

平成生まれの人が労働者となる頃には跡形も無かっただろう。

こうして消えていった仕事は、その時代には無くてはならない仕事だったはずだが、比較的誰でもできる仕事で、自動化する事により大幅なコストカットを実現できる仕事だと思う。

比較的誰でもできる労働で向き不向きはあれど、日本語で意思疎通ができれば行える仕事が多い。

これらの仕事は個人の努力の結果を評価すると言うよりは、1労働力として働いた分の対価を給料として支払うカタチ。

何も考えずに労働力を提供するのは楽だが、いつの日か自動化の波に飲まれる。

経営者からすると労働力の形は人でもロボットやAIでも品質が変わらないのならば、どちらでも良いからだ。

それならば労働力に個体差があったり、病欠したり、文句ばかりだったりする人間という労働力より、命令を与えれば消耗品交換などのタイミングまで動き続けるロボットやAIを選ぶのは至極当然という訳だ。

これを逆手に考えるのならば、”人”に価値のある仕事は自動化の波に飲まれない。

時代は進化していくので、今まで通り変わらずに人としての価値がある仕事をするか、令和に生まれる新しい仕事に価値を見出すかが重要となる。

しかしここでお題に戻るが、”新しい時代に生まれた人的資源を消費する単純労働は、新時代の波に飲まれる”のである。

平成後期や令和に台頭する新しい職に就くのであれば、”人的資源を消費する単純労働”は避けて、人に価値のある立場を目指すべきだ。

もし、そういった職業で人より秀でる才が無いのであれば、昭和・平成とカタチを変えずに続いてきた仕事を選択してみるのも良いと思う。

これらの仕事は恐らく令和でも、新時代に適合して残り続けるだろう。

そしてこれらの仕事は俗に不人気な職業と言える。

新しい事に人が群がる時代にあえて古臭い仕事をしてみるのも良いかもしれない。

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